イエス様、どこですか?

永原アンディ

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イエス様、どこですか?
(ヨハネ 20:1-18)

A. イエスの不在

1. 葬りのための訪問 (1、2)

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 私たちは約2000年の間、イエスの復活された朝、イースターを祝って来ました。「十字架にかけられて死んだイエスが、よみがえられて、永遠に私たちと共にいてくださる」ということが始まった日です。イエスを信じて従う者にとっては、クリスマスよりも喜ばしい日です。しかし当時の弟子たちにとって、この朝は十字架の出来事による悲しみや絶望は全く癒されないままで迎えた、憂鬱な週の始まりだったのです。

マリアは復活したイエスに会えることを期待して墓に向かったのではありません。お葬式の準備のためでした。ただ誰よりも先に一人でゆっくりと最後のお別れができるという期待しかなかったのです。
私たちは、その期待が良い意味で裏切られることを知っています。イエスが復活して、そこにはもういないことを知っているからです。しかし、マリアにとっては、イエスの顔を見て最後のお別れを言って、せめて丁寧に葬ろう、という願いさえ打ち砕かれた瞬間でした。彼女はペトロとヨハネに伝えるために「走って」行くしかありませんでした。もう何をどうしたら良いのかわからなくなっていたのですが、彼女には、幸いなことに仲間がいました。ペトロとヨハネです。とにかく、1秒でも早く、彼らに伝えて、イエスの遺体にさえ、もう会うことは出来ない状況を共有したかったのです。

2. 確認のための訪問 (3-10)

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 ペトロはどんな気持ちで、この朝を迎えたのでしょうか? 彼は、マリアの心の悲しさ寂しさプラス、イエスの弟子だろうと指摘されて、三度も否定して主を裏切ってしまった自己嫌悪に打ちひしがれていました。マリアにこのことを知らされたもう一人の弟子とはヨハネのことです。一緒に走り出しヨハネが先に到着したのは、単にヨハネがペトロより若くて元気だったからなのかもしれませんが、私たちの知っているペトロの性格からいえば、普通なら一番に到着して、誰よりも先に自分の目で確認したかったはずです。わたしは、ペトロには躊躇があってヨハネより遅く走ったのではないかという気がします。 ヨハネは、弟子たちの中で最も若い、もしかしたら少年といってもよいほどの年であったかも知れません。しかし先に到着したヨハネに、一人で墓に入り事実を確認する勇気はありませんでした。後から来たペトロに先を譲り、後から墓の中に入って、イエスのなきがらが消えているのを見ました。注目したいのは、ヨハネは「見て、信じた」ことです。しかしペトロは、マリアと同様に、まだ「復活された」のだとは全く思ってはいません。この記事によれば、(復活のイエスの姿を)見ないで信じたのはヨハネだけだったことになります。とはいえ、10節にあるように、この時点では、ヨハネも、実際に復活された主と出会う経験はできなかったという意味でペトロと同様に完全に理解することはできないままに家に帰って行ったのです。

3. そこにいる主に気づかない (11-15)

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 マリアは、二人の弟子に伝えた後で自分も墓に戻ってきました。そして二人が帰っても、マリアはその場を離れることができませんでした。マリアの方が、弟子たちより主に対する想いが強かったのでしょう。しかしその想いは、かえってイエスに気付くことを妨げていたのです。彼女の想いの先はイエスではなく、「イエスのなきがら」だったのです。悪い動機ではありませんが、自分の手で、葬り、記念とし、死んだイエスの言葉や行いを思い出しながら生きて行こうという想いです。気がついていないのですから当然ですが、そこには、生きて働かれる神イエスに従って未来を開こうというという思いは全くありません。
イエスは死んだ。あるはずのなきがらは誰かが持って行ってしまった。こう強く考えている限り、イエスの姿を見ても、話しかけられても全く気付かなかったのも当然でしょう。せっかくイエスが語りかけたのに、ちらっと見ただけで、すぐに墓の方に目をやって、失礼なことに!背中でイエスの語りかけを聞いていたのです。

私たちには、ここまでのマリアをばかにする権利はありません。私たちは、イエスの復活を知り、ヨハネのように見ないで信じ、生きて働くイエスに従っているつもりであるにも関わらず、マリアと同じ間違いをするからです。それは、生き方を「生きて働くイエス」に求めるのではなく 「聖書」や「説教」あるいは「キリスト教の本」に求めるという間違いです。もちろんそれらを通してイエスは語ってくれます。しかし「聖霊の導き」なしには、そこから主の声を聞くことはできません。「聖霊の導きに従う」とは、「生きて働くイエスに聞く」ということと同じです。生きて働くイエスに聞こうとしない信仰は「十字架止まりの信仰」です。そこには復活した主はいないのです。ただ自分の解釈によって受け取った不完全なメッセージに従って生きることになります。それは自分なりのイエスの思い出に従って生きているに過ぎないということです。


B. 呼びかけられて復活に気づく (16)

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 マリアは、背後に立たれたイエスに呼びかけられて、ちらっと見ただけで園丁と決めつけて、すぐにイエスの“取り去られた遺体”の方に向いてしまいました。
しかし、イエスは諦めず、今度は彼女の名を呼んだのです。「マリア」 マリアはすぐに答えます。今度はちゃんとイエスの方を見てです。「ラボニ」 マリアは自分の名を呼びかける声を聞いて、それが復活されたイエスとわかりました。イエスに従って歩み始めた時以来、聞き続けてきた、その声だったからです。イエスは常に私たちの先を歩まれています。だから、聖書を読んでも、メッセージを聞いても、デボーションの本を読んでもイエスを見出せないと感じることがあるのは当然です。
しかしマリアに呼びかけてくださったように、私たちにも主は声をかけてくださいます。それに答えて私たちも主に呼びかけます。それが私たちの捧げる礼拝です。「マリア」/「ラボニ」は歴史上最もシンプルな礼拝と言ってよいと思います。だから私たちは主に礼拝を捧げる事を何よりも大切にするのです。これから私たちは主に向って数曲歌います。ここからが礼拝の核心です。一方的にではなく、主の声に耳を傾けながら歌いましょう。主と顔と顔を合わせて過ごす時です。イエスと共に歩むということは、先をゆくイエスを追いかけ続けるということでもあるのです。だから私たちは、生きている限り礼拝してゆくのです。


メッセージのポイント

イエスは常に私たちの先を歩まれています。そのためにイエスがいないと感じたり、見捨てられたと感じることがありますが、私たちは先を行くイエスを完全に見失ってしまわないように、注意深く語りかけられる声を聞き分けて、姿の見えないイエスについて行きます。イエスと共に歩むということは、イエスを追いかけ続けるということでもあるのです。

話し合いのために

1) ペトロとヨハネは空の墓の中を見てどう思ったのでしょうか?
2) マリアはどうしてそれが主だと気付いたのですか?

子供たちのために

書かれている通りのストーリーをそのまま伝えてください。イエスがマリアに呼びかけられたように、イエスはその姿が見えなくても、祈りの中で、一人一人の心の中に語りかけ、呼びかけて下さいます。