神様の国の不思議

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神様の国の不思議

 今日のメッセージのタイトルは、今日の箇所には出てきませんが、前回読んだ箇所の4:11から取りました。「あなたがたには神の国の秘義が授けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。The secret of the kingdom of God has been given to you. But to those on the outside everything is said in parables…」秘密、秘義と訳されている言葉には、ミステリー、不思議という意味もあります。今日読んでいく箇所にも、神様の国の不思議が語られています。その不思議を解く鍵が、今日最初に読んでいく箇所に隠されています。21-23節を読んでいきましょう。


A. 不思議を解く鍵は「ランプ」

1. ランプは光を照らすためにある (21-23)

21 また、イエスは言われた。「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

 このたとえ話はマタイやルカにもあります。でも、内容は少しずつ違います。特にマタイでは、私たちは地の塩世の光となって人々の前で輝きなさいということが教えられています。恐らく、私たちにとってその教えの印象が強いので、このマルコのたとえ話の本当の意味を受け取り損ねていることが多いのだと思います。でも、このマルコ福音書にあるともしびのたとえ話はマタイのものとは全く意味が違います。
 21節「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。Do you bring in a lamp to put it under a bowl or a bed?」この一文は、日本語でも英語でも、原文のギリシャ語をわかりやすく解釈して訳した文になっています。ともしびという日本語はあまり今では使わないので、英語のようにランプと言い直して原文を直訳すると、「ランプが来るのは、升の下や寝台の下に置かれるためだろうか。Does the lamp come in order that it might be placed under a bowl or a bed?」となります。私たちがランプを持って来るのではなく、ランプが来るという、ランプが主語の文章です。でも、ランプが来るという言い方が不自然なので、ランプを持って来ると訳されています。でも、この不自然な言葉遣いに意味があります。このランプのたとえは、イエス様が来られるということと大きく関係しています。ランプが来るのは、つまりイエス様が来られるのは、升の下や寝台の下に置かれて、隠されるためではない。ランプは燭台の上に置かれるために、つまりイエス様は私たちの上に輝くためにいるのだということです。
 ですから、イエス様はここでランプのたとえを用いて、ご自分がこの世界に来られた意味を説いていることになります。イエス様は、神様の計画を私たちに知らせるためにこの世界に来られました。神様のことは人間には全てを理解することはできません。隠されていることの方が多くあり、私たちには見えないことが多くあります。でも、22節「 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない …whatever is hidden is meant to be disclosed, and whatever is concealed is meant to be brought out into the open」のです。なぜなら、ランプはその光を覆い隠されるためにあるのではなく、光り輝くためにあるからです。それがランプの役割であり目的です。そして、それがイエス様の役割であり目的なのです。イエス様がいる以上、私たちは見えないことを恐れたり、理解できないことを今すぐに理解しなければいけないと焦る必要はありません。イエス様が私たちの道を照らすランプであり、どんな強風でも決して消えることなく光り続けるランプなのです。
 さて、それではこのランプに道を照らされて歩むとはどういうことなのでしょうか。それは前回も聞いた23節のフレーズに関係があります。「聞く耳のある者は聞きなさい。If anyone has ears to hear, let them hear.」続きの24-25節と合わせて考えていきましょう。

2. 聞く秤と受け取る秤 (24-25)

24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる。25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 前回に引き続き、「よく聞きなさい」という注意が繰り返されています。そして、「聞くこと」と「与えられること」がつなげられています。「あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる。With the measure you use, it will be measured to you—and even more.」私たちは、聞く量に応じて与えられる量が決まります。私たちがイエス様によく聞くなら、イエス様から受け取るものも多くなるということです。聞く秤と受け取る秤はいつも比例しています。
 ただ、25節はどうでしょうか。「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。Whoever has will be given more; whoever does not have, even what they have will be taken from them.」これだけ読むと、不公平で残酷な感じがします。でも、イエス様に聞くということにおいては、これが真実です。イエス様によく聞いている人に多くが語られるのは当然です。反対に、イエス様に聞かないということは、実は必要でないものやイエス様に聞くことを邪魔するものをたくさん持っているということです。だから、それらは取り除かれる必要があります。
 「何を聞いているかに注意しなさい。Consider carefully what you hear.」イエス様にどれだけよく聞いているかが、私たちの豊かさを決めます。ランプでも同じことが言えます。イエス様というランプを心の端っこではなく、中心の高いところに置くなら、私たちの暗闇はより明るく照らされるでしょう。ランプを用いる頻度やそれを置く位置と、私たちの視界の明るさは比例しているということです。
 では、私たちはイエス様によく聞くことで何をもっと受け取るのでしょうか?イエス様というランプが照らし出してくれる先にあるものは何なのでしょうか?答えは、神様の国です。そこがどんな不思議なところなのか、続きの箇所で確認したいと思います。


B. 神様の国の不思議

1. 人間の力によらず、確実に実を結ぶ (26-29)

26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 前回の種をまく人のたとえ話と似ていて、ここに出てくる種をまく人も、せっせと畑のお世話をするとは言われていません。その人が夜昼寝起きしているうちに、種は勝手に芽を出して成長するんだと言われています。一見無責任な話ですが、そういうわけではありません。この人は、種が必ず芽を出すことを知っているので、種の成長を無理やり急がせたりはしないのです。それは、種の持っている力を信じているからとも、種がまかれた土の力を信じているからとも、どちらとも言えます。神様の言葉には力があり、神様の言葉を受け取って信じる人にも力があります。でもそれはどちらも、人間の力や努力によるものではなく、神様の力によります。神様の言葉を受け取っているかどうか、神様の力がその人のうちで生きて働いているかどうかは、人の目にはすぐにはわかりません。でも、神様の国は知らず知らずのうちに、私たちのうちに芽生え、私たちの周りにも広がっています。イエス様というランプを輝かせて、イエス様によく聞くなら、目には見えないその神様の国の成長を私たちも見ることができるはずです。自分のうちにも、この世界の中でも。

2. 最初は小さいが、想定外の広がりを持つことになる (30-32)

30 また、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31 それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 よく、からし種のような信仰という言い方がされます。どんなに小さな信仰でもいいのだというイエス様の教えに基づいています。でも、ここでからし種にたとえられているのは私たちの信仰ではなく、神様の国そのものです。神様の国は私たちの信仰がなければ見えないので、どちらでも同じとも言えるのですが、ここではもっと、私たちのすることというよりも神様のすることという意味の方が強いと思います。イエス様は、神様の国でさえも、つまり神様の働きさえも、最初はからし種のように小さいと言っているということです。でも、その小さな神様の国は、やがて必ず成長して大きくなります。そして、ただ実を実らせるだけではなく、鳥が来て巣を作ります。それは、本来のからし種に期待されていること以上の、想定外の役割を果たすということです。神様の国は、私たちの間で最初は小さすぎて見えないのが普通です。でも、私たちがそれぞれイエス様というランプを持っているなら、そのランプは私たちの想像をはるかに超えて遠くまで私たちを導いてくれます。そして、私たちは最初考えもしなかったような人のところにも神様の国が届いて広がっていくでしょう。

3. 私たちには隠されていることと明らかにされていること、両方がいつもある (33-34)

33 イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。34 たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 前回、内側の人と外側の人がいるというお話をしました。イエス様のそばにいる人とそうでない人の違いです。でも同時に、私たちはみんな、内と外を出たり入ったりするのだとお話ししました。私たちは、イエス様のそばにいようとするときもあれば、イエス様から離れてしまうときもあります。ただ、イエス様の位置はいつも変わりません。私たちがイエス様に聞こうとしても聞こえないときも、聞いているつもりで聞いていないときも、イエス様は決して私たちに語りかけるのをやめているわけではありません。ただ私たちには、いつも、分かることと分からないことがあり、見えることと見えないことがあるのです。神様の国の全貌を見ることのできる人は誰もいません。でも、ランプはあります。イエス様という方を知ることによって、私たちは自分の人生に神様が働かれていることを知ることができます。そして、この世界の中に神様の国が確かに来ていることを見ることができます。もう一度、最初のイエス様の言葉を聞きましょう。

ランプが来るのは、升の下や寝台の下に置かれるためだろうか。燭台の上に置かれるためではないか。

隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。


メッセージのポイント

私たちには神様の国の全てを見ることはできません。でも、私たちがイエス様というランプによって人生を照らされて歩むなら、私たち自身が神様の国の一部になっています。このランプは、この世界の中で私たちが見過ごしてしまいがちな神様の国をよく見えるようにしてくれます。私たちの中にも私たちの周りの人たちの間にも、神様の国は来ていることを、このランプによってよく見えるようになりましょう。

話し合いのために

1) 神様の国とは何ですか??
2) 25節はどういう意味ですか?

子供たちのために

「ともしび」は英語で訳されているようにランプです。テント用のランプなどがあったら、実際に使いながら話してもいいかもしれません。私たちにはイエス様というランプがあります。せっかく明るいランプがあるのに、どこかにしまいこんでしまったら、ランプを使っていることにはなりません。みんなはどうやってイエス様というランプを使うでしょうか?