主はただ一つの避けどころ

永原アンディ

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主はただ一つの避けどころ(詩編 34:12-23)

 

詩編34編の後半は、主に従う者への約束が歌われています。今私たちの置かれている、個人、人間関係、家庭、地域、職場、国家、国際社会の状況がどうであっても、「主はあなたと共にいる」というメッセージです。私たちが主のお客さんではなく、家族であり弟子であるということは、私たちが伝えてもらうだけでなく、まだ知らない人に主を伝える者であるということです。あなたが喜んで主に従う姿を見て、私も主に従いたいという人が現れます。期待して、何をどう伝えるかを考えてゆきましょう。しかし主が期待しているのは、あなたのそのような態度であって、何人を回心に導いたというようなことではありません。詩人は、この約束を語る前に、主を畏れることを勧めます。主を畏れるということこそ、主に従うということの本質だからです。そして「主を畏れる」とは怖いと思う感情ではなく、私たちの生き方に表されるものだということがわかります。私たちもこの順番に従って考えてゆきましょう。12-15 (11-14) に主を畏れることの勧めが書かれています。


A. 主を畏れることを伝えよう (11-14)

12 子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。
13 喜びをもって生き長生きして幸いを見ようと望む者は
14 舌を悪から唇を偽りの言葉から遠ざけ
15 悪を避け、善を行い平和を尋ね求め、追い求めよ。

 「主を畏れる」ということは、怖がってビクビクしながら生きることではないと、今までもお話ししてきました。それはむしろ私たちに喜びと幸を与えるものです。私たちが「主を畏れる」こととして、ここで具体的に求められているのは、善を行うこと、平和を追い求めることです。

1. それは善を行うこと

 具体的に、人々に対して善を行う前に、私たちはまず自分自身に求めるべきことがあります。「舌を悪から唇を偽りの言葉から遠ざけることです。それは、悪を避け、善を行い平和を尋ね求め、追い求めるために欠かせない態度です。舌も、唇も聖書では私たちの発する言葉を意味しています。悪い言葉、偽りの言葉を避けることです。それは単純に、悪口を言う、悪態をつく、嘘をつくということではありません。それがイエスに喜ばれる言葉なのか、サタンがよろこぶ言葉なのかが問われているのです。このことを心に留めていなければ、私たちの舌や唇は悪に占領されてしまうかもしれません。そうなれば善を行うことでも平和を求めることでもなく、主に背を向けて、ただ自分の利益を求めることになりますが、それではいつまでも喜びや安らぎで満たされることはありません。発してしまった言葉は無かったことにはできません。言葉で失敗しやすい人は、「今日私の発する言葉が主イエスの心に叶うものでありますように」と祈って1日を始めてみたらいかがでしょう。
悪を避け、善を求めるといっても、善悪は何を基準にするかによって変わります。文化や、社会や、伝統、宗教によって異なります。キリスト教の中でさえ、その解釈によって変わってくるものです。実際、イエスの行ったことは、ユダヤ人からは死刑に値する悪と見られたのです。パウロは「女性は教会で教えてはいけない」と本気で信じていました。聖書は神様の言葉であることに間違いはありません。私たちは聖書からしか神様の意思を受け取ることはできません。しかし、それは聖書の言葉を文字通り信じなければならないということを意味しません。私たちのすべきことはイエスの行いと、その言葉によって解釈することです。

 

2. それは平和を求めること

十戒は「殺してはならない」と命じます。ここには理想があると思います。誰であれ主が作られた人間です。しかし、モーセも、サムエルも、主の命令だとして、敵を皆殺しにしろと命じました。聖書全体を文字通り受け取ることは不可能です、聖書自体に矛盾があるからです。聖書を文字通り読むべきと主張する人は、ただ自分の気に入った箇所だけを示してそう言っているに過ぎません。聖書のある部分が主張していることを「聖書は明らかに言っている」とか「神様がそう命じている」ということこそ「偽りの唇」です。聖書はイエスの言葉によって解釈されなければ危険な書物です。性や人種や国籍や性指向性や宗教を理由に差別する人は聖書に従っているといいながら、イエスには逆らっています。イエスというフィルターを通して見るなら、主が聖書を通して教えたいことは、どのような人々との間でも、愛することによって平和を保つことであることがわかります。パウロは「せめて、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)と教えました。詩人は「尋ね求め」と言った後「追い求めよ」と加えています。パウロと同様に、ただ争わないというのは最低限の願いであって、平和は熱心に追い求めるべきものです。


B. 主はこんな方だと伝えよう 
(15-18)

16 主は、従う人に目を注ぎ助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
17 主は悪を行う者に御顔を向けその名の記念を地上から絶たれる。
18 主は助けを求める人の叫びを聞き苦難から常に彼らを助け出される。
19 主は打ち砕かれた心に近くいまし悔いる霊を救ってくださる。

 この部分にはどの節にも「主」が出てきます。主がどのような方なのかを、全ての人が知るべきです。誰でもそのような方を必要としているからです。主を知らせることは主に従う者の中心的な働きです。主を知らせるためには、まず自分が主を知らなければなりません。主はあなたにとってどのような方でしょうか?

1. 叫びを聞き助けだされる方

主は叫びを聞き、助けだされる方です。あなたは主の目が自分に注がれているのを知っていますか?主に向かって叫び声をあげ、助けを求めたことがありますか?人間関係の問題で、仕事上のトラブルで、事故や病気によって、経済的に行き詰まって私たちは主に向かって叫ぶしかない存在であることを思い知ります。主は、その声を聞き、悪を行う者を制し、私たちを苦難から救い出してくださいます。詩人が若い世代に向かって、「子らよ、わたしに聞き従え。」と言っているのは、コントロールしたいからではなく、若い人たちも、自分に与えられためぐみの経験を知り、大きな恵みを受け取ってほしいからです。ユアチャーチも同じことを若い人たちに勧めることができる教会になってきました。ここには気楽に年をとっただけの中高年はいません。何度も主に叫び、助けを求めて、それを聞いていただき、喜んでいる人たちです。私たちは、体験として知っています。主は、従う人に目を注ぎ助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。主は「悪を行う者に御顔を向けその名の記念を地上から絶たれる。主は助けを求める人の叫びを聞き苦難から常に彼らを助け出される」方です。だから、あなたも主を畏れる者として、主に従ってゆきましょうと勧めるのです。

2. 悔いる霊を救ってくださる方

大変な目にあって、打ちひしがれているとき、一番近くにおられるのは主です。このことを知るための最適な例は、ヨブでしょう。ヨブは財産を蓄え、妻と娘たちに恵まれた順調な人生を送ってきましたが、突然、自分の命以外の全てを失う体験をしました。彼は、初めは事態を受け入れることができず。見舞いに来た友人たちとは論争になり、神様にも自暴自棄(In desperation)な態度をとります。しかし彼は、神様との会話の中で自分がいかに小さい者であるかを知り。全ては主の手の中にあることを認めて、平安を取り戻しました。私たちは与えられている恵みが多すぎて、この「平安」という恵みの本質を見失いがちです。悔いるとは、それ以外のものから満足を得ようとする心が砕かれて、この主が与えてくださる平安を見出すことです。


C. 主に従う者の希望を伝えよう(19-22)

20 主に従う人には災いが重なるが主はそのすべてから救い出し
21 骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。
22 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い主に従う人を憎む者は罪に定められる。
23 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。

1. 主は全ての災いから救い出す

 ここに気になる言葉があります。「主に従う人には災いが重なる」のです。聖書は、主を信じれば悩みはなくなるとは言いません。災いは何度もやってくるけれども「主はその全てから救い出す」、ということが聖書の約束です。地上では悩みがあるのです。しかしそれらは全て、私たちにとっては絶えることのできる試練です。主は、この家族を通して、一人一人が試練を乗り越えてゆく力と平安を与えます。教会は、キリストの体である大きな家族です。共に期待して、助け合い、慰め合い、祈りあって、私たちは災いと思えるものの全てが、益と変えられることを見てゆきましょう。

 

2. 主は従う者の魂を贖ってくださる

主は多くのものを与えて私たちの人生を祝福してくださいますが、主がヨブに与えた「平安」以外には永遠に続くものはありません。自分の体はやがて土に帰ります。全てに与えられる時があり、取り去られる時があるのです。しかし、主と共にある平安だけは、あなたが望まない限り取り去られることがありません。この世を去る時、全ては置いていかなければなりません。しかし私たちには永遠の命が与えられています。命は肉体ではなく魂に属するものなのです。「贖う」という言葉は、代価を払って買い戻すという意味の言葉です。私たちは、主から遠く離れて歩き、そのままでは決して得ることのできなかった平安を、主の十字架の犠牲によって得ることができるようにしていただいた者です。世の中に本当に安全な場所は一つしかありません。どんなに大きな犠牲を払って得たものでも、いつかは取り去られてしまいます。それよりも、どんな状況の中でも、希望、平安、愛を与えるイエスをあなたの主と受け入れてください。イエスを得ることこそ、ただ一つの避けどころを得ることなのです。


メッセージのポイント

私たちのすべきことは、主と共に歩む生き方を紹介することであって、異教徒や無神論者をキリスト教に改宗させることではありません。それはイエスの教えについての最悪の誤解です。イエスの教えは、改宗者を獲得する宗教的プロモーションではありません。ただ主イエスがあなたにとってどのような方であるかを伝えましょう。私たちはイエスを売り込む者でも、イエスに改宗させる者でもなく、唯一の避けどころであるイエスに従う者です。。

話し合いのために

1) 主を畏れるとはどういうことですか?
2) 私たちはなぜイエスを人々に紹介するのですか?

子供たちのために

1)家庭や、学校など子供たちの生活の場で、行うべきよいうこととは何か、求めるべき平和とは何か?を話してみてください。

2)主がどのような方か。子供達の理解を聞くことから始めてみてください。

3)困ったこと、怖いこと、苦しいこと、悲しいことをシェアしてから、主に従う者の希望を伝えてください。