目的と手段を取り違えないようにしよう

池田真理


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目的と手段を取り違えないようにしよう(マルコ 2:23-3:6)

23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

<番外編>アビアタル?アヒメレク?に見る聖書の限界

今日はユダヤ教の安息日に関するお話です。そこから目的と手段を間違えないようにしようということをお話していきたいのですが、今日は少し、その本題に入る前に番外編を入れました。聖書は神様の言葉であると同時に、人間が記録した限界のある書物でもあるということをお話したいと思います。この教会ではそんな心配はないと思いますが、聖書は間違った読み方・使い方をすると、人を深く傷つける道具になります。最近はよくそのことを考えさせられるので、今回は良い機会なのでお話しすることにしました。聖書の言葉は人間が記録し編集したもので、時に間違いもあるのです。
ここでイエス様が語っているダビデのエピソードは、サムエル記上21章に記録されています。サウルの追っ手を逃れてダビデは大祭司のもとへ行き、空腹を満たすために祭司からパンを分けてもらったというエピソードです。問題はその大祭司の名前です。今日読んでいるマルコでは「アビアタル」となっていますが、これは間違いです。サムエル記に出てくる大祭司の名前は「アヒメレク」です。アビアタルはアヒメレクの息子です。マタイとルカはマルコを参考にして福音書を書いたと言われていますが、おそらくマタイとルカはこのマルコの間違いに気づいたのでしょう。マタイ福音書とルカ福音書では大祭司の名前が省略されています。(マタイ12章、ルカ6章)ただ、もっと複雑なのは、このアヒメレクとアビアタルの名前は、旧約聖書ですでに混乱が起きていたのかもしれないということです。細かい議論はここでは紹介しませんが、その旧約聖書の混乱をこのマルコ福音書は引き継いだ可能性もあります。
これは一つの例にすぎません。他にも地名を間違えていると思われる箇所もあります。また、旧約聖書に関してはイエス様の時代の少し前にギリシャ語に翻訳した時点で細かい言葉の違いが生まれました。そして新約も旧約も最初は全て手書きで書き写されていましたが、それによって写し間違えが起こりました。現存している写本の中でどれが原文に近いのか、研究が重ねられてきました。今私たちが手にしている聖書は、そういう長年の研究者たちの努力に基づいています。ですから聖書は、旧約聖書の編集から始まって何千年もの間、人間のミスや時代の価値観、研究の成果に影響されてきたと言えます。それにもかかわらず、聖書全体が示している神様の真実が変わらないというのが、聖書の一番すごいところです。神様は正しく良い方で私たちを愛しておられるという真実です。ですから、私たちが聖書の言葉を一言一句保護してあげる必要はありません。私たちは盲目的に聖書を読むのではなく、冷静に理性を持って、書かれた時代背景や文脈をとらえて聖書を解釈するべきです。それによって、どの時代にも普遍的に、でも不思議にもそれぞれの状況に応じてあてはめることのできる、神様の言葉を受け取ることができます。

 


<本編>

 それでは本編に戻ります。今日のメッセージのキーとなるのは、27節のイエス様の言葉です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」安息日はユダヤ人にとって単に仕事を休む日ではなく、神聖な日でした。それが行きすぎて問題になったのですが、もともと神様が安息日を定めた目的を考えると、私たちが受け取れる教えがあると思います。

1. 安息日の目的

安息日の起源は創世記の天地創造の物語にさかのぼります。創世記によれば、神様は6日間でこの世界を造り、7日目には休んだとあります。創世記1章の天地創造の物語を思い出してみてください。神様が造られた世界の全ては「良かった」と言われていました。ですから安息日は、神様のなさったわざは全て良かったことを覚える日です。神様が良い方であるということを確認する日とも言えます。そのために全ての仕事を脇において1日をささげます。だから、安息日は単に仕事を休む日ではなく、神様を礼拝し、自分は神様のものであるというアイデンティティを確かめる神聖な日なのです。
この伝統をキリスト教も引き継ぎ、日曜日に礼拝をする習慣となりました。私たちは、毎週日曜日に神様は良い方であると喜びお祝いしているでしょうか。神様がどんな時でも良い方であると信じ、いつでも喜んでいることは、なかなかできることではありません。でも、その方向に向かって心を向けられるように、願い求めることはできます。悲しくても苦しくても、神様の良いわざを期待し、祈ることができます。その方向性をみんなで集まって共に求め、励まし合うのが礼拝と教会の目的です。
でも、私たちは愚かで、安息日の意味を守ることよりも、安息日の習慣を守る方が大事になってしまうことがよくあります。もう一度今日のキーとなるイエス様の言葉を読みます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」安息日は、人が神様との関係を思い起こすために定められました。つまり、私たちと神様の関係が一番重要であり、それを強めることが安息日の目的です。安息日は、その目的を果たすための手段の一つにすぎません。安息日の習慣を守ることが私たちの目的ではないのです。でも、私たちはどうしても、手段と目的を取り違えて、いつの間にか本来の目的を忘れてしまいます。その結果どういうことが起こるのか、今日の聖書の箇所がよく教えてくれています。重要でないことを重要だと思い、重要なことは見過ごしてしまうのです。

 

2. 私たちは目的と手段を取り違えてしまう
a. 重要でないことを重要視してしまう (23-28)

 まず今日最初に読んだ2:23-28では、重要でないことを重要としてしまう問題について教えています。ファリサイ派の人たちは、弟子たちが安息日にしてはならないことをしていると非難しています。ここで問題となったのは、イエス様と弟子たちが安息日に旅をしていたことと麦の収穫とみなされる行為をしていたことです。安息日には何歩以上歩いてはいけないという掟がありましたし、収穫時期であっても収穫作業も休まなければいけないという掟がありました。弟子たちは収穫作業をしていたわけではありませんでしたが、ファリサイ派の人たちには十分、掟違反だと思われたようです。

 イエス様は、彼らがこだわっていることは重要ではなく、本当に重要なことは何かを彼らに思い起こさせようとしました。イエス様の言われたダビデのエピソードは、安息日とは直接関係がありません。でも、掟を破った前例としては有効なエピソートです。しかも、掟を破ったのがダビデであることにポイントがあります。掟は何のためにあるのか、ダビデは知っていたけれども、あなたたちは知らないのか、とイエス様は問いかけているのです。

 

b. 重要なことを見過ごしてしまう (1-6)

 次に、3:1-6では、重要なことを見過ごしてしまうということを教えています。読んでみましょう。

1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 このエピソードの中で一番皮肉なことは、ファリサイ派の人たちは、イエス様には、この手に障害のある人を癒す力があると知っていたことです。でも彼らは、イエス様が安息日にしてはいけないことをするかどうかということにばかり気を取られていたので、目の前でありえない奇跡が起こっているということに気がつきません。イエス様はそんな彼らに直球の問いかけをします。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」病気を癒すという良い行いを安息日だからという理由で禁止することは愚かです。そして、そんな奇跡を行う力のある方を知ろうとせず、ただ排除することだけを考えることも愚かです。彼らは、安息日を守り律法を守るということを目的としてしまったために、本当に重要なことを見過ごしてしまったのです。

 

 なぜ、ファリサイ派の人たちは安息日が手段にすぎないということを忘れてしまったのでしょうか?それは5節のイエス様の言葉にヒントがあります。イエス様は「彼らのかたくなな心を悲しんだ」とあります。彼らはかたくなにイエス様を拒みました。最初からイエス様は間違っていて、自分たちが正しいと思い込んでいました。自分が正しいと思い込んでいること、これがすべての間違いの始まりです。自分がいつも正しいのであれば、自分がすべての善悪の基準であることになります。それは、自分を神にしているのと同じです。自分を神にしている人に、本当の神様を礼拝することはできません。神様を礼拝するということは、彼らにとって形だけの行為になります。本当は自分が神なので、神様を礼拝するということ自体が、中身のない虚しいものになってしまいます。でも、そのことに彼ら自身は気が付きません。むしろ自分たちは立派な行いによって神様に喜ばれていると思い込んでいます。その結果、重要でないことを重要と思ってしまい、本当に重要なことは見過ごしてしまいます。そして、本当の神様の存在に、その素晴らしさに気がつかず、排除することしか考えられません。

 

3. 私たちの生きる目的は何か?

 この問題は私たちの問題でもあります。私たちはファリサイ派の人たちと同じように、自分を愛して自分を神にしようとする性質を持っています。この性質はとてもしぶとくて、イエス様に出会って、イエス様に従って生きていきたいと思っていても、いつの間にか私たちを支配しています。そしてその結果、私たちの礼拝も信仰も、中身のない形だけのものになってしまうことがあります。それだけでなく、それによって、本当の神様を排除し、本当に神様の助けを必要としている人を傷つけることになります。

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」これはいろんなことに置き換えることができます。日曜日の礼拝は私たちが神様を礼拝するためにあるのであり、礼拝を運営するために私たちはここにいるのではありません。教会も同じです。そこに集う一人一人がイエス様と出会い、イエス様を愛していないのに、教会の集団や建物を存続させようとするのは不毛です。神様が私たちに求めているのは、神様を愛し礼拝することだけです。それが私たちが命を与えられた理由であり、私たちの生きる目的です。聖書も日曜日の礼拝も、私たちが個人的にささげる祈りも、日々働いていることも、このただ一つの目的を達成するための手段にすぎません。私たちの生きる理由と目的であるイエス様をいつも見つめて、時にかたくなな心を打ち砕かれて、歩んでいきましょう。

 


メッセージのポイント

神様が私たちに求めているのは、神様を愛し礼拝することだけです。それが私たちが命を与えられた理由であり、私たちの生きる目的です。聖書も日曜日の礼拝も、私たちが個人的にささげる祈りも、日々働いていることも、このただ一つの目的を達成するための手段にすぎません。でも私たちは、自分を愛して自分を神様にしようとする傾向が強いので、いつのまにか手段を目的にしてしまうことが多くあります。

 

話し合いのために

あなたにとって今一番重要なことは、本当に重要なことですか?

 

子供たちのために

全部は大変なので3:1-6にしぼってみてください。おかしいのは、手に障害のある人を癒すなんて、それ自体が人間には不可能な奇跡なのに、人々はイエス様にはそれができるだろうと思った上で、それをやったら律法違反だからイエス様を糾弾できると思っていた点です。なぜ彼らは、イエス様の奇跡をただ素晴らしいとたたえることができなかったのでしょうか?それは彼らが、理由もなく、イエス様は間違っていて、神様ではなく、自分達こそが正しくて神様の側にいると思い込んでいたからです。私たちはみんな、自分が正しいと思いたがる傾向を持っています。でも、いつも自分が正しいなら、自分が神様だということになってしまいます。イエス様ならどう考えるか、いつもその視点を持つようにしましょう。