永原アンディ
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教会って何だろう? (詩編48、マタイ16:15-19)
1. 始めに (1)
この詩の始めに
1 【歌。賛歌。コラの子の詩。】
と書かれている通り、この詩は神様への賛歌です。しかしよく見てゆくと、神様に対する直接の賛美は、2a, 10-12(e1, 9-11)節だけで、それ以外の部分は「シオンの山」の偉大さをたたえています。 目には見ることのできない神様を信頼するイスラエルの民ですが、その神様の栄光の現れとして目に見える「シオン」が必要だったのです。このことは、同じ神様を信じる現代の私たちに何を教えてくれるのでしょうか?少しづつ読みながら考えてゆきましょう。2~4(e1~3)節を読みます。
2. 今、神様はどのようにご自身を示されるのでしょう?
(2-4, マタイ 16:13-19)
2 大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は 3 高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。4 その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。
詩人は最初に主を一言だけたたえると、すぐに「シオンの山」についてたたえはじめます。「シオンの山」とは元々城壁に囲まれたエルサレム旧市街の南側の丘のことですが、「シオン」はやがてエルサレム全体、イスラエル全体を暗示する言葉となりました。エルサレムを中心にユダヤ国家を再建を目指す近現代のシオニズムの元となる地名です。ダビデはエルサレムを支配下に収めると、そこを神の都と定め、同時に自身の王朝の都としました。ダビデはそこに神殿を造りたいと願いましたが、実際にはダビデの子ソロモンが造りました。エルサレムに神殿が存在したのは、ソロモンが建設した紀元前960年から、ローマによって破壊された紀元70年までです。紀元前6世紀には一度、バビロニアによって破壊され再建されています。イエスの生まれる60年ほど前に、時の王ヘロデが大規模な改築を行ったので、イエスが見た神殿は、その歴史の中で最も美しい姿の時だったと思います。しかしダビデもソロモンも、神様は人間の作った神殿に住むような小さな存在ではないことを心得ていました。この歌も神殿をたたえているのではなく、「神の都」の象徴として「シオンの山」をたたえています。
イエスは、立派な神殿があり、宗教と政治の中心となっていた「シオン」=エルサレムが、本当に神様を崇める場所ではなく、むしろ神様を利用する場所になってしまっていると繰り返し警告していました。
マタイによる福音書16:15-19に記されているイエスの言葉を聞きましょう。
(マタイ16:15-19)
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
イエスは、ご自身に従う者たちにあらゆる権限を与え、彼らを「私の教会」と呼ばれたのです。また同じ福音書の18章では「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)」と言われました。
イエスに従って歩むために立派な建物は必要ありませんが、同じ思いを持つ人々との共同体は欠かせないということです。その共同体こそ私たちにとってのシオン=教会の姿です。私たちは、その中に神様の存在を確認して慰めを、勇気を、力を得るのです。
3. 陰府の力を退ける教会 (5-8, マタイ 16:18)
5 見よ、王たちは時を定め、共に進んで来た。6 彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。7 そのとき彼らを捕えたおののきは産みの苦しみをする女のもだえ8 東風に砕かれるタルシシュの船。
ここにはシオンの理想的姿が描かれていますが、実際のエルサレムは何度も外国に占領され、神殿も破壊されました。それでもシオンはユダヤ人の希望の象徴であり続けました。振り返って、教会はどうでしょう?イエスはペトロに言いました。
18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
私たちの敵は「陰府の力」つまり死の力です。それは肉体の死を意味するものではありません。永遠の命、つまり神様との私たちとの間を引き離そうと働く力です。私たちは、イエスを主と知っていても困難や絶望に襲われ、本当にイエスは自分と共にいてくれるのかと簡単に疑ってしまう弱さを持った存在です。だから私たちにもシオン=教会が支えなのです。敵は何度も、私たちが生きている限り、私たちの心に攻撃を仕掛け続けます。私たちのシオン、教会も万全ではありません。だから宗教改革が必要となったのです。私たちがよく知っている500年前の宗教改革以前にも教会は何度か大きな変化を必要としました。教会にとって改革は一度きりのイヴェントではありません。改革し続けなければならないものなのです。
しかしそれでも、私たちは教会を信頼します。表面的には、民族、国家、クラブといった他の人間の集まりと同じように見えます。でも、イエスの教会、イエスの体なのです。
4. 正義を行う教会 (9-12, マタイ 16:19)
9 聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た 万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。〔セラ 10 神よ、神殿にあってわたしたちはあなたの慈しみを思い描く。 11 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。12 あなたの裁きのゆえにシオンの山は喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る。
19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
詩人はここで、シオンが永遠の存在であること。神様の慈しみと、正しい裁きの現れるところであることを歌います。
イエスは、陰府の力も教会に勝てないと宣言された後、こうも言われました
19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
イエスは私たちの教会が、私たち一人一人の魂を敵の攻撃から守るシェルターであるだけではなく、世界に慈しみと正義を行い、人々の希望となることを求めておられます。
ユアチャーチが始まって25年、少しづつ神様に成長させていただいて、心からの礼拝を捧げる場として、魂のシェルターとしての働きを続けて来れました。インドネシアの子供達の働きを支えてくることもできました。しかし、なかなか、この地域のニーズを満たすという働きにまで乗り出すことはできずにいたのです。ユアチャーチカヴェナントでいえば、1)神様を愛し、神様に仕える 2)互いに愛し合い仕え合う 3)世界を愛し世界に仕える の3の部分の教会としての働きです。インドネシアも世界の一部ですが、この地域もそうなのです。いま、様々な人々との出会いによって私たちがここにあって、この地域に住む人々を愛し、仕える道が開かれていることがわかってきました。アナウンスにもありましたが、来週の午後は、この「地域プロジェクト」についてアイディアを出し合うミーティングを行うので、興味のある方は是非参加してください。
5. 教会を再発見しよう (13-15)
13 シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ 14 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよ 15 この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。
詩人にとって、シオンは誇らしい場所でした。そこにある多くの立派な建造物が、神様の共にいてくださることを彼は素直に感じられたのです。しかし前にも触れましたが、シオンは完璧ではありませんでした。何度も破壊されては再建されてきました。時代によって支配者も変わりました。教会も同じです。変質したり、過ちを犯したりするのです。
先週前半、教会に関する大変残念なニュースをお聞きになったかと思います。「ペンシルバニアのカトリック教会で、70年に渡り300人以上の神父が1000人以上の少年少女に性的虐待を加え、教会はそれを隠した」というものです。残念なことに、そのような出来事は初めてのことでも、アメリカだけのことでも、カトリック教会だけのことでもありません。教会はその本質を知り、人間としての自身の弱さを自覚し、イエスとの交わりの中で、日々改革されなければ腐ってしまうのです。特に、牧師とか神父には個人的にも、さらに厳しく求められていることです。キリストの体は今、傷だらけです。誰が一番悲しんでいるのでしょうか?その体の主であるイエスです。今起こってきていることは、改革し続けることを教会が、つまり私たち一人一人が、日々新たにされることを怠ってきたことに原因があります。キリストの体に属する者は誰でも、主との親しく過ごす時を持つことによって、日々新たにされなければ、霊的な健康を保つことができません。私たちは腐った教会から逃げだすべきでしょうか?あの人達とは違うのだと言うべきでしょうか?そうではありません。それがどのような状態であっても、私たちはキリストの体を離れては生き続けることはできません。治療したり手術をして悪い部分を取り除く努力も必要でしょう。カトリック教会は、今そのことに真剣に立ち向かっているはずです。
私たちがそうならないようにするにはどうしたら良いのでしょうか?それは第一に、心からの礼拝を日々捧げ続けることです。そして、互いに仕え合い続けることです。そして、人々に仕え続けることです。流れる水は腐りません。転がる石には苔は生えません。とは言っても、自分で動き回ろうとする必要はありません。流れる力、転がる力は主がくださるからです。主の流れに逆らわず、身を任せて、進んでゆきましょう。
メッセージのポイント
イエスを主、神と信じ従って歩んでいる私たちにとっての「シオン」は教会です。教会はキリストの体といわれます。イエスは私たちに、教会が神殿のような目に見えるビルディングではなく、共同体であることを教えてくれました。それは最初の弟子たちにも遡ることのできる、時代も地域も超えた共同体です。それぞれの教会は、置かれたコンテキストによって、様々な役割を果たしていますが、一言でいえば「大きな家族」なのです。
話し合いのために
1) シオンとは何ですか?
2) 現代の教会の課題は何ですか?
子供たちのために
まず「旧約聖書の時代の人々」を意識させてください。イエスが世にこられる前のユダヤの人々です。彼らは、他の民族のように木や石で作られた偶像を信じないで、世界を作られた神様を信じていましたが、神様を礼拝するために作られた神殿や、その神殿のあった「シオン」を、神様が働いていてくださる証拠として大切にしました。私たちには神殿はありません。しかし、イエスが与えてくださった「教会」があります。教会は自分の家族を含む「大きな家族」のようなものであることを教えてください。罪の性質を持つ人間の集まりである以上、教会に問題が起こることは当然ですが、それらのことも愛によって乗り越えてゆくことができます。