イエス様が私たちを呼んでいる

池田真理


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イエス様が私たちを呼んでいる (マルコ 1:14-20)

 「呼ぶ」という言葉は、日本語でも英語でも、「呼びかける(声をかける)」という意味もありますし、「招く」という意味もあります。イエス様が私たちを呼ぶというのにも、両方の意味があります。イエス様の呼びかけは私たちへの招きでもあるということです。今日は、イエス様が私たちに呼びかけていることは何か、そして何に招いてくださっているのか、聞いていきたいと思います。まず14-15節を読んでいきましょう。14-15節は、これから始まるイエス様の活動を最初に総括しているまとめの句です。

 


1. 悔い改め、福音を信じなさい (14-15)

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエス様の教えの全てはこの「悔い改めて福音を信じなさい」という一言にまとめることができます。でも、悔い改めるとはどういうことか、罪とは何か、福音とは何かということは、そう簡単に私たちに分かることではありません。誰でも一生かけて、様々な経験を通して理解していくことです。たとえば、去年読んだガラテヤ書は、福音とは何かということをなかなか理解しないガラテヤの人たちのために書かれたものでした。罪とは何か、福音とは何か、悔い改めるとはどういうことか、それぞれいくらでも神学的な議論ができる大きなテーマです。でも知識として知るということと、そのことを自分の生き方に反映するということは別々のことです。
今日はこの後、イエス様が漁師たちに呼びかけて自分の弟子にする場面を読んでいきます。そこでイエス様は漁師たちに「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけました。漁の真っ最中だった漁師たちは、その突然の呼びかけに、自分たちの網や舟を放り投げて従いました。彼らはその瞬間、自分たちの罪とは何かがわかって、悔い改めて福音を信じたのでしょうか?そうではないと思います。「人間をとる漁師にしよう」という言葉の本当の意味も分かっていなかったはずです。「偉い人にしてくれるのかもしれない」くらいにしか思っていなかったでしょう。彼らがイエス様に従った動機は不純だったのです。
ここに、私たちが悔い改めて福音を信じるとはどういうことかのヒントがあります。弟子たちも私たちも全員罪深く、100%純粋な動機でイエス様に従うことができる人はいません。それでも、イエス様を見て「この人は何か違う、この人になら自分の人生を預けられるかもしれない」と感じ取ることはできます。それが、悔い改めて福音を信じることの入り口です。イエス様の呼びかけを聞くということです。それが具体的に自分に何を意味するのかをすぐにはわからなくても聞くということです。「私について来なさい」というイエス様の呼びかけを聞き続けることです。そして、イエス様はどこにおられるのか、どこに向かおうとされているのか、また私はどこに行こうとしているのか、何を間違えたのか、正しかったのか、いつも確かめながら進むことです。それが、悔い改めることであり、福音を信じて歩むことでもあります。
それではイエス様と弟子たちの最初の出会いの場面を読んでいきましょう。

 


2. 私について来なさい (16-20)

16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18 二人はすぐに網を捨てて従った。19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

a) イエス様が私たちに会いに来られる

この場面でまず注目したい点は、イエス様は弟子たちや私たちが生活しているその現場に会いに来てくださるということです。普通、偉い人というのは(教授でも会社経営者でも政治家でも何でもいいのですが)他の人たちが自分に会いに来るのを自分のオフィスで待っています。誰かに会いに出向くということは、そのこと自体が上下関係を示しています。会いに行く方が下で、待っている方が上です。でもイエス様にはオフィスはありませんでしたし、自分の家で人々が来るのを待っていたわけでもありません。イエス様は自分の足で歩き回って人々に会いに行かれました。
このことは、イエス様がなぜこの世界に来られたのかという、根本的なところにもつながります。フィリピの2章の言葉を思い出してください。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6-8)

イエス様は人間の偉い人たちとは違います。「私に会いたいならお前が会いに出向いて来るのが当然だろう」とは言われません。本当は私たちが会いに出向いて当然なのですが、神様は私たちが会いに来るのを待っていられなかったのです。私たちがあまりにぐずぐずしているので、待ちきれなくなって、会いに来てくださいました。なぜ神様はそんなに私たちに会いたかったのでしょうか?それは次のポイントです。私たちと一緒に旅をするためです。

b) 一緒に旅をするために

 私たちは、イエス様が弟子をつくったということを当たり前に知っています。それも、イエス様は自分の活動が一人でやるのが大変になって、後になって弟子をとったのではなく、活動を始める前に、最初の活動として、4人の漁師たちを弟子とされました。なぜでしょうか?イエス様は弟子なしには活動できなかったのでしょうか?そうではないと思います。活動の最初に弟子をつくったのは、イエス様自身のためではなく、弟子たちのためでした。弟子たちが、イエス様と最初から旅を共にすることによって、イエス様が何をするのか、何を話すのか、そばで目撃するためです。それは、弟子たちがイエス様との個人的な関係を築くためです。自分の目と耳でイエス様を知ることによって、イエス様のことをよく知るためです。
イエス様は私たちにも「私についてきなさい」と言われています。私たちがイエス様と一緒に人生の旅をするためです。私たちは自分の人生は自分の力で歩んでいると錯覚してしまいますが、イエス様がいなければ、私たちは自分の人生がどこに向かうのか、何のためにあるのか、何を目指せば良いのか、確信を持てることはありません。「私についてきなさい」というイエス様の呼びかけにいつも耳を澄まして、イエス様がどこにおられるのか、どこに向かおうとされているのか、よく聞きましょう。そのために必要なのは、イエス様のことをもっとよく知ることです。それはOJT(On the job training 実地訓練)です。弟子たちと同じです。旅をしながらイエス様に怒られます。そして十字架という出来事を通して、自分の罪を知ります。イエス様がいない、死んでしまったという絶望の3日間を、私たちも経験しなければいけません。復活の喜びを知るのも、旅の途中です。私たちは一人ひとりが、自分の人生を通してイエス様をよりよく知ります。それがイエス様についていくということです。

c) 自分を捨てて

 ペテロたち漁師4人は、イエス様に呼ばれて、自分の生活を捨ててイエス様に従いました。これが私たちにどういう意味があるのか、教会では勘違いされていることが多いように思います。牧師や宣教師になることが、100%自分を捨ててイエス様に従うことで、それ以外の職業に就くことは二流クリスチャンだというような誤解です。私たちは、職業が何であれ、無職でもリタイヤしていても、イエス様の呼びかけに従うことも、無視することもできます。何をしていても、自分の利益よりもイエス様の呼びかけに応じることができるかどうかが、私たち全てに問われていることです。
今日一番最初に、「呼ぶ」という言葉には「招く」という意味もあるということをお話ししました。英語のcallingは呼びかけという意味と、天職という意味があります。天が与えた仕事、神様に与えられている仕事という意味です。今自分がしている仕事は天職と言えるだろうか、と問うたら、自信を持ってそうだと言える人は少ないかもしれません。仕事をしていなければ自分の価値がないように感じてしまう人も、この社会には多くいます。でも、どこで何をしていても、していなくても、今それぞれが置かれている場所が、神様が今あなたに与えている持ち場です。そこで、イエス様の呼びかけcallingを聞いてください。自分の思いにとらわれるのではなく、イエス様のなさること、言われることを目撃してください。そして、イエス様と旅を続けてください。

 


メッセージのポイント

私たちはそれぞれが置かれている状況の中で、イエス様と一緒に旅をするように呼ばれています。その旅は、イエス様がすること・言うことを目撃する旅です。イエス様がどこに向かおうとされているのか、自分に何を望んでおられるのか、イエス様の呼びかけに耳を澄ましましょう。

話し合いのために

1) イエス様の呼びかけを聞いていますか?
2) 自分を捨ててイエス様に従うとは、あなたにとって具体的にどういうことですか?

子供たちのために

16-20節を一緒に読んでみてください。イエス様はなぜひとりで行動せずに、弟子をつくったのでしょうか?話し合ってみてください。イエス様は私たちにも呼びかけています。私たちがイエス様と一緒に毎日を歩んで、それによってイエス様のことをもっとよく知るためです。「私について来なさい」は、「私のすることをよく見ていてごらん」ということでもあります。子供達も毎日の生活の中でイエス様がしてくださること、教えてくださることを発見してほしいと思います。