受け身でない信仰

池田真理


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受け身でない信仰 (マルコ 2:1-12)

 

A. 受け身でない信仰に応えるイエス様 (1-5)

1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

1. 受け身でない信仰

 「信仰」という言葉が出てくるのは、マルコによる福音書でここが最初です。そして、今日のお話のキーワードはこの「信仰」です。信仰と一言で言っても、その中身や捉え方は人によって全然違います。今日は、この中風の人の癒しのお話から、信仰について考えていきましょう。

 本題に入る前に、日本語の中風という言葉ですが、恥ずかしながら私はよく知らなかったので調べました。これは古い言葉で、今で言うところの脳卒中の後遺症で麻痺が残っている状態のことを指すそうです。聖書の原語では麻痺している状態を指す言葉が使われおり、半身不随の人というくらいの意味です。自分で動くことができなかったので、布団に寝かされたまま友人たちに運ばれてきたということです。

 さて、5節には「イエスはその人たちの信仰を見て」とありますが、この人たちの信仰とはどういうものでしょうか?それはここに書いてあるままを読み返すと、友人を癒してもらうために屋根を剥がして病人をつり降ろしたことです。そこには、友人を治してもらいたいという切実な願いが現れています。また、この病人本人の癒されたいという願いもあります。彼らはどこかでイエス様のうわさを聞きつけて、この人の病気が治るためにはもうイエス様しかいない、と思ってやってきたのでしょう。でも、いざイエス様がいる家に着いてみたら、あまりの人だかりで近づくこともできません。おそらく、最初は病人を通してくれと周りの人に呼びかけたのかもしれませんが、人々は道を開けてくれませんでした。そこで彼らは大胆な行動に出ました。当時の一般的な家は、壁はレンガでできていましたが、屋根は木や草を平らに並べた上に泥を塗り固めた簡単な作りでした。定期的に屋根を作りなおすために、家の壁づたいに階段もついていました。彼らはその階段を使って屋根の上にあがり、イエス様の真上と思われるあたりの屋根を剥がし始めました。家の中にいたイエス様も人々も、頭上から土が降り始め、やがて穴が開いて空が見えた時、何が起こっているのか分からなかったでしょう。でも、そこからつり降ろされてきたのは床に乗せられた病人でした。

 この大胆な行動が信仰です。彼らはイエス様に近づくために、邪魔が入っても諦めませんでした。イエス様の話を中断させても、みんなに土がかかっても、この家の人を困らせても、イエス様に近づくためなら非常識なことでもやってしまいました。ここに、彼らの信仰がありました。イエス様なら治してくれるという期待と信頼です。それは、もうイエス様しかいない、という切実な願いでもありました。その思いが彼らを大胆に行動させました。

 私たちは信仰というものを複雑に考えがちです。でも、このお話から分かることは、信仰はイエス様に助けを求めることだということです。本当に絶望して、もう生きていけないと思っても、もう未来はないと思っても、あきらめずにイエス様に助けを求めることができたら、それが信仰です。助けを求めるということは、自分の限界を認めた上で、助けを与えてくれるかもしれない人を信頼することです。誰も助けてくれないと思い込んだら、助けを求めることもできません。イエス様に助けを求めるのは、イエス様を信頼できているからです。助けを求めることは、助けられるのを待っていて自助努力をしない受け身な姿勢のように思えますが、それは違います。時には、他人の家の屋根を剥がしてしまうこともあります。もちろんそれは私たちにとって文字通りの意味ではありません。でも、イエス様に助けを求めることを邪魔しているものがあるとしたら、それは大胆に取りのけてしまわなければいけない時があるのです。そして、なりふり構わずイエス様の前まで出て行って「助けてください」と言っていいのです。それが、受け身でない信仰、積極的な信仰です。

 

2. とても個人的なイエス様の応え

 この信仰を見たイエス様の最初の反応は、一見とても意外なものでした。

5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

この人が病気を癒してもらいたいためにここまできたことは明らかでした。それなのに、イエス様は彼の病気を癒すより前に、まず最初に「あなたの罪は赦される」と言われました。このことから、この物語は教会の中で長く議論されてきました。病気の原因は罪であるという因果応報の原則に基づいた考え方は、昔も今も根強くあります。その考え方を、イエス様も持っていたということなのでしょうか。私はそうではないと思います。これまでも読んできたように、イエス様は病気の癒しを求める人々に対して、何も見返りを求めず、無条件に癒しを与えてきました。罪を悔い改めたら癒しあげるとも、私を信じたら癒してあげるとも言いませんでした。このイエス様の姿勢は、十字架に至るまで変わることはありませんでした。ただ、いくつか例外があります。その例外の一つが今日のこの箇所です。例外というのは、必ず癒しを求める人のためです。この中風の人の具体的な状況は私たちには分かりませんが、イエス様は知っていました。そして、この人には特別に、罪の赦しの宣言が必要であると知っていたのだと思います。それは、この人自身もイエス様に言われるまでは気が付かなかったことかもしれません。でも、イエス様はこの人の心を見抜き、この人にとって一番必要だった言葉をかけられました。「子よ」という呼びかけも、「あなたも神に愛されている子である」という宣言です。私たちにも、その場にいた多くの人にも、このイエス様の宣言は不可解なものですが、この人にとっては個人的にとても意味のある、心の深くに触れる言葉だったのです。

 私たちがイエス様に助けを求めてあきらめない時、イエス様は私たちに個人的に一番必要な答えで答えてくださいます。イエス様の答えは、私たちが一番求めている答えではないかもしれません。でも、その答えが与えられた時には、私たちは自分でも気がついていなかった心の一番奥深くにあった乾きにイエス様が触れてくださったことに気がつかされるでしょう。もがいている間は苦しいですが、イエス様は必ず私たちの期待以上の形で助けてくださるので、あきらめずに信頼しましょう。

 それでは後半です。後半は全く別の方向に話が動いていきますが、実は私たちの現実を別の方向から表していると言えます。まず6-8節を読みます。

 

B. 受け身でない信仰を可能にするイエス様

1. 前提:私たちはイエス様を拒絶する性質を持っている (6-8)

6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

 この律法学者たちの姿は私たちの姿です。私たちは神様という存在を否定する性質を持っています。神様という存在がいると漠然と思っていたとしても、その神様が自分の生活に何も関わりがないのであれば、その神様はいないのと同じです。そして、結局は自分を神様にして、自分が正しいと思い込んでいます。この律法学者たちの言い分は滑稽です。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」その通り、だからイエスは神なのです。彼らはイエス様の言葉や奇跡に心を開かず、最初からこの人が神であるはずがないと決めつけています。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか?」自分が神様の側にいると信じているから、つまり自分を神様にしているからです。

 今日の前半で、私たちがイエス様に助けを求めることを妨げるものがあったら、それを大胆に取り除かなければいけない時があるとお話ししました。それは私たちの中ではなく外にあることもあります。人だったり物だったり地位だったり、様々な誘惑が邪魔になることがあります。でも、最大の妨げは私たちの内側にあります。それがこの、自分を神様にする罪の性質です。それが根本的に私たちとイエス様の間を裂き、常に遠ざけようと邪魔をしてきます。イエス様は律法学者たちに「なぜ、そんな考えを心に抱くのか?」と聞かれましたが、これは「なぜ、私を信じられないのか、疑うのか?」という嘆きでもあります。厳しいですが、これが私たちの罪の現実なのです。自分を神様にし、イエス様を否定します。こんな私たちに、イエス様はなんと言われているのでしょうか?残りを読んでいきましょう。

 

2. イエス様は神様の赦しを体現している (9-12)

9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 イエス様は、自分には病気を癒す権威と同時に、罪を赦す権威を持っていることを知らせようと言われました。目に見えない神様が私たちの罪を赦してくださっているのかどうかは、本来なら私たちには知りようがありません。そこで、神様はイエス様として来て下さり、罪の赦しを証明して下さいました。イエス様と同時代に生きた人々には、それは実際に耳に聞こえるイエス様の罪の赦しの宣言でした。私たちにとっては、イエス様が十字架で死なれたという歴史的出来事が証明です。私たちが神様を否定し、自分を神様にする罪を、イエス様は十字架で私たちの代わりに負ってくださいました。だから、イエス様自身が、私たちの罪の赦しそのものです。

 前半で、イエス様に助けを求めるのが積極的な信仰だとお話ししました。でも、イエス様が私たちを助けてくださるという信頼の根拠はどこにあるのでしょうか?それは私たちの中にはありません。希望的観測でも困ります。そうではなく、根拠はイエス様の十字架という事実にあります。イエス様の十字架が、私たちが罪の赦しを得て、大胆に神様に助けを求める道を開いてくれました。助けてほしいと願いながら、必ず助けてくださると信じることができるのは、十字架によります。イエス様の十字架によって、私たちは大胆に助けを求め、大胆に自分を変えていただき、イエス様に近づくことができます。そして、イエス様は私たち一人ひとりの個人的なニーズを知っていて、それぞれに最も必要な答えで答えてくださいます。

 イエス様は最後に中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」病気によって起き上がることもできなかった人が、起き上がって自分の床を担いで帰って行きました。自分の力では動けなかった人が動けるようになり、自分の涙と汗をたっぷり吸った床を担ぎ上げました。信仰は、不可能を可能にする奇跡です。私たちに神様の力が働かれることを体験する奇跡です。求めなければ与えられません。大胆に求めましょう。

 


メッセージのポイント

私たちはもともと、自分が正しいと思い込み、自分を神にする罪の性質を持っています。イエス様はそんな私たちでも大胆に神様の助けを求めることができるように、道を作って下さいました。罪の赦しという道です。そして、私たちが助けを求めれば、私たち自身も気が付いていないような最も個人的で根本的な必要を満たす応えで応えて下さいます。イエス様に安心して期待して、大胆に助けを求めましょう。

 

話し合いのために

1) あなたがイエス様に近づくのを邪魔しているものは何ですか?
2) それはどうしたら取り除けますか?

 

子供たちのために

1-5節にしぼって話してみて下さい。場面を想像しながら、それぞれの登場人物の姿を想像してみて下さい。イエス様、群衆、中風の人、その人を運んできた友人たち。癒しを求めてきた人に対して罪の赦しを言い渡すイエス様の5節の答えは的外れに思えますが、恐らくこの人が最も必要としている言葉でした。当時のこの地域の家の屋根というのは簡単に剥がせるものではありましたが、それでも大胆な行為です。そこにこの人たちの切実さとイエス様への信頼があります。イエス様はそれを「信仰」と呼びました。