池田真理
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常に喜びなさい!(フィリピ 4:1-9)
フィリピのシリーズも次回で終わりです。手紙を書き終えるにあたって、パウロはフィリピの人たちに対してより一層愛情を込めて書いています。順番に読んでいきましょう。まず1-3節です。
1. 主によってしっかりと立ちなさい (1-3)
1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
2-3節は、私たちには分からないことだらけです。エボディアとシンティケとは誰なのか、二人とも女性だったようですが、聖書の中でここにしか出てこないのでその他のことについては何も分かりません。この二人の間に何があったのかも分かりません。また、3節の「真実の協力者よ」と呼ばれている人のことも、「命の書」というのも、クレメンスという人についても、よく分かりません。
でも全体として何が言われているのかは私たちにも分かります。エボディアとシンティケの間に何があったにせよ、「主において同じ思いを抱きなさい」、そのために他のリーダーたちは彼女たちを助けてください、ということです。この二人は「福音のために私と共に戦ってくれた」と言われていることから、フィリピの教会の初期のメンバーだったことは確かで、リーダー的存在でもあったのかもしれません。パウロは、二人のどちらの味方もしていません。また、手紙の最後にこんなに短くしかこのことに触れていないということは、パウロにとってこの二人の問題はそこまで深刻な問題ではなかったということです。それよりも、手紙を書き終えるにあたって、1節でフィリピの人たちに対する愛情と友情を改めて伝えた上で、フィリピの人たちの顔を思い起こしながら、この言葉を書いたのだと思います。二人の間に何があったにせよ、パウロにとっては二人とも愛すべき友人でした。そして、パウロが伝えたかったことは、「主において同じ思いを抱きなさい」ということでした。それは、1節の「主においてしっかり立ちなさい」にもつながります。これは、この手紙の中でくりかえし言われてきたことです。手紙の最初の方にさかのぼって1:27にはこうありました。
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。
パウロがフィリピの人たちに望んでいたのは、「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦う」ことでした。そのことを、この手紙の最後にもう一度念を押そうとしています。主においてしっかり立っていなさい。同じ思いを持ち、同じ方向を見なさい。外部からの圧力にも、内部の意見の食い違いにも負けないようにしなさい。そのために協力し合い、支え合いなさい。あなたたちにはそれができるはずです、ということです。
私たちが教会として存在しているのも、このことのためです。主において同じを思いを持つこと、同じ方向を見ること。どんな人生の荒波の中でも、どんな世間の荒波の中でも、主においてしっかり立つこと。そのために、互いに協力し、支え合うこと。そんな関係性を持っていなければ、次に続く、最も幸せな生き方をすることは誰にもできません。常に喜んでいることは、互いに支え合うことなしにはできません。4-7節を読んいきましょう。
2. 常に喜びなさい (4-7)
4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
a) 喜べない状況の中でも喜びなさい
まず最初に、この「喜びなさい」という教えの大前提に注意しておきたいと思います。それは、喜べない状況の中でも喜びなさいという教えだということです。この手紙で読んできた通り、フィリピの人たちはパウロが投獄されている状況を心配していましたし、自分たち自身もフィリピの町で何らかの迫害に遭っていました。そのフィリピの人たちに向かって、パウロは手紙の最初から、この状況はそこまで悪いことはない、私は喜んでいます、だからあなたたちも喜びなさい、と言ってきました。そしてここで最後にまた、いつも喜びなさい、どんなことも思い煩うのはやめなさいと念を押しています。これは、私たちがイエス様を信じて生きる中で忘れてはいけないことです。苦しみの中でも喜び、不安の中でも希望と平和を持つことです。それがイエス様を信じることによって私たちが手に入れた最高に幸せな生き方です。どんな状況に置かれても喜んでいられる理由が、イエス様にはあります。イエス様を信じているなら、私たちはいつも喜んでいられるはずなのです。皆さんはこれにアーメンと言われるでしょうか、それとも耳が痛いと思われるでしょうか。私は耳が痛い方です。イエス様を信じていても、いつでも色んなことを心配してしまいます。どうやったら私たちは喜びを保って生きることができるのでしょうか?それは、とても単純で、神様に感謝をささげることによります。
b) 感謝することによって
6節の後半だけもう一度読みましょう。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」私たちは神様に色々なことを願い求めて祈ります。それは何も間違っていません。でも、どんな時も神様に感謝を捧げることを忘れてはいけません。私たちの状況がどんなであろうと、神様が良い方であること、私たちのために良い計画を持っていらっしゃることは決して変わりません。自分の思いにとらわれていると、自分の思い通りにならない時に神様に対して不満ばかり持ってしまいます。でも、私たちの願いと神様の思いは一緒とは限らず、違うとしたら神様の思いの方が素晴らしいからです。そのことを知っていたら、私たちはどんな時でも感謝することができます。反対に、自分の中に神様への感謝がないとしたら、それは自分と神様の関係が不健康になっているという意味で要注意です。神様はどんな時でも良い方であると、イエス様を通してもう一度信じ直す必要があります。
c)(どうしても感謝できない時は…)
でも、その上で、それでもどうしても神様に感謝できない時もあります。苦しい状況が変わらず、それでも神様は良い方なんだと信じ続けるのに疲れてしまうことがあります。そんな時どうすれば良いか、ここでのパウロの言葉に直接の答えはありません。(だからこの項目はカッコに入れました。)でも、この言葉は手紙の中の言葉だということを思い出すなら、そこにヒントがあります。喜びなさい、思い煩うのをやめなさいという、これらすべての言葉は、個人にあてて書かれたのではありません。フィリピの教会という共同体の中で、公に読み上げられることを想定して書かれた手紙の中の言葉です。そして、今日最初に確認したように、パウロがこの手紙の中で繰り返し教えてきたことは、主によってしっかり立ち、同じ思いを抱きなさいということでした。そして、そのために互いに協力して支え合いなさいということでした。だから、私たちがどうしても神様に感謝できない時、そういう時のためにこそ、教会という共同体はあります。私たちが一人でいつも神様を信じて喜んでいられるなら、教会は必要ありません。そうではないから、私たちには互いの存在が必要だから、そのことを神様は知っているので、この世界に様々な教会を置かれています。そして、一つの教会の中でも様々な人がいるのは、人間である以上、年齢や性別や性格や、安心して話せると感じる人がそれぞれ違うからです。私たちは一人ひとり、自分が元気な時には、イエス様の代わりになって、絶望している人とただ一緒にいて、苦しみを分かち合う使命を与えられています。また、自分が絶望の中で動けない時は、そういう人を求めることをためらわないでください。人に話したところで、状況がすぐに変わるわけでもないし、自分で戦わなければいけないことも変わりありません。それでも、私たちは同じ一つの霊によって、同じ主を持ち、同じ方向を目指して歩んでいる以上、互いにできることがなにかしらあるはずです。神様に絶望している人に希望を与えることが教会の仲間にできなかったら、他に誰ができるでしょうか。
d) そうすれば、一人一人の心にも教会全体にも平和が与えられる
少しパウロの言葉から離れてしまったので、ここで戻ります。7節「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」これはもう繰り返しになりますが、神様に感謝をささげることを忘れなければ、私たちの心は、個人としても教会全体としても、同じ主の方を向いて、一致して支え合うことができるということです。私たちが神様に感謝する時、自分の思いを超えて働く神様の意志を求めることができます。そして、なにが神様の思いなのか、何がイエス様の思いなのか、求めることができれば、私たちは教会としてもばらばらの方向ではなく、同じ一つの方向に向かうことができます。そして、喜びと希望と平和をいつも持っている共同体になることができます。
それでは最後に8-9節に進みましょう。
3. 社会の中で実践しなさい (8-9)
8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
この8節には、社会一般的に良いとされる道徳が並べられています。一般的でなんだかぼんやりしているので、私たちはここを読んでもあまり注意を払わないと思いますが、フィリピの人たちにとっては違ったのかもしれません。この道徳のリストは、フィリピの人たちがパウロと出会う前、イエス様を信じる前から親しんでいた、ギリシャ・ローマの社会の倫理的教えです。パウロ自身もギリシャ・ローマの社会で生きてきた人だったので、このことをよく知っていました。そして、イエス様を信じることによって、それまで教えられてきたギリシャ・ローマの倫理に限界があると知った経験を持っていました。なにが真実なことなのか、なにが気高いことなのか、なにが正しく、なにが清いことなのか、なにが愛すべきことで、なにが名誉なことなのか、なにが徳や賞賛に値することなのか。あなたたちは、キリストの愛に照らし合わせてそれらを自分で再定義し、判断することができるでしょう、とパウロは励ましています。
パウロがこの8-9節を最後に付け加えたのには意味があります。私たちは、イエス様に出会って、いつも感謝を持って祈り、喜びを絶やさない生き方を手に入れました。でもそれは、自分たちのうちだけにとどめておくべきことではなく、社会に関わり続け、社会の中で実践されるべきことです。フィリピの人たちはフィリピの町で、迫害があっても喜びを絶やさず、ギリシャ・ローマの社会の中で生き続ける必要がありました。私たちもそれぞれの与えられている場所で、教会の中だけで喜んでいるのではなく、教会の外でも、向かうべき方向を見失わず、喜びを絶やさず生き続ける必要があります。そして、なにが真実なことか、なにが気高いことか、もう全ては言いませんが、神様が良しとされることは何かを判断して、実行していかなければいけません。神様が良しとされることと人間が良しとすることは、重なる場合も重ならない場合もあります。でも私たちにはそれを判断することができるはずです。何事も、感謝を込めて祈り求めるなら。向かうべき方向を思い起こさせてくれて、励ましあう仲間がいるなら。
どこにいても、誰といても、状況が良くても悪くても、主によってしっかり立っていましょう。それを思い起こさせてくれる友人を持ちましょう。そうすれば、喜びと平和と希望は、いつも私たちと共にあります。
メッセージのポイント
私たちはイエス様を信じることによって、喜べない状況の中でも喜び、不安の中でも希望を持ち続けることができます。どんな時でも、主への感謝を忘れないようにしましょう。でも、私たちにはどうしても神様に感謝できない、神様を信じられない時があります。そのために教会があります。絶望の中でも希望を照らす光となるために、私たちは一人一人、また教会として、ここに置かれています。
話し合いのために
1) イエス様を信じると、なぜいつも喜んで
いられるのですか?
2) どうしても神様に感謝できない時(感謝できないことについて)、あなたはどうしてきましたか?
子供たちのために
4-9は暗記して覚えてもいいくらい、いい言葉だと思います。(暗記強制ではありませんが。)特に、神様が私たち一人一人に命を与え、愛して、良い人生を望んてくださっていることを感謝して、忘れないようにしましょう。イエス様がその根拠です。ただ、誤解しないように注意してください。いつも喜んでいなさい、思い煩うのはやめなさい、というのは、いつでも泣き言を言ってはいけない、悩んではいけない、悲しくても苦しくても強がっていなければいけないという意味ではありません。どうしても神様に感謝できない辛い時は、安心して話せる誰かに話して、一緒に祈ってもらいましょう。