聖霊とキリストによる自由な聖書解釈

池田真理

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 前回、罪人は誰かという話をした時に、少しだけ性的少数者と教会の問題に触れました。同性愛は罪だということが聖書に書いてあるのだから、教会は同性愛者を受け入れるべきではないと考える人たちがいるとお話ししました。確かに、旧約聖書にも新約聖書にも同性愛を禁じるという記述があります。聖書を一言一句間違いのない神様の言葉だと信じるなら、そういう記述もその通り実行しなければいけません。でも、前回も言った通り、私はそれが正しいと思っていません。聖書は神様の言葉であることには間違いありませんが、それは天から降ってきて自動的に文字が浮き出てきたということではありません。昔の人たちに神様の霊が注がれて書き記されたのが聖書です。だから聖書は、それが書かれた当時の時代背景、著者の置かれた具体的な状況を考慮した上で、神様の霊によって解釈されて初めて意味を持ちます。信仰によって解釈するとも言えます。正しく解釈されなければ、聖書は生きた言葉にはならず、反対に人を傷つける道具にもなります。人間の都合の良いように利用されてしまうこともあります。同性愛を罪だと決めつけるのは、私は聖書を正しく解釈していないからだと思っています。
今日読んでいくガラテヤの箇所では、パウロが同時代のユダヤ人からすればとんでもない聖書解釈をしていることが分かります。パウロはそれまでの聖書解釈を覆しました。それは人間が聖書の文字の中に埋もれさせてしまった神様の言葉を、パウロがもう一度掘り起こしたと言えます。このことはBの部分でお話しすることになります。AとCの部分では、なぜパウロにそんなことができたのかが分かります。またそれは、私たちにもそれができるという希望を与えてくれると思います。それでは最初に1-5節です

 


A. 聖霊の体験

1. 自分の力で信じたのではなかった(1-5)

1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

 ガラテヤの人たちは、聖霊様によるとても不思議な経験をしていたようです。彼らが最初にイエス様のことをパウロから聞いて信じた時、おそらくペンテコステの時のように、超自然的な出来事が起こりました。それは、ガラテヤの人たちに、パウロの教えている神様はいるという確信を与えました。パウロは、その時あなたたちが持っていた確信と喜びを思い出せと書いています。その時あなたたちは律法を知らなかったし、その不思議な体験が自分の力によるものではないと分かっていたはずだと呼びかけています。
私たちにとっても神様を信じるということは、第一に私たちの力ではなく神様の働きです。私たちは一人ひとり、自分が初めてイエス様を信じた時のことを時々思い出す必要があると思います。イエス様は本当にいるんだ、自分のことを知っておられるんだと初めて分かった時、私たちは「ついに自分の努力が報われた!」と喜んだのでしょうか?そうではないと思います。イエス様と私たちの関係は、私たちが頑張って獲得したものではなく、神様が与えてくださった恵みです。他の人の言葉を通して、また様々な経験を通して、私たちに与えられた恵みです。それはすでに私たちに聖霊様が注がれていたということでもあります。でも、前回もお話ししたように、人間はどうしても因果応報の考え方に流れます。良い行いによって神様の恵みを勝ち取ろうと考えるようになります。良い行いによって神様に喜んでいただきたいと思うのは間違っていませんが、そこにはいつも、自分の行いによって神様に選ばれるのだという間違った誇りを持つ危険がひそんでいます。そして行いの良し悪しによって他人も裁くようになります。私たちは誰も自分の力でイエス様を信じているのではないということ、聖霊様が注がれて信じたのだということを覚えておきましょう。

2. 見えない神様を信じる力 (6, 創世記 15:1-6) 

6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

 これは創世記15:6の言葉です。もう少し詳しく知るために、創世記15章を開いてみたいと思います。15:1-6です

(創世記15:1-6) 1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラハムには長い間子供がいませんでした。神様がこの約束をアブラハムに告げた時、彼はすでに80歳くらいになっていました。そして、この約束が実現したのは、さらに少なくとも15年は後のことです。自分と妻は子供ができるには年を取りすぎていると、アブラハム自身も笑ったとも書かれています。それでも、彼は神様とのコミュニケーションをやめず、聞き従おうとしました。それが彼の義と認められたということです。ここに、パウロが信じ、私たちが信じる、信仰とは何かということがあります。私たちが神様を信じるということは、最初から、目に見えない神様を信じ、まだ実現していない神様の約束を信じるということです。私たちは、神様が願いを叶えてくださったから信じたのではないし、願いを叶えてもらうために信じるのでもありません。状況が良くても悪くても、神様はおられ、私を愛しておられると信じ続けることが、神様を信じるということです。それはいつも一点の迷いも不安も持ってはいけないという意味ではありません。迷いや不安があっても、神様は正しく良いことをなさると信じ続けることです。それは実際、人間にはとても難しいことです。でも、それをできるようにしてくださるのが聖霊様の力です。そして、その根拠となる出来事が、今日最後にお話しすることになる、イエス様の十字架です。でもその前に、7節からのパウロの聖書解釈についてお話ししたいと思います。まず7-9節です。


B. 自由な聖書解釈

1. アブラハムによる祝福? (7-9)

7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

 8節でパウロが引用しているように、創世記には、アブラハムによって世界中の民族が祝福を受けるということが繰り返し言われています。このことはずっと、ユダヤ人にとっての誇りでした。アブラハムの血を引く民族、イスラエルの民、ユダヤ人が、世界中に祝福をもたらすために神様に選ばれた民であるという誇りです。そして、ユダヤ人以外の民族はユダヤ人の信仰と生活を受け入れることによってのみ、同じ神様の祝福を受けられると信じていました。それが、ユダヤ人の聖書解釈の常識でした。だから、ガラテヤの人々もユダヤ人の生活を受け入れて、正式にアブラハムの子になりなさいと教えられていました。
でもパウロは、このユダヤ人の聖書解釈が間違っていたことに気がつきました。それは、パウロ自身の信仰によります。また、パウロをそのように導いた聖霊様の力によるとも言えます。彼は自分の信仰は自分で獲得したのではなく、神様によって与えられた恵みだと知っていました。それは、迫害者から宣教者に180度人生を変えられた彼だからこそ持つことのできた確信だったかもしれません。パウロは聖霊様に導かれて、信仰に基づいて、聖書を読み直しました。アブラハムの優れていた点は何か、なぜ神様はユダヤ民族を選ばれたのか。そして、気がつきました。アブラハムもユダヤ民族も、もともと優れていた点はなかったのです。アブラハムが選ばれ、ユダヤ民族が選ばれたのは、彼らが他と比べて何かが優れていたからではなく、神様が一方的に彼らを選んだだけでした。優れているとされたのは、彼らが神様に選ばれた後の反応でした。彼らは、神様の選びに答えて、神様を信じたという点においてだけ、神様に喜ばれたのです。だからパウロは、アブラハムの子というのは、アブラハムの血を引く民族ではなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ人全てだと解釈し直しました。それは当時の多くのユダヤ人にとっては受け入れがたい解釈でしたが、間違っていたのはユダヤ人の方でした。
パウロの聖書の再解釈は続きます。10-12節です。

2. 「律法を守らない者は呪われている」?(10-12)

10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

 10節「律法の書に書かれている全てのことを絶えず守らないものは皆、呪われている」ユダヤ人なら、だから律法を全て守らなければいけない、と当然考えました。12節も同じです。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」だから律法に従って生きよう、とそれまでは考えられてきました。でもパウロは違いました。彼は、律法を全て守って生きることは人間には不可能だという前提に立っています。そして、律法を全て守らないなら呪われている、その通り、私たちはみんな呪われていると言います。また、律法によって生きようとするなら、律法にしばられていることになり、信仰によって生きていることにはならないと言います。行いによって神様に認めてもらうことは不可能であり、それを目指すことは偽善でしかないということです。
このように、同じ聖書の言葉を読みながら全く違う解釈ができてしまうのが、聖書を読むときの注意点だと言えます。正しく読まなければ、人を生かす神様の言葉は、人を神様から引き離す呪いの言葉になってしまいます。また反対に、正しく読めば、人間の限界をはるかに超えた神様の言葉を読み取ることができます。今までどう解釈されてきたかは参考にはなりますが、時には劇的な再解釈が必要な場合もあります。その意味では、聖書は難しい本だと言えます。でも、聖書を正しく読むために必要なのは、断じて聖書の知識ではありません。必要なのは信仰です。イエス様を知って間もない人の方が、何十年も聖書を研究している学者よりも正しい聖書の読み方をしている場合もあります。大切なのは、聖書の知識よりも信仰です。イエス様が自分のために死なれたと信じること、そして、聖霊様によって自分は生かされていると信じることです。聖書の知識は、信仰の助けにはなっても、信仰の代わりには決してなれません。
それでは最後になりますが、私たちの信仰の根幹の部分についてです。13-14節です。


C. キリストの死の意味 (13-14)

13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。

 パウロが大胆な聖書の再解釈をできた最大の根拠がここにあります。イエス様が私たちの代わりに呪われた者となり、死なれたという事実です。昔も今も、神様の前に正しい人は一人もいません。どんなに努力をして良い行いを積んでも、神様の目に完全な人は誰もいません。私たちは神様にただ憐れみを乞うしかない存在だということです。それなのに、私たちは偽善で神様をだませると考えます。それが私たちの罪であり、律法の呪いです。神様を信じていようといまいと、この傲慢さは私たち全員が持っている罪です。ここから私たちを救えるのは、神様ご自身のほかにはいません。そして神様がそれを実現されたのが、イエス様の十字架でした。イエス様が死なれたのは自分の罪のためだったと信じることにより、私たちは罪から解放されました。律法の呪いはもう私たちを支配することはなくなりました。私たちは自分の力で神様に正しいとされることは決してありませんが、イエス様を信じることによって正しいとみなされているのです。だから、イエス様を信じることと、自分の力で正しく生きようとすることは、決して両立しません。自分の力で正しく生きることができるなら、イエス様が死なれる必要はなかったことになります。それは、イエス様を信じていることにはなりません。私たちの、そしてパウロの信仰の根幹はここにあります。イエス様が自分のために死なれたという信仰です。
この信仰によって、パウロはユダヤ人の常識から自由になって大胆に聖書を解釈し直しました。私たちも信仰によって、聖書の文字の中から語りかける神様に耳を傾けましょう。イエス様の愛と聖霊様の力を信じれば、私たちには誰でもそれができます。反対に、自分の主張の根拠とするために聖書を使うのはとても危険な行為です。そういう聖書の使い方をしている人たちには注意してください。


メッセージのポイント

イエス様の死と聖霊の注ぎという事実が、パウロの聖書の読み方を変えました。それは、神様の言葉の再解釈と言えます。私たちも、自分の信仰がただ神様によって与えらえた恵みであり、自分の行いによって獲得したものではないと知り、聖書を正しく解釈しましょう。

話し合いのために

1) 私たちが見習うべき、アブラハムの信仰とは?
2) 聖書を解釈するとは?

子供たちのために

聖書は神様の言葉です。でも、聖書に書かれている言葉の一言一句を文字通りに守らなければいけないという教えは間違っています。聖書は正しい信仰によって解釈されて初めて意味を持ちます。正しい信仰とは、イエス様が自分のために死なれた神様だと信じる信仰です。子供達は聖書は難しいと思っているかもしれませんが、大人も同じです。聖書は読んですぐに分かる簡単な本ではありません。それでも、信仰を持って読むなら、神様は私たちの心を開かせて、必要な励まし、戒めを教えてくださいます。反対に聖書をただの本として読むなら、人を傷つける武器にもなってしまいます。(たとえば1コリント14:34~を取り上げてもいいかもしれません。「34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」→これをこのまま読んだら女性差別にしかなりません。)