池田真理
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愛して生きる自由
(ガラテヤ 5:2-15, 1コリント 9:19-23)
今日はこれまでのガラテヤの手紙の内容の総まとめのような部分です。私たちがイエス様を信じて生きていくとはどういうことかの総まとめでもあります。早速、最初に2-4節を読みます。
A. 私たちと神様を結びつけるのはイエス様だけ
1. 私たちの行いではない (2-4)
2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
パウロは、これをガラテヤの人たちに分かってもらうためにこそ、この手紙を書きました。ガラテヤの人たちは割礼を受けてはいけないという忠告です。受ける必要はない、どちらでもいいという弱い否定ではなく、受けてはいけないという強い禁止です。なぜパウロがそう求めたかは、当時の特殊な事情によります。割礼という習慣はユダヤ人独特のものでした。神様に選ばれた民としてのしるしとして、生まれてすぐに受けるものでした。ですから、割礼はユダヤ人のしるしであり、割礼を受けるということは、ユダヤ人になるということです。そして、ユダヤ人の生活は律法を中心に回っていたと言えます。ユダヤ人ならば、律法を守って生きることが務めであり、誇りでもありました。他の民族にはない、神様から与えられた大切な掟だと信じられていたからです。イエス様が来られて、イエス様を信じるようになっても、律法が大切であるということはユダヤ人にとって当然のことで何の変化も必要とは思われませんでした。イエス様自身も割礼を受けていましたし、一応は律法を守っていましたし、何よりイエス様が教えたのは紛れもなくユダヤ人が信じてきた神様のことでした。だから、ほとんどのユダヤ人にとって、割礼という習慣や律法を守る生活を続けることと、イエス様を信じることは、何にも矛盾はありませんでした。
問題が起きたのは、ユダヤ人ではない外国人(異邦人)がイエス様を信じるようになった時です。もっと正確に言うなら、ユダヤ人が信じてきた神様が、異邦人のことも愛していると発覚した時です。イエス様が復活し天に戻られた後、神様の霊はユダヤ人だけでなく異邦人にも注がれました。そしてイエス様による罪の許しを異邦人も受け入れたという驚きの事実が弟子たちに知らされました。ユダヤ人という民族の守り神であったはずの神様が、ユダヤ人以外にも同じ恵みを与えられているという現実をどのように捉えればよいのか、ユダヤ人たちは大きな混乱に陥ったのです。一方では、そういう異邦人たちにはユダヤ人の仲間入りをさせるべきだと考える人たちがいました。その人たちは、イエス様を信じる異邦人たちに割礼を受けさせ、律法を守って生活するように教えるべきだと考えました。他方で、パウロのように考える人たちがいました。パウロの意見は、最初にご紹介した通り、そんな必要はないという以上に、そんなことはしてはいけないという正反対の意見でした。
もう一度パウロの言葉を読んでみましょう。
2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
パウロは、異邦人がユダヤ人になろうとすることは、イエス様の恵みから切り離されることを意味していると見抜いていました。なぜなら、イエス様の恵みというのは、私たちが本当に他に何もしないでイエス様だけを頼っていいという恵みだからです。イエス様は、私たちが何もする前から、私たちのために身を捧げられました。私たちは、イエス様が私のために苦しまれた神様であり、神様は私をそこまで愛しておられるのだと信じるだけです。反対に言えば、イエス様を信じること以外に自分にできることは何もないと認めることです。神様に愛されるために自分にできることが何かあると思った時点で、イエス様だけを頼っていることにはならなくなります。異邦人が割礼を受け、律法を守って生活し、ユダヤ人として生きることが必要だというなら、イエス様を信じることとユダヤ人になること両方が必要だということになります。それでは、イエス様を信じるだけでは足りないということになり、それは本来のイエス様の恵みからは遠ざかることになります。割礼と律法の魅力は、形を変えて私たちにも影響を及ぼしています。自分の力で神様の愛を勝ち取ったと思えるのは、大きな魅力です。そして、それはそれができない人を見下す、とてもいい理由になります。私たちには、私たちのために命を捧げられたイエス様しかありません。イエス様だけが私たちの誇りです。私たちが自分の力で神様を信じられるほど心が強かったなら、イエス様は犠牲になる必要はありませんでした。
それではなぜガラテヤの人たちは間違え、私たちも間違えてしまうのでしょうか?少し飛んで、7-12節を読みます。
2. 他の誰かでもない (7-10,12)
7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。… 12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
ガラテヤの人たちを惑わす者たちがいたということは、この手紙の最初から言われてきたことです。彼らがガラテヤの人たちに割礼を受けなさいと勧めていた人たちでした。パウロは彼らをかなり口悪く罵っていますが、今私たちが注目したいのは8節です。「このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。」つまり、このような誘いは神様からのものではないということです。そして、あなたたちを召し出したのは神様だということです。召し出すというのは、呼び出す、選ぶ、集めるという意味の言葉です。私たちは、最初は他の誰かを通してイエス様のことを知りますが、その人を通して私たちに語りかけられているのは神様ご自身です。私たちは一人一人が、直接、神様に呼ばれ、選ばれ、集められました。神様は自分を本当に愛してくださっているのか、その根本的な問いは、他の誰かに答えてもらっても意味はなく、自分で確かめるしかありません。そして、その神様が自分に何を望んでおられるのかも、一人一人が神様によく聞いて確かめるしかありません。時には、他の人に意見を求めたり、道を誤っているのを教えてもらうこともあります。でも、最終的に自分の代わりに決めてくれる人はいません。ガラテヤの人たちは、ナイーブにユダヤ人の言うことに従ってしまいました。でも、もっとイエス様に頼るべきでした。私たちは一人ひとり、神様に呼び出されています。呼び出されて、どうやって神様のところに行けばいいのか、迷う必要はありません。最初にお話ししたように、私たちはイエス様だけを頼りにすればいいのです。イエス様が神様に至る道であり、必ず私たちを導いてくださいます。他の誰でもありません。
それでは、自分の力によらず、他の人によるのでもなく、ただイエス様に導いていただくと、何が起こるのでしょうか?後半に入っていきたいと思います。イエス様は、私たちに霊と信仰を与えてくださいます。5節に戻ります。
B. イエス様が与えてくださるもの
1. 霊と信仰 (5)
5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
この短い一文は、私たちの生き方を総まとめしていると言えます。私たちはイエス様を通して、神様が私たちを愛し、この世界を愛しておられることを知りました。そして、その神様の愛が少しでも広く実現されることを願って生きています。イエス様がやがてまたこの世界に来られて、神様の愛が完全に実現されることを待ち望み、希望を失いません。神様が悲しまれることの方が多いこの世界の中で、それでも神様はこの世界を愛し、私たちを愛しておられることを信じて、自分にできることを続けます。それは本当に私たちの力では無理で、神様の霊が私たちを強めて導いて下さらなければできません。パウロがこの後最後に、霊に導かれて生きることについて教えているのもこのためです。そのことを次回にして、今日一番大切な部分に入りたいと思います。13-15節です。
2. 愛する自由 (13-15)
13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
ここを読んで分かることはただ一つです。神様が私たちを呼んでくださったのは、愛する自由を私たちが得るためだということです。私たちが神様に愛されていると教えてもらえたのは、互いに愛し合うことができるようになるためです。なぜそれが自由だと言えるかというと、神様が自分を愛してくださっているように他の人のことも愛していると信じるなら、私たちは何にも縛られないで他の人を愛することができるからです。自分自身の価値観にも偏見にもとらわれず、この世界の常識や偏見にも惑わされず、ただ神様の愛を信じて愛することができます。その人が神様に愛されていることを知ることができるように、その人に神様の愛が実現するように、願い続けることができます。それが具体的にどのような生き方なのか、最後にもう一度パウロの置かれていた状況から考えたいと思います。これまで飛ばして読んだ6節と11節を読みます。
3. パウロの生き方は自由すぎた? (6,11, 1コリ9:19-23)
6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
11節を読むと、パウロは誤解されていたことが分かります。パウロはガラテヤでは割礼を禁止したが、他のところでは割礼を認めているというような誤解です。そのことをパウロは否定していますが、こう誤解されるには理由がありました。パウロは誤解されても仕方がないような言動をしていたということです。6節でパウロは「割礼の有無は問題ではない」と言っていますが、これは英語で訳されている通り、元々は「割礼も無割礼も意味はない」という文です。この言葉のパウロの真意は、1コリント7:18-19から分かります
(1コリント7:18-19) 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
前にもお話ししましたが、パウロは割礼そのものを禁止したのではありませんでした。ユダヤ人が割礼を受けることには、何の反対もしませんでした。パウロが反対したのは、異邦人の割礼だけです。このことが、パウロは矛盾しているという批判の原因になりました。そして、パウロはユダヤ人からも異邦人からも誤解されることになりました。でも、彼には何の迷いもない信念がありました。1コリント9:19-23を読みます。
(1コリ9:19-23] 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
イエス様が私たちに与えてくださった、愛して生きる自由とは、このパウロのような生き方をすることです。相手がその人のままで、その人の置かれている状況にいるままで、神様に愛されていることを知れるように、想像力を働かせます。子どもの頃、思いやりとは何かを考える道徳の授業で、相手の立場になって考えましょうと言われたような記憶があります。それと似ていますが、少し違います。想像力を働かせて相手の立場になって考えて、その上で神様がその人を愛しておられるとはどういうことかを考えるということです。もちろん私たちは神様ではないので、完璧に分かることはありません。それでも、神様がその人を愛しておられると信じて、自分の考えや気持ちに左右されずに、その人のためにできることは何かと考えることができます。それぞれの与えられている関係性の中で、分かっていてもできないこともあるし、何もしないことが一番いいこともあると思います。それぞれの必要は違っていて、私たちにできることもそれぞれ違います。でも、主役は私たち自身ではなくて、神様です。私たちは、自分の力でイエス様を信じることができないように、自分の力で他の人を愛することはできません。する必要がありません。ただひたすら、神様の愛が私たちを変えて、誰かを助けるためにできることがあるなら教えてくださいます。神様が一人一人を愛しておられる働きに、私たちが参加するのを許してくださるということです。私たちが神様を先導する必要はありません。だから、私たちは自由に愛することができるのであり、そうできることが神様が私たちに与えてくださった究極の自由です。ただイエス様を信じて、神様の愛が少しでも実現されるように、私たちにできることをさせていただきましょう。
メッセージのポイント
イエス様を信じて生きるということは、愛することを生きる目的にするということです。それはロマンチックな理想論ではなく、日常生活の中で神様の愛が実現するために自分にできることをするということです。時には他の人に理解されなかったり誤解されたりすることもあるかもしれません。でも、イエス様が自らを犠牲にして私たちを愛してくださったように、私たちも自分が変わることを恐れずに他の人々と世界を愛して生きるなら、それが一番自由な生き方です。
話し合いのために
1) 愛することによってどのように私たちは自由になりますか?
2) どうすればイエス様のように自分を犠牲にして愛することができますか?
子供たちのために
1コリント9:19-23の方を参考にしてください。誰か大好きな家族や友達に喜んでほしいと思ったら、どうするのが一番いいと思いますか?子供達には色々な答えがあると思いますが、一番いいのは、神様がその人にあげたいと思っていることが何かを考えることだと教えてください。その人自身が欲しがっているものでも、私たちがあげたいと思うものでもなく、神様がその人にあげたいものは何かということです。ちょっと難しいかもしれませんが、話してみてください。