イエスはすべての人の神

永原アンディ


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イエスはすべての人の神 (詩編 44)

 

 今日はテキスト全体を読むことはしませんが、はじめにこの詩の特徴と構造について理解しておきましょう。前回の詩と違うところは、個人的な苦しみではなく民族の苦しみが表現されているところです。そこで主語もほとんど「我ら」になっています。

 2-4節は民族共有の記憶です。それは、奴隷の状態に置かれていたエジプトから救い出され、すでに他の民族が暮らしていたカナン地方に自分たちの国を建てられたことへの感謝の記憶です。

(民族の記憶)
2 神よ、我らはこの耳で聞いています先祖が我らに語り伝えたことを先祖の時代、いにしえの日にあなたが成し遂げられた御業を。
3 我らの先祖を植え付けるために御手をもって国々の領土を取り上げその枝が伸びるために国々の民を災いに落としたのはあなたでした。
4 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも自分の腕の力によって勝利を得たのでもなくあなたの右の御手、あなたの御腕あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした。

しかし、現状は、敵に苦しめられる困難な状況に置かれています(5, 6)。

(神への願い1)
5 神よ、あなたこそわたしの王。ヤコブが勝利を得るように定めてください。
6 あなたに頼って敵を攻め我らに立ち向かう者を御名に頼って踏みにじらせてください。

なんとかしてください、ほっておかないでくださいと助けを願い求めるだけではなく、自分たちはこれほど感謝しているのに、他の神に心を向けないのに、あなたは我らをひどい目に合わせ続けるとほとんど非難するような言葉を神に投げかけています。

(信仰の告白と感謝)
7 わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。
8 我らを敵に勝たせ我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。
9 我らは絶えることなく神を賛美しとこしえに、御名に感謝をささげます。〔セラ

(神への非難 Accusing God)
10 しかし、あなたは我らを見放されました。我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず
11 我らが敵から敗走するままになさったので我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。
12 あなたは我らを食い尽くされる羊として国々の中に散らされました。
13 御自分の民を、僅かの値で売り渡しその価を高くしようともなさいませんでした。
14 我らを隣の国々の嘲りの的とし周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ
15 我らを国々の嘲りの歌とし多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。
16 辱めは絶えることなくわたしの前にありわたしの顔は恥に覆われています。
17 嘲る声、ののしる声がします。報復しようとする敵がいます。

18 これらのことがすべてふりかかってもなお、我らは決してあなたを忘れることなくあなたとの契約をむなしいものとせず
19 我らの心はあなたを裏切らずあなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。

20 あなたはそれでも我らを打ちのめし山犬の住みかに捨て死の陰で覆ってしまわれました。

21 このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り異教の神に向かって手を広げるようなことがあれば
22 神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。

23 我らはあなたゆえに、絶えることなく殺される者となり屠るための羊と見なされています。

(神への願い2)
24 主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく目覚めてください。
25 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを忘れてしまわれたのですか。
26 我らの魂は塵に伏し腹は地に着いたままです。
27 立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください

いったいこのようなテキストから、どのような神の意志を受け取ることができるのでしょうか?

 


1. 勘違いする神の民

a) 選民意識・ナショナリズム

 確かにエジプトでの奴隷状態から彼らを救い出したのは神です。モーセを立てて民をカナンの地まで導かせたのも神です。しかし私たちは創世記で表わされている、すべての人を創り、愛された神と、イスラエルの軍神としての神のギャップに戸惑います。聖書は神の言葉です。しかし、忘れてはならないことは人を通して語られた神の言葉だということです。戦争しろ、徹底的に破壊し尽くせと命じられたと民は理解しました。しかし、王を求め、周りの国に軍事的に脅威となることを望んだのは神ではなく民です。十戒の適応範囲は同胞の中でだけ守ればいいとしたのは民でした。本当に神が求めたのは力の均衡ではなく、神への信頼でした。神を本当に信じる民には、人間王は必要なかったのです。しかし、イスラエルは周りの強国に怯えて、国を軍事的に強くするために王を求めたのです。しかし、誰もイスラエルを責める資格はありません。旧約の民として選ばれたのがイスラエルでなく、他のどんな民族であったとしても起こったことは同じだったでしょう。どの国、民族にも自分たちが最高と思いたい思いが働きます。そして、比較的近くに存在する他国人、他民族を悪く言います。出エジプトのような偉大な経験をしただけに、神が自分たちを「特別に」愛していると感じていたのでしょう。しかし、神から見れば特別にきよい民族も、汚れた民族も決してありません。しかしこのことが起こるのは民族の間だけではありません。互いの身分の違いで、性の違い、職業の違いでも起こります。そして少数者が異質なものとして、差別や迫害のターゲットとされます。

18 これらのことがすべてふりかかってもなお、我らは決してあなたを忘れることなくあなたとの契約をむなしいものとせず19 我らの心はあなたを裏切らずあなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。20 あなたはそれでも我らを打ちのめし山犬の住みかに捨て死の陰で覆ってしまわれました。



 この言葉が彼らの勘違いをよく表しています。神様の方では、エジプトから助け出して以来、民は逆らってばかりとと感じておられたようです。(サムエル記) 

 実は、同じような記憶が日本人にもあります。13世紀の元寇です。「神風」という言葉の生まれた出来事です。北九州を襲った元の大軍でしたが、台風によって大きな被害を受け、侵略を続けられなくなって撤退してしまいました。神の送った風で、日本は征服されなかったという記憶です。この記憶が、20世紀の無謀な戦争を始める一因となりました。どんな強い相手でも、神の民は負けないという思い込みです。我らの戦いは、神の戦いで、正義の戦いだという思い込みです。そしてこの傾向は、どの国にも見られ、国や民族よりも小さなグループの中にも、個人の中にも見ることができます。そしてそれは、正しく神の意志を行うことを困難にします。つまりそれは罪の性質の一部なのです。

 

b) 優越感と劣等感はコインの裏表

神の民の心は優越感と劣等感が同居していました。神に選ばれた民という誇りは、常に、隣国との実際の力関係では劣るという劣等感とともにありました。だからこそ、神は自分の側におられると信じたかったのです。日本人は同じ感覚を持っています。皆さんの属する国、民族ではどうでしょうか?これを、もっと小さな集団や個人に目を向けると、やはり同じことが言えます。私が会った人は例外なく、その心の中に、優越感と劣等感が同居していました。例外はありません。私自身もそうです。そして、強い優越感を感じさせる人ほど、劣等感も「半端ない」という印象があります。様々な優越主義が世界中で問題になっていますが、そこには、その人々の内側にある劣等感が彼らを突き動かすエネルギーになっているように思えます。
自分のうちにある、この二つの厄介に感情をコントロールすることは誰にとっても難しいことです。悩んでいるのは自分だけではないことを知ってください。聖書が教えてくれているのは、自分が苦しい劣等感も、他者を苦しめる優越感も根っこでつながっている神との断絶の結果=罪だということです。全ての人がそこから解放されなければ自由になれないのです。そしてあなたを解放してくれるのは「イエス」です。イエスは歴史上たった一人、優越感にも劣等感にも迷わされない唯一の存在です。

 


2. イエスというフィルターを通して読めば

a) 自分とは異なる人が敵なのではない

イエスは、当時の社会常識から逸脱した人でした。先週から池田牧師の福音書のシリーズが始まりましたが、イエスのことをもっとよく知るチャンスとなるはずです。いくつかイエスの言葉やしたことを紹介したいと思います。

マタ 5:43,44「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている 。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

マタ 15:11, 18 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。- しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。

これらのイエスの言葉は宗教者たちが教えていたことに反していた上に、人々がイエスに宗教指導者に対する以上の権威を感じていたので、彼らは何とかしてイエスを殺してしまいたいと考えていました(マルコ3:6)。彼らは自分たちの建てた高い壁て人々を区別し、自分たちがその内にいることを誇りと考えていましたが、イエスがその壁を崩すようなことをしたためイエスを憎んだのです。

また、イエスは宗教指導者たちが、付き合うべきではないと人々に教えるカテゴリーの人々と親しくなったり、ともに食事をしたりするし、男性より劣った存在とされていた女性や子供にも、一人一人、大切な友として扱い。このことも、宗教指導者たちを怒らせていました。イエスは、忘れられていた旧約聖書の正しい読みかたを教えてくださいました。イエスの目を通して読むときに、聖書の神はユダヤの民族神ではなく、全ての人の創造主と見る本来の見方を取り戻すことができます。イエスの福音にはナショナリズムも民族差別も、性差別も、階級差別も入り込む余地はありません。全ての人が愛すべき存在であることをイエスに思い起こさせていただけます。イエスに愛されていることを知れば知るほど、人との比較による劣等感から解放されます。それは同時に人との比較で自分の優れたところを見つけて安心する優越感からも解放されるということです。

b) 真の敵は自分の中に

肌の色が違い、話す言葉が違っても私たちは皆、神の子です。敵は、隣国でも、他宗教でも、違う価値観を持った人々でもありません。先にイエスの、口に入る特定の食べ物などが人を汚すのではなく、人の口から出てくるもの、つまりその人の思いである悪意、殺意、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、悪口こそが人を汚すものなのだ」と教えられていることについて触れました。それらは根本的な罪の結果として、優越感や、劣等感とともに出てくるものです。憎むべき敵は私たちの心に巣食っているということです。この敵からできるだけの力を奪うために、私たちにはイエスの助けが必要です。これからのワーシップで助けを求め、いただいで新しい週の歩みを始めましょう。


メッセージのポイント

旧約の民は一部の預言者を除いて、神を民族の神としか見られませんでした。しかしそれは、彼らだけの問題ではありません。現代の神の民を自認するキリスト教徒も同じ勘違いをしがちです。イエスは隣人の概念を“すべての人”に広げました。人間が勝手に高く築き上げてしまった隔ての壁を崩したのです。イエスに従う者は、壁を築く者ではなく、崩す者です。

話し合いのために

1) 私たちの周りにはどのような隔ての壁がそびえていますか?
2) 私たちはどのような壁を作ってしまいがちですか?

子供たちのために

イエスさまを信じることの素晴らしさは、どのような人とでも友達になれることです。神様はすべての人の神さまです。神様に愛されていない人は一人もいません。国籍も民族も肌の色も性別も、すべての人が(条件なしにすべての人です!)、イエスさまの目には優劣はありません。たくさん良い友達が欲しいなら、まずイエスさまと友達になることです。