教会のはじまりと目的

池田真理


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教会のはじまりと目的 (マルコ 3:7-19)

 今日読んでいく聖書の箇所には、教会という言葉は一回も出てきません。でも、教会の原型と言えるものが描かれていると思います。それは特に後半の13節以降なのですが、まずは前半の7-12節を読んでいきましょう。

A. この世界の現実 (7-12)

7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 これは、昔も今も変わらない、この世界の現実を表しています。イエス様の助けを必要とする人は大勢いて、そのニーズはイエス様を押しつぶしそうになるくらいだということです。イエス様がガリラヤから現れて、多くの奇跡と癒しを行うと、人々の助けを求める叫びはあふれ出ました。私たちも、多くの人が助けを求めている世界の中に生きています。私たち自身も、助けを求めて、自分ではどうしようもない状況になる時もあります。イエス様を知っていれば、イエス様に助けてくださいと求めることができます。苦しんでいる人のためにイエス様に祈ることもできます。でも、それだけでは、今日のこの群衆と同じです。群衆は、イエス様に助けてもらうことだけを求めていました。彼らにとってイエス様が誰であるかは実はどうでもいいことでした。イエス様はその人たちのことも憐れんで、拒むことはありませんでしたが、小舟に乗って距離を置かなければいけませんでした。彼らとは、親しい関係を作ることはできなかったのです。
11-12節には唐突に悪霊のことが言われています。これはおそらくマルコが皮肉を込めて書いたのでしょう。悪霊は群衆よりもイエス様のことをよく知っていたのです。イエスは神の子であるということ、それが群衆が知らなければいけなかったことです。そして私たちも知らなければいけないことです。イエス様が私のために何をしてくれるか、助けてくれるかどうか、問題を解決してくれるかどうかばかりを追い求めていたら、それは究極のところ、自分の利益のためにイエス様を使っているにすぎません。そうではなく、イエス様は私の必要を全て知っておられて、たとえ状況が悪くても、私を愛しておられている事実に変わりはないと信じることが、私たちの信仰です。苦しみのあふれている世界の中で、私たちはこの信仰に立って、自分のことも大切な家族や友人のことも励まして歩んでいけるでしょうか?私たちはそのために、教会という集まりに連なり、この世界に置かれていると言えます。

それでは後半に入っていきます。後半でも、特に今日の一番重要な部分は13-15節です。読んでいきましょう。

 


B. 教会のはじまりと目的

13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

 イエス様に12人の使徒と呼ばれる弟子たちがいたということは、今では当たり前のことです。彼らはイエス様の一番近くで旅を共にし、イエス様の死後は教会の中心メンバーとなりました。でも、この箇所を少し丁寧に読んでいくと、この12人がどういう意味で重要なのか、どういう意味で重要ではないのかが分かってきます。それは私たちが教会の本質(信仰の本質)を理解するためにも大切なことです。

 

1. 私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選んだ (13-14a)

 まず、イエス様は「これと思う人々 those he wanted」を呼んだとあります。12人は、イエス様の意志によって集められたということです。このあと読んでいきますが、この12人の中にはイエス様を裏切ることになるユダも含まれます。また、ペトロたち漁師4人と徴税人マタイも含まれます。イエス様は優れた能力の持ち主や人気者や有力者を選んだのではありませんでした。イエス様にしかわからない理由で、12人を選んだのです。そこに説明はありません。私たちも、私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様がイエス様にしかわからない理由で私たちを選んだということを忘れないでいましょう。
次に注目したいのは、12人を「任命した He appointed」という言葉です。ここは原語では、創世記1章で神様がこの世界を造られたという「造る」という言葉と同じ言葉が使われています。でも、イエス様が12人を創造した、と訳してしまうと誤解を与えるので、日本語でも英語でも「任命した」と意訳されています。でもここには、世界を新しく生み出されたのと同じ意味で、イエス様はこの12人に新しい命を与えようとされたんだという意味が込められていると言えます。イエス様と共に歩む人生は、それまでの人生とは違う新しい人生です。教会は、そんな新しい人生があることを多くの人に知らせる役目を与えられています。イエス様は、この12人のうちに教会を生み出そうとされていました。この人たちが新しく歩み始めることは、教会がはじまっていくことでした。私たちも同じように、世界を造られた神様の力が私たちに働いて、新しく造り直されています。
もう一つ注意しておきたいのは、イエス様が12人を使徒と名付けたということです。これは、イエス様が自分の弟子集団に階級を作った(弟子の上に使徒がいるというピラミッド構造を作った)という意味ではありません。特にマルコ福音書では、使徒という言葉は全体でこことあともう一ヶ所しか出てこず、他は全て弟子たちという言葉で済ませられています。また、今日のこの箇所も、写本によっては「使徒と名付けた」という一文が省かれており、NIVでも日本語の他の翻訳でも省かれています。ですから、使徒と弟子の違いはありません。(パウロは自分が使徒であるということにこだわっていたのかもしれません。)重要なのは、この12人に与えられた役割でした。その役割を果たす人が使徒だと言った方がいいと思います。そして、その役割は、この12人から始まった教会に連なる全ての人、私たちにも与えられている役割です。

 

 2. ただ2つの目的のために(14b-15)

 もう一度14節の後半と15節を読みましょう。

彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

 私は個人的にこの14節に思い入れがあります。神学校の入学式のメッセージが、実はこの箇所でした。自分は牧師になることを目指すんだと決めていても不安でした。でも、そのメッセージで、私たちがイエス様に呼ばれて選ばれたのは、まず第一にイエス様のそばにいるためなのだと、ここで言われているじゃないかと教えられたのです。イエス様が私たちを呼んで選んでくださった第一の目的は、私たちをご自分のそばに置くためです。そのことを私たちは忘れてしまいがちなんじゃないでしょうか。英語でいうともっと簡単に、ただ、一緒にいること、です。マリアとマルタのエピソードのように、ただイエス様のそばに一緒にいて、イエス様の話に耳を傾けることを、イエス様は喜んでくださいます。それが、私たちがイエス様に呼ばれた一番の目的なのです。
そして、第二の目的がイエス様の元から派遣されることです。宣教することと悪霊を追い出すことは、派遣された私たちに与えられている二つの仕事です。それは、イエス様の代わりに、イエス様の代理人として、この世界に出ていくということです。宣教するとはイエス様のことを知らせることですが、私たちがまずイエス様のそばにいてイエス様のことをよく知らなければ、イエス様のことを知らせることはできません。悪霊を追い出すというのは私たちには少し想像がつきにくいですが、神様に対抗する、神様を悲しませる勢力と戦うということです。そんな力に支配されている人たちを、イエス様の名前によって解放すると言ってもいいと思います。何が神様に反対する力なのか邪魔をするものなのか、見極めるために私たちができることは、悪霊のことをよく知ろうとすることではなく、神様がどういう方かをよく知ることです。だから私たちは、いつもイエス様のそばにいて、そこから派遣されていくのでなければ、宣教も悪霊の追放もできません。
私たちは、ただこの二つの目的のために、イエス様に選ばれました。教会は、この二つの目的のためにあります。イエス様のそばにいるためと、イエス様によって世界に派遣されるためです。でも、世界に派遣されることは、私たちがイエス様のそばにいることで自然と起こることとも言えます。イエス様が示すところについていこうとし、イエス様が愛するように人を愛そうとするなら、それが世界に派遣されているということです。

 それでは最後に、イエス様に選ばれた教会の卵である12人について見てみましょう。そこには教会の現実が示されています。16-19節です。

 


C. 教会の現実 (16-19) 

16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

 この12人の使徒のリストは、いろいろな意味で重要です。まず最も重要なのは、このリストにイスカリオテのユダが含まれていることです。教会はイエス様が選んだ者の中から裏切り者が出たことを隠しませんでした。でも、イエスが全能の神ならば、ユダが自分を裏切ることになると知っていたはずだという意見もあると思います。でも、ユダ以外の11人もみんな、イエス様を見捨てて逃げたのです。イエス様が選んだ12人は、全員裏切り者です。そして、私たちもみんなこの12人と同じく、イエス様に選ばれながらイエス様を疑い、時にはイエス様を裏切ります。それでも、イエス様はその全てを知った上で、12人を選び、私たちを選び、期待してくださっているのです。
このリストの重要性のもう一つは、このリストに挙げられているうちで私たちがよく知っているのはペトロぐらいだということです。何人かについては、私たちは名前しか知りません。いくつかのエピソードが残っている人たちについても、断片的な記録しかなく、それぞれがどのような生涯を送ったのかについては分かっていません。12人の使徒として重要な感じがするのに、そのうちのほとんどについて私たちは知らないのです。でも、それがほとんどのイエス様に選ばれた者の姿かもしれません。歴史に名を残すことも有名になることもなく、ただイエス様を慕って、イエス様と共に生きようとした人たちです。私たちの多くは、そういううちの一人になるんじゃないでしょうか。
このリストの重要性の3つ目は、この12人は寄せ集めの集団だということです。身分の高い者はいません。漁師もいれば徴税人もいます。政治的なことで言えば、徴税人マタイがローマと友好的とするなら、熱心党のシモンは強硬なユダヤ民族主義者で、ローマには反抗していたはずです。天から火を降らせて町を焼こうと言った気の強い「雷の子ら」ヤコブとヨハネもいれば、イエスを3度否定した気の弱いペトロもいます。彼らも私たちも、みんな元々はバラバラの方を向いて、生き方も考え方も性格も違っています。でも、イエス様を中心に集まりました。そして、イエス様はペトロを岩と呼び、不完全な人間を通して教会を立てることを望みました。私たちをご自分のそばにおき、私たちが出て行くところに教会を立てるために。イエス様は、不完全な私たちの不完全さを私たちよりもよく知っていながら、私たちを選び、期待してくださっています。イエス様のそばにいられる喜びと安心をもっと知りましょう。そして、その喜びと安心が私たちの中からあふれでて、助けを必要とする多くの人に届きますように。

 


メッセージのポイント

イエス様の助けを必要としている人はとても多くいます。私たち自身も、私たちの周りにいる人もそうです。でも、すべての問題の解決は、イエス様が助けてくれることよりも、イエス様がどういう方かを知ることにあります。イエス様は、私たちをご自分のそばに置くため、そして私たちをイエス様の代理人としてこの世界に派遣するために選ばれました。イエス様に選ばれ、イエス様に従うことを願う人たちの群れ、それが教会です。教会も不完全な人間の集まりですが、一人ひとりがイエス様をもっとよく知り、そしてイエス様の素晴らしさを世界にもっと知らせることができるようになりましょう。

 

話し合いのために

1) イエス様のことを知ることがなぜ問題の解決なのですか?
2) イエス様は何のために私たちを「そばに置く」のでしょうか?

 

子供たちのために

今回一番強調していただきたいのは、14節で言われている、イエス様が私たちをご自分のそばに置くために選ばれたという点です。そばに置くというのは、英語でto be with himと言われているように、ただイエス様と共にいるという意味です。イエス様は私たちに立派に生きてほしいとか優しい人になってほしいとか要求するより先に、なによりもただイエス様と一緒にいることを望んでいます。イエス様と一緒にいるということは、具体的に言えば、心の中でイエス様に話しかけたり、祈ったり、イエス様がどういう人か大人に聞いてみたりすることです。そして、日常生活のいろいろな場面で、イエス様ならなんて言うか、どう行動するか、一人ひとりで考えてみるように励ましてください。その結果間違ったとしても、イエス様はみんなが考えたことを喜んでくれて、正しい方に導いてくれます。