永原アンディ
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誰が神の民なのか?(詩編 47)
この日曜日はこの国で生きている私たちにとって「平和」ということを考えるのに最もふさわしい日曜日かもしれません。先週、広島と長崎の原爆記念日があり、今週は終戦記念日があります。とはいえ1945年の夏の出来事です。皆さんにとっては、遠い昔のことだと思います。私は、その10年後に生まれました。まだ戦後と呼ばれた時代です。傷痍軍人が街角で施しを求めている姿を小学生の頃までよく見たものです。
戦争に負けたこの国は、前回のメッセージのテキスト詩編46編の9,10節を成就するような新しい憲法を持ち平和を確信しました。
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
しかしその希望はすぐに裏切られます。5年後には朝鮮戦争が起こり、さらにベトナム戦争、中東戦争と、かつて日本軍の基地であった施設はアメリカ軍の施設として用いられ、今でも存在しています。私たちは永久に平和を作り出すことはできないのでしょうか?その答えを考える上で、47編は大きなヒントとなってくれます。それは先週のメッセージの「神の国で生きる」ということとも深い関わりがあります。まず全体を読みましょう。
詩 47
1 【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】
2 すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
3 主はいと高き神、畏るべき方全地に君臨される偉大な王。
4 諸国の民を我らに従わせると宣言し国々を我らの足もとに置かれた。
5 我らのために嗣業を選び 愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ
6 神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
7 歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。
8 神は、全地の王 ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
9 神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。
10 諸国の民から自由な人々が集められアブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
1. 旧約聖書の神の民
実は、この歌は戦争の勝利を祝う歌です。それがなぜ平和を考えるヒントとなるのでしょうか? ダビデによって統一され、その子ソロモンによって神殿が立てられた時代は、古代イスラエルの最も栄光に満ちた時でした(BC1000年頃)。特にダビデは今まで紹介してきたように、窮地に追い込まれることも、失敗することも多くありました。一方で有能で、人気のある王であるばかりでなく、神様を敬い、イスラエルの真の王は神様であることを信じる人でした。この歌はダビデが戦いに勝利してエルサレムに凱旋する時に担ぎ上らせ、ソロモンが神殿を建てた時には、至聖所(Holy of Holies)と呼ばれる神殿の中心に安置した神の箱についてのエピソードがベースになっていると考えられています。6節にこのモチーフの原型が見られます。
神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
民族の勝利は、真の王、神様の勝利だと考える詩人は、人々に賛美の声を上げることを求めています。しかし、この時代の人々の理解では、神様はあくまでイスラエル民族の神様です。神の民といえば、イスラエル以外には考えられなかったのです。この視点から書かれた詩編ですから、選ばれた民の元に他民族も従属して、その上にイスラエルの王が、そしてその上に神様が君臨するという形でしか書き表せなかったのです。
神様はまず最初に、イスラエルにご自身を表され、彼らを神の民と選ばれましたが、それは全世界の人々との関係を回復するための、第一段階だったのです。古代イスラエルの人々にとっては、いつまでも自分たちだけが選ばれた神の民でいたかったでしょうが、神様にとっては、世界に住む全ての民がご自身のものです。全ての人が、ご自身に似た者として作られたのですから当然です。 10節で、彼らの誤解が如実に表れています
諸国の民から自由な人々が集められアブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
これを創世記17章、神様がアブラハムに「あなたを多くの国民の父とする」という言葉の成就と見るわけですが、この栄光は長くは続きません。ソロモン以降のイスラエルの歴史は滅亡に向かう転落の歴史です。創世記の言葉は、アブラハムが信じて従った神様を多くの様々な国民が信じるようになるという意味であり、イスラエルの元に世界が統一されるというようなものではなかったのです。
神様と民族を結びつけている限り、その民は平和になることも、世界の平和に貢献することもできません。戦争は勝利であっても平和には結びつかないのです。
しかし、イエスを神と信じる私たちは、この詩編をもっと別の視点から読むことができます。それは「イエスの視点」から読むということです。
2. 現在の神の民
神様は、ダビデ、ソロモンの時代の1000年後、イエスとしてこられました。新約聖書の時代の始まりです。イエスはご自身が民族の神に限定されないものであることを、その短い生涯の中で言葉にも、行動にも表されました。例えば真の隣人とは、民族としての同胞なのではなく、血筋に関係なく、その人を助け、ニーズを満たす人のことであること(ルカ10)や、ユダヤ人が避けていたサマリア人を癒されたこと(ルカ17)、サマリア人も真の神を知り礼拝する時が来ると言われたこと(ヨハネ4)などからそれがわかります。イエスの弟子たちもやがて、救いがユダヤ人に限定されないことに気づき、イエスの福音は世界に広がってゆくのです。イエスを信じ従う者が神の民という理解です。
しかしやがて、この新しい神の民・教会も誤解するものであることがすぐに明らかになりました。教会は人間の組織として、大きく強くなれば、国や民族と同様に、神様の意思から離れていってしまうのです。そして、それは多くの場合、国や民族や権力といった強く大きなものに結びつくという形で現れ、逆に小さな者、弱い者に寄り添うことを忘れてきました。旧約聖書の民と同じ過ちを、現在「神の民」もしているということです。自分たちを神の民とみなすことが同時に、自分たちと異なる人々を「神の敵」とみなすことになりました。その結果、多くの人は、キリスト教も含めて宗教は平和をもたらすものだと思えない現実があります。
3. 未来の神の民
神の国はイエスのこられた時に世界の中に始まりました。しかしまだ完成してはいません。終末とともに完成します。国と言っても目に見える領土を指すのではありません。そうではなく、神様の支配を指す言葉です。その支配は世界中で始まっていますが完全なものではありません。その不完全さは、人間の罪の性質からくるものです。
原爆投下や戦争の責任は誰にあるのでしょうか?この季節になると、よく戦争や原爆は誰の責任だったのかという議論がなされます。
創世記3章のアダムとエバの物語が「罪の本質」を明らかにしています。それは神様に背を向けること、自分が神のように振る舞うことです。キリスト教会は、これを一般に使われている「罪」という言葉と混同しないように「原罪」と表現してきました。
創世記2章によれば、神様が私たち人間に期待されていたことは、神様が作られ「極めて良かった」と満足された世界を、神様のパートナーとして、守り治めることだったのです。
しかし、人類はその歴史の初めから、神のパートナーであることに満足しませんでした。アップルの創業者、最高経営責任者=CEOとして2011年に亡くなったスティーブ・ジョブズが1985年にアップルをクビになったことを知っていますか?アップルはその頭脳とも言えるジョブズを追い出して、結局、経営不振に陥り、約10年後に彼を復帰させました。人類もおなじです。作ってくださっただけでなく、パートナーとして招いてくださった神様を、世界のCEOの座から追い出して、自分たちがその座についたのです。それが原罪です。どんなに優れた経営者、技術者でもジョブズの代わりは務まらなかったように、人間は神様にはなれません。
原爆も、戦争も、環境破壊も、誰のせいなのかの追求では本当の解決は見つかりません。原罪は、個人的な利己心、自己中心性として働き、自分を傷付け、他人を傷付け、自然を傷付けます。原爆投下は、アメリカのせいでもなければ、日本の自業自得でもなく、特定の人物、グループのせいでもなく、今まで世界に存在した全ての人の罪の性質の集合がもたらしたものです。原爆死没者慰霊碑の碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と書かれています。日本語では主語がありませんが、英語では「We=私たち」です。それは「人類全体」をさすものだというのが広島市の見解です。原爆死没者慰霊碑の碑文は、自虐史観的だと非難され、何度もペンキをかけられたり傷付けられたりしましたが、実は聖書の罪理解と一致しているのです。
さて、アップルではジョブズが帰ってきて、勢いを取り戻し2011年にCEOを退任するときには、株式の時価総額でエクソンモービルを抜いて、世界一の企業となりました。私たちのこの世界はどうなっているのでしょう。パートナーとして招かれた直後に、CEOを追い出し自分勝手な経営で世界を破産寸前にしてしまった私たちのところに、神様はイエス・キリストとして帰ってきたのです。しかしイエスはジョブズのように、自らを追い出した人々を首にするのではなく、全ての人に悔い改めを求めたのです。私に従ってくるなら、その罪を赦すと宣言し、私たちが積み上げた罪という負債を全部自分で引き受けて十字架にかかられました。神様は全ての人を愛し、パートナーとしたいと願っておられますが、残念ながら、気がついていない人もいれば、自覚的に背き続けている人もいます。そして、イエスを信じている私たちでさえ、自分の罪の性質によって人を傷つけてしまうことが起こるのです。罪は赦されていますが、その性質は持ち続けています。だから世界の悲劇は続きます。イエスは、誰も責めませんでした。死に向かう十字架の上でさえ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」とおっしゃいました。イエスは人を罪に定めるためではなく、罪から解放するために来られました。たとえ、自分が生きている間に平和が来なくても諦めてはいけません。あなたが、罪を悔い改めて、イエスに赦しを求め彼に従って歩み始めるところに神の国は始まり、教会という大きな集まりとなり、完成に向かって進みます。私たちが、かつて神の民と呼ばれた人々のように、イエスから離れていかないように、イエスの思いを追求しながら与えられている、この世界での日々を歩んでゆきましょう。この地上から天に移されたとき、あなたは完成した神の国を味わうことになります。あなたと神様の間の平和があなたと周りの人々との平和を実現します。世界の悲劇がすべての人の罪の性質の集合であるように、一人一人と神様との平和の集合が世界の平和に繋がるのです。
メッセージのポイント
神様は、全ての民に先立って、まずイスラエルの民にご自身を現されました。しかし、神様はご自身をイスラエル民族の神と限定されたわけではありません。旧約聖書を表面的に読むと「神様が全ての人をイスラエルの元に服従させることを望んでおられる」という民族主義的な誤解をしてしまいます。地上の国籍、属する民族に関わらず、イエスを信じ、イエスに従う者が「神の民」なのです。
話し合いのために
1) 神の国とはどのようなものなのでしょうか?
2) なぜあなたは自分を神の民だと言えるのですか?
子供たちのために
ユアチャーチには世界中から色々な人が集っている素晴らしさから、民族や他国に対する偏見が間違いであること、平和の大切さについて考えて下さい。なぜ昔から今まで、戦争で多くの人が亡くなり悲しい思いをする人が絶えないのでしょうか?
親を奪われた子供たち、今日食べるものがない子供たち、家がない子供たち、
特定の誰かのせいにすればいい問題ではありません。誰もが持つ人間の「罪の性質」が沢山の悲劇を生んで来ました。
戦争だけではなく人と人との争いの原因は「罪の性質」です。イエスに従うことが唯一の平和への道であることを伝えて下さい。