神様の言葉を投げ捨てていませんか?

永原アンディ


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神様の言葉を投げ捨てていませんか? (詩編 50)

 詩編には「アサフ」の詩と記されているものが12編あります。この50編以外は73編~83編にまとまっています。アサフはダビデの同時代のワーシップリーダーです。ただ。詩編のそれぞれに付けられている表題は、ずっと後の時代、詩編としてまとめられた時につけられたもので、実際にアサフが書いたものではないようです。むしろ、ダビデの名が記されている、次の51編と内容が連続していて、もともと一つの詩であったと考える研究者もいます。

 イエスに従う者は、神様の言葉を心に留め、それによって道を見出して前進します。しかし、神様の言葉をしっかり受けとってそれに従っているつもりでも、実は神様の言葉を投げ捨てて、別の何かによって歩んでいるということがあるのです。イエスが本当に私に求められていることは何か?自分はそれを行なっているか?どうしたらそうできるかを探ってゆきましょう。

 


A. 偽りの礼拝から離れなさい
1. 死を避けられる人は誰もいない

 はじめに1-6節を読みます

1 【賛歌。アサフの詩。】
神々の神、主は、御言葉を発し
日の出るところから日の入るところまで
地を呼び集められる。

2 麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
3 わたしたちの神は来られる
黙してはおられない。
御前を火が焼き尽くして行き
御もとには嵐が吹き荒れている。

4 神は御自分の民を裁くために
上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。
5 「わたしの前に集めよ
わたしの慈しみに生きる者を
いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
6 天は神の正しいことを告げ知らせる。
神は御自ら裁きを行われる。〔セラ

 「全ての者の主である神様が人々を呼び集める」というところから歌は始まります。神様は世界中の人々を集め、そこにご自身も現されます。なんのためでしょうか?それは人々の状態を告発するためです。そして裁かれるというのです。ここで神様は検察官+裁判官のようです。これだけでは人々に勝ち目はありません。しかし、これは厳しい告発ですが、断罪して見捨てるための裁判ではないということが最後まで読んでいくとわかります。

 

2. 偽りの礼拝に対する告発 (7-13, エレミヤ 7:22-26)

 7-13節を読みましょう

7 「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。
イスラエルよ、わたしはお前を告発する。
わたしは神、わたしはお前の神。

8 献げ物についてお前を責めはしない。
お前の焼き尽くす献げ物は
常にわたしの前に置かれている。

9 わたしはお前の家から雄牛を取らず
囲いの中から雄山羊を取ることもしない。
10 森の生き物は、すべてわたしのもの
山々に群がる獣も、わたしのもの。
11 山々の鳥をわたしはすべて知っている。
獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。
12 たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。
13 わたしが雄牛の肉を食べ
雄山羊の血を飲むとでも言うのか。

これが告発の第一部です。ここで神様が指摘していることは、彼らが見当はずれな礼拝をしていた事です。当時の礼拝の中心は動物の犠牲を捧げることでした。彼らが神様に命じられたと信じて行なった礼拝です。それなのになぜ神様は「違う」と言うのでしょうか?神様が最初にそれを受け入れたのは、それを食べたかったからではありません。つまり動物の犠牲自体を求めたのではなかったのです。そうではなく、感謝と賛美と献身として大切なものを惜しまず捧げる心を見たかったのです。彼らはいつの間にか、動物の犠牲を形式的に規定に従って捧げていただけで、心は神様から離れていたのです。その結果が、告発の第二部に出てくる彼らの罪の行いで明らかになります。預言者エレミヤはこう言っています

22 わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。
23 むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」
24 しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。
25 お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。
26 それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。

 このことは、現代の神の民、つまり教会にも当てはまる警告です。私たちは本当に神様の望まれる礼拝を捧げているだろうか?自己満足、顕示欲、強迫観念、娯楽、教養のための礼拝になっていないだろうか?という問いかけです。それでは神様はどのような礼拝を求めておられるのでしょうか?

 

3. 宣告:真の礼拝を捧げなさい (14-15, ローマ12:1-2)

14-15節を読みます。

14 告白を神へのいけにえとしてささげ

いと高き神に満願の献げ物をせよ。

15 それから、わたしを呼ぶがよい。

苦難の日、わたしはお前を救おう。

そのことによって

お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」

日本語の聖書は「告白」という言葉を使っていますが、英語はもっとシンプルに「感謝の捧げ物」と訳しています。両方を補っていえば、私たちの礼拝は「心からの賛美と感謝と信頼の告白」でなければならないということです。このことについて、パウロの有名な説明を聞いてみましょう。

1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ロマ12:1)

パウロは、自分自身を捧げることが、神様を喜ばせる本当の礼拝だと言っています。彼はイエスに出会う前、かなりコアなファリサイ派でした。だから、イエスを信じた初代の弟子たちを律法の敵、神の敵と考え迫害したのです。何が彼を変えたのでしょうか?イエスとの出会いです。それが彼の人生観、価値観を180度変えてしまいました。自分の思いで生きることをやめ、イエスの思いで生きることを始めました。この生き方をすることが、自分自身を捧げるということです。ですから礼拝とは、喜びと感謝にあふれて、あなたに従いますと告白する時です。それが、形だけのものか、心からのものかは、その人の日常生活で明らかになるのです。後半ではまず、偽りの礼拝を捧げる者がどのような悪を行なっているかが明らかにされます。

 


B. 罪の行いから離れなさい
1. 罪の行いに対する告発 (16-21)

16-21節を読みます。告発の第二部です。

16 神は背く者に言われる。
「お前はわたしの掟を片端から唱え
わたしの契約を口にする。
どういうつもりか。
17 お前はわたしの諭しを憎み
わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。
18 盗人と見ればこれにくみし
姦淫を行う者の仲間になる。
19 悪事は口に親しみ
欺きが舌を御している。
20 座しては兄弟をそしり
同じ母の子を中傷する。
21 お前はこのようなことをしている。
わたしが黙していると思うのか。
わたしをお前に似たものと見なすのか。
罪状をお前の目の前に並べて
わたしはお前を責める。

歌われている通り、当時の人々は、口では神様の掟を唱えながら、心は神様から離れ、その結果、彼らの行動は神様を悲しませるものとなってしまっていたのです。イエスの時代では、パウロがそうであったファリサイ派と呼ばれる人々がいました。神の掟を厳格に守ることを大切にしていて、それを守れない人々を見下していました。この宗教的厳格さは魅力にもなります。その他大勢は「心も離れているし、律法にも熱心ではない」状態でしたから、ファリサイ派の宗教がかった振る舞いは、ある意味で尊敬され、多数派ではありませんでしたが発言力もあったのです。しかし、イエスはその偽善を見抜いていました。彼らの行動が、神様の求められた、愛に基づくものではなく、聖書と聖書に書かれていない律法集に基づくものでした。神様は、その愛と正義が表されるために律法を与えたのに、彼等は律法を都合良く解釈して愛と正義をないがしろにしていたのです。しかしそれは、ユダヤ人だけのことではありません。何人であれ、同じ傾向を持っています。イエスを信じる者も例外ではありません。誰でも例外なく持っている、「神様に背を向け自分を神とする」罪の性質による者です。ですから自分にも、偽りの礼拝に陥り、神様の正義と愛を忘れる危険性があることを知っている必要があります。しかし、そのような状態に陥ったとしても。やり直すことができるのです。残りの部分を読みましょう。

 

2. 宣告:正しい道を歩みなさい (22-23)

22 神を忘れる者よ、わきまえよ。
さもなくば、わたしはお前を裂く。
お前を救える者はいない。
23 告白をいけにえとしてささげる人は
わたしを栄光に輝かすであろう。
道を正す人に
わたしは神の救いを示そう。」

 「私を忘れている者よ、よく考えなさい!そのままでは破滅を招くけれども、もう一度立ち返って、真心からの礼拝を捧げ、その心で歩みなさい。」この呼びかけに答えて、心からの礼拝を土台とした生活を送ることによって、もう一度、神様に至る道=イエスに立ち帰ればいいのです。

 


メッセージのポイント

私たちもイスラエルと同様に、神様の望まない礼拝を捧げる者となってしまう恐れがあります。それは、私たちの行動にも反映され、神様を悲しませる結果を引き起こします。そうなってしまわないために、心からの賛美と感謝と信頼の告白による真の礼拝を捧げ続けましょう。

 

話し合いのために

1) イスラエルは何を告発されたのですか?
2) 私たちはどうしたら彼らと同じ間違いをしないで済みますか?

 

子供たちのために

難しければ、エレミヤ7:22−26やローマ12:1-2を読んでもいいでしょう。礼拝やお祈りは、大切なことですが、形だけするのでは意味がないこと。礼拝や祈りは自分を神様の前に置いて、神様の思いをよく知って、その神様の思いを生活の中で行なってゆきます、という決心と、それができるように助けてくださいという願いを言い表すことだと教えてください。