あなたの重荷を主に委ねよ







あなたの重荷を主に委ねよ
詩篇55篇

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 先週のメッセージで紹介されたマタイにより福音書11章の言葉を覚えていますか?「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」という言葉です。今日はこの詩編から「主に委ねる」ことについて考えてみましょう。始めの部分9節まで読みます。


A. 詩人は本当に主に委ねているのか?

1.  信頼と叫び

1 【指揮者によって。弦楽器で。マスキール。ダビデの詩。】
2 神よ、私の祈りに耳を傾けてください。私の願いから身を隠さないでください。
3 私に心を向け、答えてください。私は嘆きの中にあってうろたえ、不安です。
4 敵の声と、悪しき者の虐げのゆえに。彼らは私に災いをもたらし怒って襲いかかります。
5 私の心は胸の内でもだえ死の恐怖が私にのしかかります。
6 恐れとおののきが私に臨み戦慄が私を覆います。
7 私は言います。「鳩のように翼があれば飛び去って、安らかに住もう。
8 はるかに遠く逃れ荒れ野で夜を過ごそう。〔セラ
9 激しい風と嵐から離れ急いで身を隠そう。」

 去年もずっと詩編を読んできましたから、なんだかずっと同じ調子だなあと感じる方も多いと思います。しかし、一つ一つを丁寧に読んでいく時、私たちは全ての詩からユニークな知恵を受け取ることができます。今読んだように、この詩人も自分が神様から忘れられているように感じています。嘆き、恐れ、生命の危険さえも感じています。そして、出来れば逃げ出してしまいたいと感じています。ここから、どう「重荷を主に委ねる」ことを学ぶことができると言うのでしょうか?そう思うなら「重荷を主に委ねる」ということを少し誤解しているかもしれません。先週のメッセージでも教えられましたが、イエスのところに来たら、心配、恐といった重荷がなくなってしまうのではありません。委ねるということは、なくしてもらうということではないのです。

2.  信頼と呪い

10 わが主よ、滅ぼしてください。彼らの舌を引き裂いてください。都の暴虐と争いを、私は確かに見たからです。
11 それらは昼も夜も城壁の上を巡ります。町中には悪事と労苦。
12 町中には腐敗。広場からは略奪や詐欺が去りません。
13 私を嘲るのは敵ではない。そうであるなら耐えられる。尊大に振る舞うのは私を憎む者ではない。そうであれば彼から隠れられる。
14 だが、それはあなたなのだ。私と同等の立場の者、友、心を許した人。
15 一緒に親しく交わり神の家を群衆と共に歩いたではないか。
16 死が彼らを襲うがよい。生きたまま陰府に下ればよい。その胸の内に、住まいに、胸に、悪があるのだから。

 詩人がかなり辛い立場に置かれていることがわかります。自分のことだけで苦しんでいるのではないのです。自分の大切な都が荒らされ、そこに住む人々が苦しめられていることでも心が張り裂けそうになっています。そしてたまらず呪いの言葉を口にしてしまうのです。
 それだけではありません。ここで彼を実際に苦しめているのは、外国の軍隊なのではなくて、ごく親しい友人だった者なのです。
 自分がそれほどまで苦しんだことのない人は、気軽に「呪ってはならないと聖書に書いてある」と非難するかもしれません。しかし舌を制することのできる人はいない(ヤコブ3章)のです。神様を賛美する言葉も人を呪う言葉も同じ口から出てきてしまう。それが人間の弱さです。ペトロもイエスが十字架にかけられた時、呪いの言葉を使ってイエスのことを知らないと否定したのです。それでペトロは復活したイエスから「お前はクビだ」と言われたのでしょうか?いいえ、イエスは十字架にかかる前に、彼に向かっていった言葉通り、彼は教会の創始者になったのです。呪いの言葉など吐かずに済めばいいに決まっています。しかし神様は、あなたが呪いの言葉を口にしてしまったからといって、「律法主義者」のように、あなたを罪に定めたりはなさいません。私たちはそのように赦されているのですから、私たちも現代の律法主義者のようにして、人を罪に定めることを避けましょう。


B. 重荷を委ねるとはどういうことなのか?

17 私は神に呼びかける。主は私を救ってくださる。
18 夕べも朝も、そして昼も私は嘆き、呻きます。神は私の声を聞いてくださる。
19 たとえ闘いを挑む者が多くても私の魂を平和のうちに贖い出してくださる
20 いにしえから座しておられる神が聞き、彼らに思い知らせますように。〔セラ 彼らは変わろうともせず、神を畏れません。
21 自分の仲間に手を下し、契約を汚します。
22 その口は脂肪よりも滑らか。しかし心には闘い。その言葉は油よりも優しい。しかし抜き身の剣。
23 あなたの重荷を主に委ねよ。この方はあなたを支え正しき人を揺るがせることはとこしえにない。
24 神よ、彼らを滅びの穴に突き落としてください。血を流す者と欺く者が、人生の半ばにも達しませんように。私はあなたを信頼します。

 では重荷を主に委ねるという本当の意味は何でしょう?それは主イエスと共に居続ける事です。しかしイエスは必要とする人のところに次々と向かわれますから、正確には、イエスと共に歩き続けるといったほうがいいのでしょう。詩人は私たちに、見えないイエスから離れずに迷子にならないためにするべきことを二つ教えてくれています。同時にそれは、なぜ私たちが礼拝することを生活の優先順位のトップに置くべき理由でもあります。

1.  もっと激しく訴えよう

 私たちはともすると、この詩人の叫びを、信頼していない、委ねていないことの表れと考えてしまいがちでしたが、今日確認したように、彼は確かに委ねているのです。むしろ私たちの方が、委ねるということについての誤解から、叫び求めることを躊躇しているのではないでしょうか?もっと激しく叫び求めましょう。神様はうるさがったりはなさいません。それよりもっと、苦しい時、悲しい時、恐ろしい時にこそ神様とコミュニケーションを増やして下さい。

2.  もっと信頼を言い表そう

詩人は「もうダメだ」と叫んだすぐ後に「主は私を救ってくださる」と言ってみたり「私はあなたを信頼します」と言ってみたり、人に向かって「あなたの重荷を主に委ねよ」と言ったすぐ後に、神様に向かって「神よ、彼らを滅びの穴に突き落としてください」と呪ったりなので、信仰の反面教師のようにされるのですが、お話ししてきたように、私たちには、主に向かって叫ぶしかないような状況を過ごす時が必ずあるのです。詩人は、その心と体が恐怖で張り裂けそうな状態の中で、実際に弱音を吐き、呪いの言葉をさえ口にしながら、神様に期待することをやめません。そして、状況は変わらなくても「信頼しています」と言い続けています。このことも私たちが見習うべきことです。

毎週日曜日の礼拝を絶対に守りましょうとは、一度も言ったことはありません。礼拝はここでなくても、この時間でなくてもささげることができます。イエスはあなたをその日曜日の朝に、礼拝よりしなければならないことをさせるでしょう。しかし、礼拝することを最優先して下さいとは言い続けてきました。礼拝は一人でもできますが、この家族と共にささげることにも大きな意味があります。それはユアチャーチというイエスの体の一部分の欠かすことのできない一人として、この家族の一員として、皆さんは神様に呼ばれてここにいるからです。重荷は個人的なだけのものではありません。私たちは一緒に担っている重荷もあります。またイエスに委ねるということはイエスの体であるこの家族に委ねることでもあるのです。もっと軽く感じたいと思うなら、主に向かって、訴えるにしても、信頼を言い表すにしても、「私は、私を、私に」だけではなく「私たちは、私たちを、私たちに」とも歌い、祈り、叫びましょう。自分が神様の家族の一員であることを実感できるはずです。そしてそのことは、あなたの荷を負いやすいものと変えてくれます。


メッセージのポイント

詩人の信仰が不完全であると感じるなら、「信仰」ということ自体の意味を誤解しているかもしれません。信仰は学問でも、〇〇道といわれる芸術や武道のようなものなのではありません。会得して、完璧にできるようになるものでもなければ、人と比較して比較できるものでもありません。信仰とは神様に重荷を委ねることですが、それはどのような心の状態であれ、最終的希望を神様に託すということなのです。

話し合いのために

1) あなたの人生最大の重荷とは何ですか?
2) 主はそれをどうして下さいましたか?

子供たちのために

わかりやすい節を紹介しながら、詩人が、人間を恐れていること、友達だと思っていた人たちから裏切られ苦しめられていることを平易な言葉で伝えて下さい。神様に「そのような人たちをひどい目に合わせて下さい」と訴えていることについては、褒められる感情ではないけれど、それほどまでに恐れているということを神様は受け止めてくださるのだということを伝えて下さい。その上で、神様は全ての人を愛していて、全ての人が幸せになることを願っておられるから、誰をひどい目に合わせて下さい、ではなく、私をなんとかして下さいと訴えるように勧めてください。