永原アンディ
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第一礼拝 (日本語)
第二礼拝 (日本語 / 英語)
味わえ!見よ!主の恵み深さを!(詩編 34:1-11)
今週と来週は詩編34編を二回に分けてお話しします。今日は1-11節までを取り上げます。この詩は原語では、段落の最初の単語の最初の字がアルファベットを順番に配するという技巧を使った歌でした。もちろん英語にしても日本語にしてもそれを生かして訳すことは不可能なので、私たちはその内容を味わうことしかできません。ただ、礼拝の歌にそのような工夫がなされたことの意味は、今日のお話に関係しています。歌や詩には、歌いやすい工夫、聴きやすい工夫がなされています。英語の詩や歌なら脚韻をふむ (rhyme)、日本なら5-7-5の俳句のように音の数を合わせる、といったものです。これらがあることによって、歌いやすく、覚えやすく、内容が心に残りやすくなります。形式にだけとらわれるのも問題ですが、うまく使えば礼拝 – 主と私たちのコミュニケーションの質を高めるのに役立ちます。主の恵み深かさをもっとよく味わい、見るために役立ちます。 しかしそのためには技巧よりもっと追い求めるべきことがあります。それは主に向かって歌うこと、主がしてくださったことを思い出すこと、もっとよく主について知ることです。順番にお話ししていきます。まず、歌うことによって主の恵み深さをもっと味わい、見るということから始めましょう1-4節です。
A. 歌うことによって (1-4)
1 【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】2 どのようなときも、わたしは主をたたえわたしの口は絶えることなく賛美を歌う。3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
1. いつでも歌おう
表題については今日はお話ししません。気になる人はサムエル記 I 21:11からを読んでください。なぜこの表題なのかはいろいろな意見がありますますが、はっきりわかってはいないのです。さて、最初に「どのような時も絶えることなく賛美を歌う」ことを勧められています。歌といっても、主に向かって歌う歌です。主をたたえる、賛美の歌を歌うことは礼拝の重要な要素です。キリスト教には色々な教派がありますが、礼拝にはその教派の特徴が表されています。それぞれの教派の考え方に従って最善の礼拝が追求された結果が現在の礼拝に現れています。ユアチャーチも今考えられる最高の礼拝を捧げていると信じますが、私たちは、さらに主とのコミュニュケーションの質を高めようと願い、このままで満足してはいけないとも信じています。
私たちはどんな時でも主をたたえる歌を歌い続けます。詩人が勧めているからではなく、主が求めておられるからです。礼拝は毎回毎回新しく、同じ礼拝は二度とありません。毎週のルーティーンではないのです。生きている限り新しい歌を歌い続ける、新しい礼拝を捧げ続けることで主の恵み深さを実感することができます。
次の節で、礼拝のもうひとつの目的が告げられています。「貧しい人」に聞かせて喜び祝わせるという目的です。「貧しい人に聞かせるなんて上から目線だ」と誤解しないでください。詩人は7節で自分自身を貧しい者だと表現しています。「貧しい者」とは、自分の弱さを知って、主に助けを求める人のことです。私たち「貧しい者」は皆ここで恵みを受けるのです。しかしこれは二次的な目的です。これが中心になれば、人間中心となり、もはや礼拝ではなくなり、ただ人を楽しませるショーになり、そこに主の居場所はなくなり、やがて人にも飽きられる道を辿ることになります。
2. 共に歌おう
「共に、一つとなって」と詩人は勧めます。前回の33編でもお話ししたことですが、一人で静かに捧げる礼拝だけではなく、共に一つとなって捧げる礼拝が私たちには必要です。私たちが主の前に、個であると共に共同体であるからです。主の恵みをフルに味わうためには、共に礼拝を捧げる共同体が必要なのです。主の恵みの多くは、この共同体の中で表されます。誰かのための祈りであったり、具体的な助けであったり、ここでは私たちは恵みを受ける者であると共に、主の恵みを提供する者ともなるのです。あなたが取り次いだ主の恵みを受けるのは、いつも共に礼拝を捧げる人々だけではなく、今日、初めて礼拝に来てくれた方かもしれません。
私たちは親密で開かれた共同体を目指しています。親密であることと、開かれたものであることを両立するのは難しいことです。それは、礼拝を誰にも開かれたわかりやすいものにすることと、主にフォーカスすることとの両立です。詩人がアルファベットを順に使ってこの歌を作ったことは、その努力の現れです。しかし、技巧だけではショーとして洗練されても、主に向かって捧げられるという礼拝の命が失われることにないます。このことは聖霊の介入なしには不可能なことです。 主の霊、聖霊がこの礼拝の中で生き生きと働いてくださることを願いながら礼拝を捧げましょう。
B. 思い出すことによって (5-8)
5 わたしは主に求め主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。6 主を仰ぎ見る人は光と輝き辱めに顔を伏せることはない。7 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き苦難から常に救ってくださった。8 主の使いはその周りに陣を敷き主を畏れる人を守り助けてくださった。
1. 答えてくださったこと
4-5節だけもう一度読みます。
この部分で詩人は、過去にいただいた恵みを思い起こしています。私たちも思い出すことによって主の恵み深さを再確認しましょう。詩人はここで、主が答えてくださったことを思い起こしています。日常生活の人との関係の中で、喜びや励ましばかりではなく、批判や、攻撃、中傷を受けます。安心できる人々の中で憩えるときもありますが、ストレスで押しつぶされそうな時も多いのです。それでも私たちは、主が私たちの叫びに答え、支え、危機から救ってくださったことを経験してきました。イエスも言われたように(ルカ6:20)「貧しい者は幸い」なのです。貧しいことが不幸なのではありません、自分が貧しいことを知らないことが不幸なのです。それは「弱い」「醜い」にも共通することです。主は貧しい者を救い、不幸のままにはしておきません。
2. 天使を送って助けてくださったこと
7節では主が天使を送って、主を畏れる人を守り助けてくださったことを詩人は思い起こしています。「貧しくない人」にとっては偶然としか思えない出来事でも、「貧しい人」は主が天使を送って助けてくださったと受け取れます。主は恵み深い方であることを実感します。私も天使に世話になったことは数え切れないくらいあるのですが、中でもはっきりと覚えていることがいくつかあります。一つだけ紹介します。23才の時のことです。神学校に入るためにフルタイムの仕事をやめて勉強しながらバイトをしていました。トラックの運転です。荷物の届け先にトラックを止めて荷物を届け戻ろうとした時、トラックは勝手に後ろ向きで動き出して、駐車場から道路に向かっていってしまいました。心臓が止まりそうでした。その道は交通量の多い道だったからです。多くの車や人を巻き込んだ大事故となって、神学校に入るどころではなく、これで人生終わったと思いました。反射的に走って追いかけましたが、飛び乗ってブレーキをかけるような余裕はありませんでした。トラックはそのまま道路に出て真ん中で止まりました。自分も道路に出て見ると、右にも左にも車の姿も人の姿もありませんでした。真ん中で止まったので、道路の反対側の建物にも被害を及ぼすことはありませんでした。ロバに乗ったバラム (Balaam)の時(民数記22章)のように左右1kmのところで二人の天使が交通を止め、数人の天使がトラックを道の真ん中で止めてくれたのでしょうか?人生を偶然の連続と考えるのは、それがそこそこうまくいったと言える人生であったとしても不幸なことです。主を信じる人は「偶然」という間違った言葉を使うべきではありません。「主の恵み」というべきです。
C. もっと知ることによって (9-11)
9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。11 若獅子は獲物がなくて飢えても主に求める人には良いものの欠けることがない。
1.主を畏れる
「味わい、見よ、主の恵み深さを」この9節の最初の部分がこの詩の中心です。8節まで、歌うことによって、思い出すことによって、主の恵み深さをもっと味わい、見ようと勧めてきました。ここからは主の恵み深さを味わうために知るべきことが二つ紹介されています。その一つは、「主を畏れ敬う」ということです。私たちは主が誰も逆らえない大きな力を持っていることを知っています、しかしそれは逃げ隠れしたくなるような怖さではありません。むしろその大きな翼の陰に逃げ込みたくなるような方です。主は私たちに従うことを求めます。しかしそれは人が他人に服従を求めるような支配欲からくるものではありません。むしろ私たちを、罪の奴隷となっている状態から解放するためです。私たちの主イエスはわたしたちのために苦しみを受け、その命さえ惜しまない方であることを私たちは知っています。私たちは自分の力でコントロールできなかった罪の力から、十字架の犠牲によって解放してくださった偉大な方を畏れ敬い、喜んでついていきたいから従うのであって、罰が怖いから従っているのではないのです。もっと主の偉大さを体験して、畏れ敬い喜ぶ人となりましょう。
2.主に求める
主は求めない者に無理やり与えることをなさいません。これで損?をしている人は多いのではないでしょうか? 今与えられている恵みを感謝することは必要ですが満足してはいけません。お金のことを言っているわけではありません、ユアチャーチは繁栄の神学を支持していません。では、主にどのような恵みをもっと求めるべきなのでしょうか?それは、愛することです。愛は抽象的で目に見えないものではありません。与えること、犠牲を払うこと、受け入れること、赦すこと、忍耐すること、という形で表されることです。求めなければ、愛する力は私たちのうちにはないのです。求めることを知れば、あなたの内側の愛は成長します。「貧しい人」のうちに主は愛を満たされます。それに気付くとき、あなたは主の恵み深さを実感するでしょう。もっと主に求めましょう。
メッセージのポイント
私たちの主が、どれほど恵み深い方であることを実感することができていますか?それは主に向かって歌うことで、今までの助けや導きを思い起こすことで、さらに主を知ることで、もっとはっきりと主の恵みを知ることができます。主を土台としてあなたの人生を建てるなら、どのような災いにも負けることはありません。
話し合いのために
1) どうしたら主の恵み深さを実感できますか?
2) 今までの恵みをシェアしましょう?
子供たちのために
主イエスと共に生きるということは、主に向かって歌うこと、主がしてくださったことを思い出して感謝すること、主をもっと知ろうとすることによって、はっきりと自覚できるようになるものです。主イエスが、一人一人にとってどのような方なのか聞いてみてください。正解はありません。ただイエスを子供たちの話題に載せましょう。感謝の記憶を思い起こさせましょう。また主に祈って何かを求めるということを勧めてください。