永原アンディ
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大漁の記憶 (ヨハネ 21:1-14)
Caspar de Crayer [Public domain], via Wikimedia Commons
A. 平和の使者になる準備のできていない弟子たち (1-4)
1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
ティベリアス湖は、当時のローマ皇帝ティベリウス・ユリウス・カエサルの名にちなんで当時そう呼ばれていましたが、イエスや弟子たちの故郷のガリラヤ湖のことです。湖畔の地名をとってゲネサレト湖とも呼ばれています。もっと古くは民数記に出てくるキネレト湖もガリラヤ湖のことです。
弟子たちはいつの間にか故郷にいます。マタイによる福音書(28:10)のイエスの言葉に従って復活のイエスに会うためにきていたのでしょう。しかし、ルカの福音書(24:49)によれば、聖霊を受けるまでエルサレムにとどまっていなさいと命じられていたので帰ってしまったわけではありません。エルサレムとガリラヤの距離は。ここからだと静岡、軽井沢、宇都宮と言った感じです。当時の主な移動手段である徒歩なら、およそ3日の道のりです。
なぜペトロが漁をしようと思ったのでしょう。久し振りに故郷に帰って懐かしくなってやってみたのか、お腹が空いていたのか、それともお金を必要としたのか、何も記されていないのでわかりません。しかしイエスの方には理由がありました。単に、姿を表すだけではなく、イエスがともに歩まれるということの恵みの深さと、それが困難な現実の生活の中でも信じ続けて歩めるように、弟子たちの心を整えるために、このような舞台へと誘い出したのです。
彼らの夜の漁はうまくいきませんでした。もう日が昇り、漁には向かない時間となって、体も心も疲れていた時に、イエスは彼らから90mほど離れた岸辺に現れたのです。まだ弟子たちはイエスに気付いていません。イエスはこれから、彼らにイエスが人として、弟子たちとともに歩んでいた間の記憶を思い起こさせ、先週お話しした「平和の使者」としてふさわしい資質を備えさせようとしています。5-8節を読みましょう。
B. 恵みの記憶は平和の使者の力
1. 大漁の奇跡の記憶 (5-8)
5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった
7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
ヨハネが一番最初に、イエスだとわかりましたが、最初の言葉のやり取りでわかったのではありませんでした。網を打てとイエスが言った時から、彼らに心の変化が起こり始めます。岸にいたのが、もし地元の人なら、そんなことを言うわけはありません。右だろうと左だろうともう魚の獲れる時間ではないのです。しかしその声には信頼できる響きがあったので、彼らはつい、その声に従って網を打ちました。そして網を引き上げることができないほど多くの魚がかかりました。ヨハネの心に突然、あの日の光景が蘇ったのです。良い意味でのフラッシュバックです。みなさんはあの日の出来事を覚えていますか?面白いことにヨハネは記録していないのですが、マタイも、マルコも、ルカも触れています。特にルカは詳しく書き記しているので読んでみましょう。
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
突然、この日のことが彼らの心に鮮やかに蘇えり、イエスだと確信しました。イエスは漁師ではありませんでした。しかしペトロはこの湖の漁を良く知っている漁師です。wその漁師たちが一晩中かけても得ることの出来なかった魚が、イエスの指示で網を打つと、大量に網にかかりました。それが人のアドバイス以上のものであることを感じて、彼らは恐れたのです。しかしイエスが本当に彼らに伝えたかったのは、ご自身の力ではなく、彼らの将来についての預言でした。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」イエスが一人の人として歩まれた期間は弟子たちにとっては、人をとる漁師になるための見習い期間でした。そして、その期間はみじめな失敗に終わったかのように見えたました。しかし、それは失敗ではありませんでした。というのは、イエスが彼らに知らせたかったことは、自分のどうしようもない無力と、徹底的に神に頼ることだったからです。イエスはこのことを伝える仕上げとして、もう一度、あの日の出来事を再現されたのです。彼らはついに人をとる漁師としての生き方が始まろうとしています。人をとる漁師という言い方は乱暴に聞こえますが、人々にイエスを紹介し、人々がイエスに従うという生き方を通して、本当の平和を得ることを助ける人のことです。
2. イエスとの食事の記憶 (9-14)
9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
弟子たちが戻ってみると、イエスは火を起こし、ご自身で用意した魚も焼き始められていました。イエスは彼らが獲った魚も加えて、弟子たちと朝の食事をしようとしていたのです。 さらにイエスはどのように調達されたのか、パンも用意されていました。イエスは、弟子たちとともに地上を歩かれた3年間、何度も共に食事をされました。イエスは食事を共にすることをとても大切にされていたことが、福音書の全体を読んでみるとよくわかります。弟子たちにとってイエスとの食事は慣れ親しんでいたものだったはずです。しかし、イエスは、この食事という日常的な事も、大切なことを教えるために、何度も用いています。弟子たちはこの時、そのようなイエスの行いの記憶を蘇らせたはずです。人々が少しだけ用意したパンと魚を5000人以上の人々に分け与えたこと(マルコ6:30-44)や、十字架にかかられる直前の過越の食事の中で、イエス自身による最初の聖餐式が行われたこと(マタイ26:26 )などが五感を通して感じられるような仕方で彼らの心に深く刻まれたのです。
この記憶は共同体の記憶となりました。ちょうど過越の出来事が今までずっとユダヤ人に受け継がれてきたようにです。たとえ私たちが、復活のイエスに直接会っていなくても、この時、ガリラヤ湖畔で復活されたイエスに出会った弟子たちの心に焼き付けた記憶を、私たちは聖霊の助けによって自分の記憶として持っています。
「君もそこにいたのか」という古いゴスペルソングを知っていますか?youtubeで色々な人が歌っています。ぜひ聞いてみてください。主が大漁の奇蹟をなさった時、5000人の人を二匹の魚と五つのパンで満腹させた時、最後の食事を弟子たちと共にして聖餐式をなさった時、十字架にかけられた時、復活された主が弟子たちに現れた時、あなたの霊はそこにいたのです。
先週の話を思い出してください。イエスは私たちを平和の使者として、あなたの生活の場に送り出しています。そこで困難に出会う時、私たちも持っている、地上で歩まれていた時のイエスの記憶が私たちの力となります。私たちの心には、復活前の奇蹟が、復活されたイエスによってまた表されたことを、今日学んだように聖書で知っているので、自分の記憶と言えるのです。
メッセージのポイント
主を見て喜んだ(先週)はずの弟子たちですが、主が望まれたような使者としての働きを始めるまでにはまだいくつかのプロセスが必要でした。彼らには、主によってもたらされた恵みの記憶を思い起こす必要がありました。恵みの記憶は、困難な現実に立ち向かう力です。
話し合いのために
1) 弟子たちはなぜまた漁をしていたのでしょうか?
2) あなたには「大漁の記憶」がありますか?
子供たちのために
楽しいストーリーです。そのまま伝え、絵やクラフトでビジュアル化するのはどうでしょうか。漁の奇蹟や魚とパンの奇蹟と比べて見せるのもいいでしょう