祝福と感謝


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祝福と感謝

(詩編 67) 永原アンディ

1 【指揮者によって。弦楽器で。賛歌。歌。】
2 神が私たちを憐れみ、祝福し
その顔を私たちに輝かせてくださいますように〔セラ

3 地があなたの道を知り
すべての国があなたの救いを知るために。

4 神よ、もろもろの民が
あなたに感謝を献げますように。
もろもろの民が、こぞって
あなたに感謝を献げますように。

5 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います
あなたがもろもろの民を公平に裁き
この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ

6 神よ、もろもろの民が
あなたに感謝を献げますように。
もろもろの民が、こぞって
あなたに感謝を献げますように。

7 大地は作物を実らせました。神、私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。
8 神が私たちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまですべてのものが神を畏れ敬いますように。

 この詩の背景には、誰もが実感できる神様の祝福の体験があったようです。例えば豊作とか、平和の実現といったことです。皆さんは、今神様に祝福されていると感じているでしょうか? 
 神様の祝福の約束は被造物全てが対象です。聖書の中には、例えばヤコブの兄エサウのように祝福を受けられないという記述はありますが、それはレトリックであって、神様が恣意的に、何か理由をつけて私たちを祝福したりしなかったりなさることはありません。私たちがそう感じるのは、私たちが受け取れる状態ではないということです。ラジオの放送のことを考えてみてください。放送局からは24時間電波が休みなく送られています。しかし私たちのレシーバーがその放送局の周波数に合っていなければ、その放送を聞くことはできません。神様はどのような恵みを注いでいてくださるのか、私たちはそれを受け取るためにどうチャンネルを合わせたらいいのか、今日の聖書は教えてくれています。


A. 神様の祝福を求めよう

 まず神様の祝福自体について考えてみましょう。あなたにとって神様の祝福とはどのようなことでしょうか? 今日の詩編から、恵みを三つの類型に分けて考えてみます。この類型の根拠は3、5、7節にあります。もう一度3節を読んでみましょう。

 

1. 和解 (3)

地があなたの道を知り すべての国があなたの救いを知るために。

  「道」という言葉と「救い」という言葉が対になって歌われています。私たちの悩み苦しみの全ての原因は、私たちが神様の道から外れて歩んでいることです。人類がアダムとエヴァの、つまり最初に選んだ生き方として「神なしに生きる」「自分を神として生きる」とういう、本当は道とはなり得ない、それぞれが勝手に心に思い描く幻の道を歩んでいる状態です。聖書はこの状態を「罪」と呼びました。「地があなたの道を知り すべての国があなたの救いを知るために。」この詩人の願いは、イエスが来てくださった時に実現しました。もっと正確にいうと「実現が始まった」のです。イエスご自身は、このことについて「私が道であり真理であり、命です。私という道を通してしか神様と繋がることはできません」(ヨハネ14:6)と言われました。イエスの言葉に耳を傾け、イエスの歩みに従うことが、歩むべき道です。そこに立ち戻ることが、悩み、苦しみからの救いです。神様は、神様との和解、仲直りの道を、イエスとしてきてくださることによって可能にしてくださいました、このことは神様が私たちにくださる祝福の核心です。まだあなたが、神様との和解ができておらず、それを求めるなら、求めるべき相手はイエスです。イエスを知り、信頼し、ついていくことが、あなたに示されている答えだからです。

 

2. 正義 (5)

諸国の民は喜び祝い、喜び歌います
あなたがもろもろの民を公平に裁き
この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ

 神様の祝福の第二の側面は正しい裁きが世になされることです。しかし、このことは神様が直接手を下される事ではありません。神に従う人々を用いてなされる事です。旧約の時代、神様はイザヤのような預言者を通して、正義を行うことを求められました。イエスが来られた今の時代は、イエスに従う人にその働きが委ねられています。その象徴的な人として、マーティン・ルーサ・キングやマザー・テレサやボンフェファーなどが挙げられますが、彼らは一人でそれを行なったのではなく、多くの共に立つ人々とともに行動したのです。イエスは、どんな理由であれ虐げられている人を、彼に従う人々を通して解放します。

 だからユアチャーチは、フェイスブックの教会のページに「本当にあなたの教会になりたい」と題して次のような文を載せています。 “すべての人が神に似せて創造され無条件に神から愛されていることを心から信じ、年齢、性別、人種、性的指向、性自認、民族、国籍、経済状況、能力などの違いを問わず、独身者も既婚者も離婚者も、すべての人が歓迎される共同体となることを目指します。
 「そんな綺麗事を」と思われるかもしれません。確かに、様々な偏見にとらわれ、利己的になりがちな、器の小さい私たちです。そんな私たちの作る共同体なんて幻想だと思えても当然だと思います。しかし、それが実現可能、少なくともその方向に向かって前進し続けることのできる「鍵」があるのです。聖書に記された「人となられた神=イエス・キリスト」です。 私たちは、イエスに従って歩み続けることによって、この目標は決して「幻想」には終わらないと信じています。そんなイエスをあなたにも紹介したい。それが私たちの願いです。”

 

3. 収穫 (7, 8)

大地は作物を実らせました。神、私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。
 神が私たちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまですべてのものが神を畏れ敬いますように。

 現代のキリスト教の問題点の一つは、この収穫を強調しすぎる傾向にあることです。物質的繁栄=祝福、富むこと=祝福ではありません。昔、大きな立派な教会堂で「たくさん献金しましょう!そうしたら神様はあなたをお金持ちにします」という説教を聞いたことがあります。その教会はもう存在しません。破産してしまったからです。
 それでもやっぱり、収穫は祝福の一つです。だからここでお話するのです。神様は必ず私達の必要を様々な方法で満たしてくれます。しかし、イエスは、贅沢な食べ物をいつも食べられるようにしてあげよう、超高級ブランドの服でクロゼットをいっぱいにしてあげよう、お城に住ませてあげようとはおっしゃいませんでした。神様が空の鳥や野の花でさえ養い育てることを示され、食べること、着ること、住むことで心配する必要はない(マタイ6章)と言われたのです。そしてそれらのことを心配するのではなく、神の国とその義を求めなさい。つまり、「1の和解と2の正義を追い求め続けなさい。そうすれば3の収穫については心配しなくても私が備える」と言ってくださっているということです。

 


B. 神様は誰を祝福されるのか? (4,6)

神よ、もろもろの民があなたに感謝を献げますように。もろもろの民が、こぞってあなたに感謝を献げますように。

  今日、最初に神様の祝福は全ての人に向けられているとお話していました。しかし、旧約聖書の中には、神様はただイスラエル民族だけを祝福する方のように読める部分も少なくありません。4節と6節は繰り返しの同じ言葉ですが、ここでは神様があらゆる人を祝福の対象と見ていることがわかります。そして、私たちにとって、福音書に記録されたイエスの言葉と行いは、そのことはさらにはっきり教えてくれています。ところが、私たちは、主に従っているつもりでも、特定の人々に対する敵意や偏見にとらわれやすいのです。つい自分達と違う点を持つ人を裁き、自分たちは祝福を受けているのだから、彼らは呪われていると思いがちです。しかし、それでは本当にイエスに従っていることにはなりません。イエスが私たちに求められているのは、人を裁くことではなく、イエスを愛し、イエスの愛と正義の意思を行い、祝福された人生を歩むことです。それは多くの人に、神様の祝福に気づくきっかけを与えることになります。

 


C. 神様の祝福に対する感謝の行動

1) 神様に対して

 ここに用いられていた言葉が賛美とも、感謝とも訳せるように、私たちは神様を礼拝という行為で感謝を言い表し、神様をほめたたえます。かつて、歴史の初めに「私たちはあなたなしでやっていけます。勝手にさせてください」と背を向けた人類が、個人としても、社会としても、その歩みに行き詰まって、「もう一度あなたと共に歩ませてください」と願ったことに対する神様の対応は、拒絶ではなく「祝福」でした。心のラジオが神様のチャンネルに正確に合っていれば、ノイズなしに祝福が感じられるでしょう。しかし。私たちの受信機は環境に左右されやすく、狂いやすいものなのです。礼拝は昔のラジオでダイヤルを左右に注意深く動かして最適なポイントを保つことに似ています。メッセージは何か新しいことを教えるためになされているのではありません。神様チャンネルに選局すること自体が神様を讃えることなのです。
 神様の放送がよく聞こえるように選局されたあなたの日常を人が見れば、その人もそれにチャンネルを合わせたいと思うのです。

 

2) 互いに

 神様の祝福によって力、喜び、知恵が与えられます。それを、誰かのために用いることが、神様の願いです。それは、しなければいけない、するべきだという事柄ではありません。私たちが溢れるばかりの祝福を受ければ、それが人々のうちに溢れ出すのは自然なことです。ですからここで言いたいことは、何々をしましょうという勧めではありません。やはり1と同じで、神様とのチャンネルをしっかり保って、必要な恵みをしっかり受け止めましょうと言いたいのです。そうすればユアチャーチは誰に命令されなくてもそのような家族でいられます。

 

3) 社会に対して

もうよくわかっていただけたと思いますが、イエスに従って歩めば祝福は十分なのです。そうすれば神様と繋がっていないために起こる悩みや苦しみとは無縁です。
 神の国と神の義を求め続けるなら、豊かに祝福されて、神様の正義の担い手として、ごく当たり前の日常の中でも、差し迫った差別や貧困との戦いの中でも、イエスならどうなさるか、どう言われるかを思いながら行動することが少しづつできるようになるのです。

 


メッセージのポイント

宗教は国家主義・民族主義の道具になりやすく、キリスト教も例外ではありませんが、聖書を注意深く読むなら、聖書が指し示す神様は、特定の個人や民族の神様ではないことがわかります。全ての人を愛する神様を信じると思うなら、私たちもまたあらゆる敵意や偏見から自由にされて、イエスのように愛する者と変えられる事を願いましょう。

話し合いのために

1) 神様の祝福とは何ですか? 
2) 神様は私たちにどのように生きることを望んでおられると思いますか?

子供たちのために

この詩を子供達にもわかりやすい言葉に言い換えて話してください。世界中のどの国に住む、お年寄りも、大人も、子供も神様にとっては大切な子供たちです。それなのに、差別や、いじめ、貧困などで苦しむ人が沢山いるのは、神様の願いに気がつかない人が大勢いるからです。イエス様の平和の教えを一人でも多くの人が知るために、自分がイエス様のことをもっとよく知ろうとすること、そしてイエス様のように行動すること、イエス様のことを紹介することが私たちにできることです。