池田真理
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苦しみが喜びに変わる
(フィリピの信徒への手紙 1:12-20)
親しい友達に手紙を書く時、皆さんはどうやって手紙を書き始めるでしょうか?最初は「お元気ですか」「お久しぶりです」などと書くと思います。それから手紙の内容に入って行くと思いますが、何を最初に書きますか?状況によって変わりますが、親しい友達にあてた手紙なら、必ず自分の近況報告をすると思います。特に、例えば自分が病気であることを友達が心配しているのを知っているなら、まず自分の状況を伝えると思います。
パウロがここでしているのはそれです。フィリピの人たちが自分のことを心配していると知っているので、自分の状況を伝えています。これはパウロとフィリピの人たちが親しかったからこそのことです。他の手紙でパウロがこんなに自分の近況について話すことはあまりありません。でも、さすがはパウロなのは、自分の状況を伝えながらも、それをフィリピの人たちへの励ましに転換していることです。読んでいきましょう。最初に12-14節です。
A. 苦しみが喜びに変わる
1. (12-14) 状況の悪さに惑わされない
12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
フィリピの人たちは、パウロが捕まって監禁されているということを知って心配していました。後で出てきますが、仲間の一人をパウロの元に送って、物質的にパウロを助けていたことが分かっています。ただ、パウロがこの時どこで捕まっていて、どれほど危険な状況にあったのかは分かっていません。友人との面会や手紙のやりとりができるくらいの自由は与えられていたようですが、処刑される可能性もあったようです。フィリピの人たちは、パウロにもしものことがあったらどうしようと恐れていました。
パウロはそんなフィリピの人たちに最初から断言しました。12節「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」なぜなら、パウロが捕まったことを通して、それまでイエス様のことを知らなかった人にイエス様のことが伝えられ、すでに知っていた人たちには勇気が与えられているからだと言います。つまり、パウロが捕まったことは、イエス様を伝える働きに何の支障ももたらしていないどころか、かえって役に立っているんだということです。
私たちは、こういう視点を持っているでしょうか?どんな状況においても、イエス様のことを伝えるという目的に照らして、状況判断をするという視点です。パウロは常にその視点を持っていました。それは、イエス様のことを伝えるということに、パウロが自分の生涯をかけていたからです。それが果たされるなら自分の状況が悪くても、究極のところ命が奪われても、構いませんでした。
以前、本でこういう話を読んだことがあります。ある男の人が病気で倒れ、寝たきりの生活になってしまいました。その人はイエス様のことを愛していて、病気になる前は、困っている人や貧しい人のために活動的に働いてきた人でした。自分がベッドから動けない状態になって、その人は絶望してしまいました。自分はイエス様のために何もできなくなってしまったと思ったからです。彼の生きがいはイエス様のために働くことだったのに、その生きがいは奪われてしまったようでした。彼に助けを求められた本の著者は、彼と一緒に悩み、話し合いました。そして、彼らが見つけた希望は、イエス様の苦しみを共に味わうということでした。ベッドから動けず、自由に歩いて活動することができなくても、イエス様と共にいることはできます。イエス様自身、捕らえられて、縛られ、十字架に向かいました。イエス様にとってそれは、神様を愛し、神様の意思に従う行動でした。また、人間を愛する行動でした。体の自由を奪われて、死刑を言い渡されて、逆らうことができない状況のようですが、イエス様はそこでそれを「受け入れる」という行動をしました。なすすべもない状況のようでも、それを「受け入れる」ということは大きな決断であり、確かな行動です。それは、イエス様がゲッセマネの園で身体中から汗を流して祈ったように、葛藤のともなうものです。本当は避けたかった苦しみの中に神様の意思があると信じることに、葛藤がないわけがありません。でもそれが、イエス様と共に苦しむということで、そこに希望があります。自分の苦しみにイエス様の苦しみを見ること、イエス様の苦しみに自分の苦しみを見ること、それができたら、復活の希望と喜びはすぐそこにあります。
実は13節のパウロの言葉は翻訳するのがとても難しいそうです。「私が監禁されているのはキリストのためであると…知れ渡った it has become clear …that I am in chains for Christ.」とありますが、オリジナルの言葉には「キリストのため FOR Christ」というフレーズはありません。かわりに、IN Christ「キリストの中で」とか「キリストにおいて」というフレーズです。パウロにとって、イエス様のために生きること、そのために苦労することは、イエス様と共に、イエス様の中に自分を置くことでした。
そんなパウロのあり方が、周りの人を励ましました。ただし、悪意を持っている人もいました。15-18a節を読みます。
2. (15-18a) 人の悪意に惑わされない
15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。
パウロが捕まったことを喜ぶ人たちがいました。その人たちは、妬みと争いの念によって、獄中のパウロを苦しめるためにキリストを宣べ伝えていると言われています。この人たちとパウロでは何かしらの意見の違いがあったようですが、具体的にはわかりません。ただ、パウロは18節で「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされている」と言っているので、彼らは大きく間違っていたわけではないことは分かります。もし彼らが間違ったキリスト、歪んだ信仰を教えていたなら、パウロはガラテヤの人たちに対してのように、激しく反論していたはずです。だから、パウロにとって彼らはなにかの点で意見が違っていても、信仰を同じくする仲間でした。でも彼らの側からすると、パウロは仲間ではなく、ライバルだったようです。
妬みと争いというのは、パウロが他の手紙で、聖霊に従っていない証拠として警告しているもののリストに含まれています。(ガラテヤ5:19-21)パウロがそれでも彼らもキリストを宣べ伝えていると認めていることを、私たちはどう考えればいいのでしょうか。それはおそらく、人間が100%純粋であることはできないということをパウロは知っていたということだと思います。イエス様に対する思いが本物でも、互いに競争しあったり、比べて一喜一憂したり、それが間違っているとわかっていても、続けてしまうのが人間の現実です。イエス様のために働く、人を助ける働きをする、その全てにおいて、いつの間にか目的がすり変わり、自分が認められること、尊敬されることを求めてしまうことがあります。でも、そういう不純な動機を絶対に持ってはいけなくて、それを完全に捨て去ることができなければ神様は喜んで下さらないとしたら、私たちは誰も何もできなくなってしまいます。私たちはみんな、神様の憐れみによって、少しずつ神様に似たものとなるように造り変えられている途上にあります。その中で互いに妬んでしまい、傷つけ合ってしまっても、最終ゴールを見失わない限り、潰しあって終わってしまうことは絶対にありません。パウロも、自分に対して悪意を持っている人たちの存在に心を痛めなかったわけではないと思います。でも、彼らのイエス様に対する思いは本物であると認めていました。だから、自分の痛みを脇に置いて、喜ぶことができました。私たちも、自分の痛みと他人の悪意にだけに注目するなら、妬みと争いのループから出ることができません。でも、互いに働く神様の憐れみ、互いに共通する弱さと間違いに心を向けるなら、喜ぶことができます。
それでは、最後に18b-20節に進みます。ここに、今日お話ししてきたことの一番大切な部分がまとめてあります。私たちの最終目的はなにか、それを達成する方法はなにかということです。
B. 苦しみが救いに変わる (18b-20)
これからも喜びます。19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
1. 命よりも大切なものを知っているから
パウロは「このことが私の救いになる」と言っています。「このこと」というのは、英語では「私に起こったこと」と訳されているように、パウロが経験していること全てを指しています。つまり、パウロがキリストと共に苦しんでいること、キリストを宣べ伝えるために命をかけていることです。それが救いになるとはどういうことかが、20節に言われています。「どんなことにも恥をかかず、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられる」ことです。パウロにとって、生きるにしても死ぬにしても、やることは同じでした。キリストと共にあることです。それがパウロにとっての救いであり、私たちの救いです。それは、死んで初めて与えられるのではなく、生きているうちから始まっているものです。イエス様と共に苦しみ、イエス様と共に喜ぶこと、そうやって生きることが救いであり、そうやって死ぬことが救いです。私たちの生きる目的も、死ぬ目的も、同じ、イエス様と共にあることです。
2. 祈られ、霊に満たされることによって
ただ、最後に絶対に忘れてはいけないことがあります。それは、この目的を私たちは一人では果たせないということです。19節でパウロは「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって」と言っています。互いにために祈り合い、互いにイエス様の霊が満たされるように祈り合わなければ、私たちは目標を見失います。イエス様のことを自分の命よりも大切にするなんてことは、人間の力では無理ですし、一人でそう信じ続けるのは不可能です。もともと、イエス様のことが好きだと思い、イエス様に従って生きたいと思えるのも、私たちの力ではなく、神様の霊の働きです。そして、そう思い続けられるのも、聖霊様の働きです。私たちはそれも一人で信じ続けることはできず、一緒に祈り求め続ける人の存在が必要です。互いに祈り合い、聖霊様に導かれて、私たちの喜びはどこにあるのか、救いはなにか、求め続けましょう。そして、苦しみの中でも、イエス様と共にいて、希望を見続けましょう。
メッセージのポイント
神様は、今あなたが経験している苦しみを通して、ご自身をあなたとあなたの周りの人に現されているのかもしれません。目の前の苦しみを自分がどう感じるかではなく、他人が何と言うかでもなく、神様がそれを通して何をなさろうとしているのかに注目しましょう。神様は決して無駄な苦しみを与える方ではなく、すべての人を救おうとされています。私たちはイエス・キリストの霊を受けてそれを信じ、苦しみの中で喜びを見つけることができます。
話し合いのために
1) どうすれば苦しみは喜びに変わりますか?
2) あなたの救いとは何ですか?
子供たちのために
辛いことや悲しいことを通して、神様が大切なことを教えてくれたという経験はあるでしょうか?(低学年の子には難しいかもしれませんが…。)「なんでこんな辛い(悲しい)思いをしなければいけないの?」と思う時、どうすればいいでしょうか?話し合ってみてください。