神様のやり方は非効率的













神様のやり方は非効率的
マルコ 4:1-20

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 今日はマルコによる福音書4:1-20を読んでいきます。とても有名な「種を蒔く人のたとえ」です。一見、とても単純なたとえ話のように思えますが、実はとても難しいお話です。鍵となるのは、たとえ話とその説明の間に挟まれている10-12節の部分です。それでも、今日のお話は最後まで謎かけのようで、分かりにくいかもしれません。(私が読んだ参考書の一つには、「ここでイエスが何を言おうとしたかは、もはや明らかでない」と書かれていて、他の箇所と比べて本当に短い解説しかなくて愕然としました。)順番に読んでいきましょう。まず1-9節です。


A. 無駄の多い種蒔き (1-9)

1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。すると、おびただしい群衆が御もとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた。群衆は皆岸辺にいた。2 イエスはたとえを用いて多くのことを教えられ、その中で次のように言われた。3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて塞いだので、実を結ばなかった。8 また、ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

皆さんは、畑に種を蒔いたことがあるでしょうか?想像していただきたいのですが、種蒔きをするとなったら、普通は種の入った袋を畑まで持って行って、よく耕された土の上に蒔きますよね。腕を広げてばらまくような小さな種だとしても、畑の外に種が落ちて無駄にならないように、注意して蒔きます。でも、このたとえ話ではどうでしょうか。道端に落ちてしまったのも、石だらけのところに落ちてしまったのも、いばらの中に落ちてしまったのもあったと言われています。そして、その種はみんな無駄になってしまいました。最後には良い土地に落ちた種が100倍もの収穫を生んだとあるので良かったですが、この人は、もうちょっと注意して種を蒔けなかったんでしょうか?ただでさえパレスチナの土地はやせていて、効率良く農業をしなければ収穫は期待できません。イエス様の話を聞いていた群衆の中に農民がいたら、このたとえ話の人のことを不真面目でだらしない農民だと思ったかもしれません。良い土地に落ちた種があったのは、まるでまぐれのようです。
 でもイエス様は、このたとえ話をして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。この、無駄の多い種蒔きでも幸運を手にした、だらしない農夫は、神様です。神様は、人間からすると無駄と思えるようなことをします。悪い土地にも良い土地にも、種を蒔きます。どこかに良い土地があることを期待して、良く言えば気前よく、悪く言えば非効率的に、種を蒔き続けます。種は袋からあふれ出るほどあって、神様が行くところすべてに落ちていくのかもしれません。そして、神様はそれでいいと思っています。神様はそういう方です。悪い土地に見えるところが、もしかしたら下には良い土地があるかもしれない。今は養分がなくてやせていても、後で洪水がおこって養分が流れてきて良い土地になるかもしれない。そんな悠長な、と私たちは言いたくなりますが、神様は根気よく、気長に待っています。そして、種が良い土地を見つけたら、「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍に」なるように、育てられます。私たちはみんな、この神様に見つけていただいて、育てられています。
 ただ、このたとえ話では、良い土地と悪い土地があるということもはっきりしています。だから私たちは、自分はどちらなのだろうかと心配になるのですが、そのことは続きの箇所から考えていきましょう。10-12節です。


B. 内の人と外の人 (10-12)

10 イエスが独りになられたとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人と共に、たとえについて尋ねた。11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘儀が授けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず/聞くには聞くが、悟らず/立ち帰って赦されることがない』/ためである。」

良い土地と悪い土地の区別がはっきりあるように、ここでイエス様ははっきり、「外の人々」がいると言われています。その人たちには神様の国の秘密は理解できないと。では、内側の人とは誰かと言ったら、ここで言うなら十二人の弟子たちと「イエスの周りにいた人たち」です。何が人びとを内と外に分けるのでしょうか?それは文字通り、イエス様の周りにいるかいないか、イエス様と共にいるかいないかです。イエス様と共にいるなら内側の人間で、イエス様と共にいないなら外側の人間なのです。イエス様と共にいるなら、神様の国の秘密を理解できるようにされていますが、イエス様と共にいないなら、それを理解することはできません。それが内側と外側の違いです。その線引きははっきりあるということです。
 ただ、間違えてはいけないのは、イエス様と共にいるとはどういうことかということです。それはクリスチャンであるとか、教会に通っている、所属しているとかいうことではありません。本当の意味で、イエス様と共に人生を歩もうとしているか、イエス様に従って歩んでいきたいと願っているかどうかです。つまり、それは人間の目には見えない線引きです。
 では、イエス様と共にいなければ神様の国の秘密は理解できないとはどういうことでしょうか?それは、イエス様を知らなければ、神様の愛を知ることはできないことに関係があります。私たちは、イエス様が私のために十字架で死なれたということを、日々の生活の中で繰り返し確認します。イエス様はこんな私を見離さず、赦して共に歩んでくださる方だと、それぞれが自分の歩みの中で確認します。それによって、私たちは神様をもっと良く知り、神様の国をもっと良く見ることができるようになります。だから、イエス様と共に歩んでいなければ、神様の国の秘密は理解できないのです。
 私たちはみんな元々は外側の人間です。イエス様と出会って内側の人間になったとしても、いつの間にか外に戻ってしまうこともあります。悪い土地が良い土地になることも、良い土地が悪い土地になってしまうこともあります。イエス様のたとえの説明を聞きましょう。13-20節です。


C. 「聞く耳のある者は聞きなさい」(13-20)

13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。14『 種を蒔く人』は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。18 また、茨の中に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くが、19 世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が入って来て、御言葉を塞いで実を結ばない。20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

このイエス様の説明によれば、このたとえ話では私たちは土だということになります。神様の言葉という種を蒔かれる土です。人々に踏み固められて固くなった道端の土もあります。開墾前のように石だらけの土もあれば、耕作放棄地のように、いつの間にか別の種が入り込んで成長してしまう土もあります。土は、自分で自分を耕すことはできません。良い土になるためには、誰かに掘り起こされ、石を取り除いてもらい、雑草を抜いてもらわなければいけません。
 でも、最初にお話ししたように、神様はだらしない農夫のようで、せっせと土地を耕したりはしません。かわりに、どこかに良い土地があることを期待して、のんびり種をまき続けます。道端にも、石だらけのところにも、いばらが伸びていても、良い土地はあるかもしれないからです。
 私たちは、イエス様を信じると決めたのに、不安でどうしようもなくなる時があります。人から尊敬されたいという思うあまり、自分勝手な思いばかり持ってしまう時があります。誰かを愛しているつもりで支配していることもあります。私たちはイエス様のそばを出たり入ったりして、私たちの心には常に良い土地と悪い土地が混在しているのです。私たち自身には、それを区別するのも難しいかもしれません。神様はその全てを知っている上で、種蒔きを続け、私たちに語りかけ続けられます。
 今日のたとえ話は、3節のイエス様の言葉から始まりました。「よく聞きなさい Listen!」です。そして、悪い土地に共通する特徴は、「み言葉を聞いているのに、聞いていない」ということです。だから12節のイザヤ書の言葉になります。「彼らは見るには見るが、認めず/聞くには聞くが、悟らず/立ち帰って赦されることがない …they may be ever seeing but never perceiving, and ever hearing but never understanding; otherwise they might turn and be forgiven!」反対に、良い土地の特徴は「み言葉を聞いて受け入れる hear the word and accept it」ということです。それは、ただ聞くだけで終わるのではなく、自分の中に受け止め、確かめるということです。み言葉、神様の言葉とは、イエス様ご自身のことでもあります。私たちはイエス様の周りにいれば、共にいれば、神様の国の秘密を知ることができます。9節「聞く耳のある者は聞きなさい。 Whoever has ears to hear, let them hear.」イエス様のそばでイエス様によく聞くこと、それが私たちにできることの全てです。そして、「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。…they produce a crop—some thirty, some sixty, some a hundred times what was sown.」その実は目に見えません。私たちがイエス様によく聞きたいという願いを持っているなら、見えないところですでに実は何倍にも実っているのかもしれません。私たちが生きているうちには分からないかもしれません。
 神様の袋はいつも種でいっぱいです。無駄の多い種蒔きを続けても、決して無くなりません。だから、安心して、そのままのあなたで、ただイエス様によく聞いてください。


メッセージのポイント

このたとえ話は、「良い土地になりなさい」という話ではありません。神様は良い土地にも悪い土地にも種を蒔き続ける方です。私たちの心には良い土地も悪い土地も混在していて、私たちにはその正しい区別すらできません。その全てを知っている上で、神様は私たちと共にいたいと願い、語りかけ続けて下さっています。私たちにできることは、ただイエス様に「よく聞く」ことだけです。

話し合いのために

1) なぜ神様は実を結ばない土地にも種をまくのでしょうか?
2) 実を結ぶために私たちにできることはなんでしょうか?

子供たちのために

実際の種まきを想像しながら、みんなで話してみて下さい。普通、たくさん収穫を得たかったら、よく耕した良い土地にだけ効率良く種を蒔こうとします。でも、神様のやり方はそうではありません。なぜでしょうか?