25年目のユアチャーチ

永原アンディ


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25年⽬のユアチャーチ

テサロニケの信徒への第一の手紙 1:1-10

 ユアチャーチ25周年、2018年最後の礼拝となりました。今日は、今年最初の礼拝と同じテキストを読み直して、今年の感謝、そして未来への希望をお話ししたいと思います。
私自身は、今年の最初の礼拝をインフルエンザで欠席するという、波乱に満ちたスタートにふさわしく、いろいろなことが起こった、あっという間とも、随分長かったとも思える一年でした。皆さんの2018年はどんな年でしたか?
少しずつテキストを読みながら振り返ってゆきましょう。まず3節まで読みます。


A. ユアチャーチとは何か?

1)  互いの信仰、希望、愛を支え合う家族 (1-3)

1 パウロとシルワノとテモテから、父である神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにありますように。
2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたを思い起こし、あなたがた一同について、いつも神に感謝しています。
3 あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。

 
 ここで、日本語の聖書の言葉が違うと気づいた人は、神学者になるべきなので東神大への推薦状を書いてあげます。今読んだ日本語のテキストは、私たちが今まで読んできた新共同訳(The Bible, The New Interconfessional Translation) ではなく、この12月に出たばかりの新しい訳、聖書協会共同訳(Japan Bible Society Interconfessional Version)です。新共同訳は1987年に刊行されました。私自身が最初に読んだ聖書はその一世代前の口語訳で私が生まれた年に刊行されたものです。つまり、日本語の聖書は約30年ごとに新しい訳が出てきたということです。新しい訳に親しんでもらいたい二つの理由があります。

 一つは、翻訳がより正確になっているということです。過去30年間の神学の新しい成果によるものです。もう一つは、言葉は生きていて変化するものであり、今の時代に生きる人たちに、より分かりやすい言葉でイエスを紹介できるからなのです。ですから、どうぞ聖書協会共同訳聖書を手に入れて読み始めてください。同じ理由で英語の聖書も新しい訳をお勧めします。

 さて、年の初めに、教会とは何かという、理解されているようで結構誤解されている事から話を始めました。教会とは十字架の掛かった建物ではありません。

 教会とは「イエスに従って歩む人々の集まり」です。イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ 18:20) と言われました。それが教会です。

 ユアチャーチのメンバーは、世界中のイエスに従う人々の集まりである一つの教会に属しているのです。しかし人の行動範囲は限られています。そこで、実際に関係を保てる範囲で、目に見える一つ一つの教会が存在するのです。ユアチャーチもその一つだということです。

 ユアチャーチは、ここに存在しているだけではなく、皆さんが、その時にいるところに、ユアチャーチは存在しています。皆さん自身がユアチャーチだからです。そこで皆さんが、そこにいる人々を愛する時、イエスの愛が働いている。イエスと共にユアチャーチはそこに存在しているのです。

 しかし、愛の働きには労苦が伴い、忍耐を要するということを皆さんはよく知っています。一人で続けるには荷が重すぎます。だからイエスは「2人、3人が」と言われたのです。私たちは、自分の状況だけを見て歩むなら簡単に絶望してしまうような世界で、イエスを見上げて歩む者とされました。何があっても愛し続けるには、イエスが共にいてくださる人々の集まりが必要です。それが世界にいたるところに存在する目に見える一つ一つの教会です。ユアチャーチはそのために25年間存在してきました。これからもそういうものであり続けたいと思います。

2)  神様の愛によって選ばれている (4)

神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っています。

 ここには25年前からいた人も、今年から来ている人もいます。私たちは自分で決めてここにいると考えますが、神様の視点で見るなら、神様がここに私たちを連れてこられたのです。今年、いなくなった人たちもいますが、同様に神様が連れ去ったのです。私たちには神様の意図はわかりません。全ては神様の計画のうちにあると信じて、祝福して歓迎し、祝福と共に送り出すのです。

 実際の家族と同様に、新たに加わる人もいれば、独立して遠くに行く人もあります。また、一人一人の役割も変わりますが、教会も続いてゆくのです。

 今週から始まる新しい年、神様によって集められたこの大きな家族に、神様は何をさせようとしているのでしょうか?あなたにはどのような役割が期待されているのでしょうか?この年末年始の休暇の時、いつも以上にゆっくりと神様と二人だけの時を持って、よく話し合ってみてください。

3)  聖霊に導かれて進む (5-6)

5 私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。私たちがあなたがたのところで、あなたがたのためにどのように振る舞ったかは、ご存じのとおりです。
6 そしてあなたがたは、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちと主に倣う者となりました。

 支え合う共同体として教会はあると最初の部分でお話ししましたが、弱く、欠けの多い私たちが、そのような働きを担えるのかという疑問が残ります。実際、悲しいことに教会の中の人間関係で傷つき、そこを去るだけでなく、イエスからも遠ざかってしまう人がいるのです。教会という家族の健康は、神様の霊、聖霊によって保たれるということを忘れるわけにはいきません。決して「人の能力によって」ではないのです。このことを忘れる時、教会は極端に権威主義的になったり、反対に目的も、意味もはっきりしない親睦会になってしまいます。

 教会が、神様に委ねられた働きをできるかどうかは、聖霊の導きによってなされているかどうかにかかっています。だから私たちは、何よりも日曜日の朝のワーシップタイム=神様に向かって歌う時を大切にするのです。それは私たちが個人として、同時に共同体として、神様の前に出て親しく会話する時です。私たちはこの礼拝から週の歩みをスタートさせます。今日も、今年の恵みを感謝して、来年の恵みを期待して、心から歌いましょう。


B. コミュニティーの希望となる

1)  生き方の良いモデルになろう (6-8)

6 そしてあなたがたは、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちと主に倣う者となりました。
7 こうして、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったのです。
8 主の言葉が、あなたがたのところから出て、マケドニアやアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところに伝わっているので、私たちはもう何も語る必要はありません。

 25周年目のこの年に、私たちは二つの新しいことを始めました。どちらも突然出てきたアイディアではありません。どちらも25年の歩みの中で成長させられ、時が満ちて道が開かれました。

 一つはLGBTQと呼ばれる性的少数者を受け入れ、社会でも、キリスト教会の中にでも存在する無理解や不寛容をなくしてゆこうという働きです。11月に、トランスジェンダー(体の性と心の性が一致しない)の寺田留架君に来ていただいて講演してもらったり、彼の性的少数者のための働き「約束の虹ミニストリー」を応援して、町田でも「虹ジャム」と呼ばれる彼らのミーティングを開く応援をし始めました。神様のなさることは本当に不思議です。というのは、今年農村伝道神学校に校長として着任されたロブ・ウイットマー (Robert Witmer) さん、桜美林大学のチャプレンとして着任され、この前の礼拝に来てくださったジェフリー・メンセンディーク(Jeffrey Mensendiek)さん、それぞれカナダ合同教会、アメリカ合同教会の宣教師として長く日本で働かれ、性的少数者の方たちのための働きをされてきた方たちなのです。この方たちにも力を貸していただいて、来年はもう一歩、この歩みを進めていきましょう。

 もう一つのことも、ユアチャーチがこの場所に来た23年前から祈り求めていたことでした。それは、どのようにしてこの地域の方達に仕えてゆけばよいのかということです。23年の間に色々なアイデアが浮かびましたが、実現されることはありませんでした。思えば、まだ私たちにそれを担う力がなかったということでしょう。しかし、今年は、それが実際に目に見える、実現可能な形となってきたのです。同じ町田市内のつるかわ台教会の三浦牧師夫妻によって始められた、帰宅しても親が遅くまで帰ってこない地域の子供たちが宿題をしたり、時には一緒に食事をする「子どもの居場所」+「母親と赤ちゃんの居場所」+「地域に住む人々が交流できる場所」を提供する働きを知ったことがきっかけです。もちろんそれぞれの教会が置かれている立地条件によってできることは異なりますが、「地域の中で居場所を必要とする人々の居場所となる」という夢をいただきました。町田市や社会福祉協議会も、教会がそのような働きをすることを積極的に応援してくださることも知りました。私たちは2月から、最初は月一回のペースで、この場所を「地域の人々の居場所」として人々を招きます。夜まで親が帰らない子供たち、家にいても一人っきりのご老人、宿題をしたり/手伝ったり、ゲームをしたり、夕ご飯をみんなで作って、一人ぼっちではなく一緒に食べられるような場所です。それは、ある時には、地域の人たちが、気軽に、安心して相談にこられる「街の保健室」にもなります。また、この場所は生活に役立つセミナーや教室も開くことができます。生活のための日本語も教えられるかもしれません。反対に、皆さんお母国語を教えてあげることもできるでしょう。

2)  どんな時でも希望を指し示そう (9, 10)

9-10 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか、また、彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。

猫の25歳は、ある獣医師によると人間なら116歳だそうです。教会の25歳は?と考えてみました。私たちは、まだ幼児なのか、青年なのか、壮年なのか、、、ということです。犬の場合は、大型犬と中型犬と小型犬で年の取り方が違うそうです。大型犬ほど早く歳をとる。つまり小型犬の方が長生きだというのです。教会は、猫とも、人とも、人間とも違います。自分の思った通りの年齢になれるのです。恐ろしいと思いますが、子供で居たいと思えば100年でも子供のままでいられます。創立10年で、もう新しいことには何も興味を持てないほど歳を取ってしまうこともできます。しかしこのままではいけないと思えば、成長することもできるし、若返ることもできるのです。私たちは、働きを十分に担えない子供では居たくありませんが、歴史はあっても老い過ぎて新しいことには何も興味を持てない、古い皮袋にもなりたくありません。

 不確実で、希望の見えない社会の中でも、私たちは主イエスがともにいてくださるという希望を持っています。一人一人の健康状態、経済状態、人間関係は様々でも、私たちはおかれた状況の中で輝いています。希望を指し示すのに、難しい言葉はいりません。どんな時でもイエスを見上げて歩み続ける人の内に、周りの人々は希望や安心や平和を見出します。どんなに福音の内容を言葉で伝えようとしても、限界があります。その人の中に、深い喜びが感じられなければ、その人の語る福音には誰も耳を傾けません。私たちは、私たちの人生を変えたイエスを紹介したいと思っています。そのために必要なことは、聖霊による喜びに満たされることです。そうすれば、人々の方から「あなたの喜び」の秘密を知りたいと思うのです。


メッセージのポイント

私たちはユアチャーチという大きな家族の一員です。この家族は全ての人に開かれています。それぞれの置かれている状況は違っていても、ただイエスに従って歩みたいという願いだけは同じです。イエスに従って歩むなら、憎しみや不寛容、利己主義によって傷ついた世界・人間関係を癒す者となれます。

話し合いのために

1) ユアチャーチとは何ですか?
2) ユアチャーチは何のために存在しますか?
 

子供たちのために

今年は何があったかな?みんなで思い返してみましょう。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、いろいろなことがあったけれど、こうして一年間、神様に守られて、またイエスに従って共に歩もうとしている大きな家族・ユアチャーチの仲間と歩めたことを感謝して、みんなで祈りましょう。