悪い奴ほどよく眠る

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悪い奴ほどよく眠る

(詩編 13) 永原アンディ

 

A. それでも神様を信頼できるのか?

1. 私たちの心の中にある神様への不信感 (1-3)

1 賛歌。アサフの詩。神はなんと恵み深いことか イスラエルに、心の清い者たちに。2 それなのに私は、危うく足を滑らせ 今にも歩みを踏み誤るところだった。3 悪しき者の安泰を見て 驕り高ぶる者を妬んだ。

 神様に対する信頼が揺らいだことのない人はいないでしょう。この詩人も私たちと同じ経験をしています。彼はかつて多くの神様の恵みを経験してきたのに、その信頼が崩れ神様に背を向けそうになった経験と、そこからどう立ち直ることができたかを私たちに教えてくれています。彼の神様に対する不信の原因が3節に告白されています。「悪しき者の安泰を見て 驕り高ぶる者を妬んだ。」 「神様を信じて正しく歩もうとしている私が苦しみ、神様を恐れず勝手に生きている人が私より幸せそうではないか!」という憤り。皆さんも感じたことがあるのではないでしょうか?

 

2. 悪い奴ほどよく眠る (4-12)

4 彼らには苦しみがなく 体も肥えて健やかである。5 人間の負うべき労苦もなく 人々のように打たれることもない。6 それゆえ高慢が首を飾り 暴虐の衣が彼らを包む。7 過ちは脂肪の中からにじみ出て 悪だくみは心に溢れている8 彼らは嘲り、悪意をもって語り 高飛車に暴言を吐く。9 彼らは口を天に置き 舌は地を這う。10 それゆえ、民はここに帰り 彼らの言葉を水のように貪る。11 彼らは言う。「神がどうして知っていようか。いと高き方に何の知識があろうか。」12 見よ、これが悪しき者。とこしえに安穏に財をなしていく。

 「悪い奴ほどよく眠る」1960年代の黒澤明監督の映画のタイトルです。皆さんは良い人でしょうから、心配事、苦しみ、悲しみ、良心の呵責で眠れない夜の経験があると思います。一方で、自分を苦しめる者が、悩むこともなく、自分の欲望に従って生きているように見えます。だから、「奴らは超高級マットレスとオーダーメードの枕で安眠を貪り、神様に従って生きている自分より健康で裕福なんだろう」と私たちは思ってしまうのです。彼らの周りには、多くの人々がその分け前に預かろうと群がっています。今の社会を見ているようではありませんか?貧富の格差だけではありません。学歴や性別や人種でもそうです。一人一人の人間の価値に大きな差があるかのようです。「裕福で価値ある人間には人生を楽しむ権利があり、貧しく無価値なら餓死しても仕方がない」と言えるのでしょうか?神様はそのような人間社会を喜んでおられるのでしょうか?収入に違いがあっても、それが何千倍という違いであっても、そのこと自体が問題なのではありません。強い者がその力で、貧しい者からさらに取り上げようとすることが問題です。世界経済の仕組みは今でも富んでいる人や国に有利なものです。

 「悪い奴」とは特殊な裏社会の人間ではありません。例えば、多くの詩編にその名がつけられている、聖書では最も評価の高い王ダビデですが、彼は典型的な「悪い奴」でもあったことをご存知でしょうか?彼は自分の部下ウリヤの妻を奪い、彼を死に追いやった奴(サムエル記上11章)です。ウリヤの身になって想像してみてください。神様と、国と、王であるダビデに忠誠を誓って戦場にいる時に、その王に妻を奪われただけでなく、ダビデの命令によって敵の手に渡され殺されてしまったのです。

 

3. それでも問いかけをやめない (13-17)

13 なんと空しいことか。私は心を清く保ち 手を洗って潔白を示した。14 日ごと、私は打たれ 朝ごとに懲らしめを受けた。15 もし「彼らのように語ろう」と言ったなら 私はあなたに属する人々を裏切ることになっただろう。16 私の目に徒労に見えたが これを知ろうと思い巡らした。17 そしてついに神の聖所に入り 彼らの行く末を悟った。

 詩人は、それでも今までの恵みを思い起こし、思い直して神様の意思を求め、神様について行こうと思っているようです。しかし、状況はなかなか簡単には変わりません。14節を読むと、彼は長く病気にも苦しんでいるのです。15節では、何度も「もうやめてしまおう」と思ったり、神様を無視し、自分を苦しめる人々のように生きようかと迷ったことがわかります。

 しかし彼が思いとどまらせたのは、そうしたなら、神様だけでなく神様に属する人々を裏切ることになるという事実でした。神様を信じて生きる人々を裏切りたくない、という動機は信仰的ではなく人間的だと感じられるかもしれませんが、これが最後の切り札となることもあるのです。神様ご自身のことは見えなくなることがあっても、共に笑い、共に泣き、神様の恵みを共に受け取ってきた神の家族は、見えなくなることがないからです。それは、イエスはこの目で見えなくてもその体である教会です。

 教会は私たちの魂が安らげる家庭です。神様の家庭、教会は、いつでも逃げ込んで来て安らげる家庭なのです。だから、一人一人の歩みが、苦労の連続で、なかなか報われないと思っても、慰め、励まし合いながら歩み続けることができます。イエスは、私たちが何度も「なぜですか」と問いかけてもうるさがったりはなさいません。問いかけを諦めてしまわなければ、神様に対する信頼は、少しづつかもしれませんが強いものになってゆくのです。

 詩人は諦めずに問い続け、最後に「悪い奴」の行く末を悟りました。後半でその内容を見てゆきましょう。

 


B. 神に近くあることこそが幸い

1. 私も彼らと同じだった (18-22)

18 あなたは滑りやすい道を備え 彼らを廃墟に落とされる。19 何ということか 瞬く間に彼らは恐ろしい目に遭い 恐怖のうちに滅びうせる。20 彼らは、目覚めの際の夢のよう、わが主よ、あなたは起き上がり 彼らのはかない姿を軽んじられる。21 私の心は痛み はらわたの裂ける思いがする。22 私は愚かでものを知らず あなたと共にありながら獣のようだった。

 詩人は足を滑らせるという表現を最初の部分で自分に対して用いましたが、ここで同じ表現を「彼ら」に対して使っています。悪が簡単に滅びて目の前から消え失せるわけではないことを詩人は知っています。彼らの滅びとは、命を取られることでも、財産を失うことでもありません。神様に背を向けて生きること自体が滅びであり、目に見える彼らの繁栄は虚栄であることがわかったのです。

 ダビデを「悪い奴」と言いましたが、そのダビデ自身も、生涯にわたって、家族関係、前の王サウルとの関係、子どもとの関係で苦労していました。彼にとっての「悪い奴ら」に苦しんだ生涯でした。

 酷い目に遭っている方から見れば「悪い奴ほど良く眠」っているに違いないと妬むのですが、その「悪い奴」も彼の目から見た「悪い奴」に悩まされて寝付けないことがあるのです。

 新約聖書にも、「悪い奴」と悪い奴を妬んだ「良い奴」の出て来る話があります。イエスがなさったたとえ話の一つです。それは、ルカによる福音書15:11-32に出てくる二人の兄弟です。弟は父に生前贈与を求め、受け取ると全て金に変えて外国に行き、贅沢に遊び暮らして使い果たし、父のところで雇ってもらおうと帰ってくる話です。皆さんは兄と弟のどちらにシンパシーを感じるでしょうか?兄にとって弟は「悪い奴」です。自分は父のもとで贅沢もせず父の畑で真面目に働いていたのに、調子のいい弟は、生前贈与を使い果たしてのこのこと帰ってきて、「雇い人の一人にしてください」などと調子のいいことを言い、お人好しの父は、盛大なパーティーを開いて大切な息子として再び迎え入れたという話です。父は神様です。つまり神様と人間との関係を教える例えなのですが、「良い奴」である兄も、実は父に不満があったことが、こんな言葉でわかります。

 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめて。しかし兄は父親に言った、「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(ルカ15:28-30)

 神様に背を向けたくなる傾向は誰にでもあるのです。詩人も自分の心を観察して、自分の内にある「悪い奴」の恐ろしい行く末を悟ったのです。彼の結論は23節以下に記されています。

 

2. 永遠にイエスと共に (23-28)

23 しかし、私は常にあなたと共にある。あなたは右の手を捕らえてくださる。24 あなたの計らいは私を導き やがて栄光のうちに私を引き上げてくださる。25 天では、あなたのほかに誰が私を助けてくれようか 地には、あなたほかに愛するものは何もない。26 この身も心も朽ちるが 神はとこしえにわが心の岩、わが受くべき分。27 見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。あなたは背く者を絶たれる。28 しかし私には、神に近くあることこそが幸い。 私は主なる神を逃れ場とし あなたの業をことごとく語り伝えよう。

 詩人が見出した結論は「神様の近くにいることこそが幸いなのだ」ということです。持っている物や、健康状態で幸不幸が決まるのではありません。先の兄息子の文句に対して父はこう答えています。

 「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だがお前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」 (31-32)

 地上の富には限界があっても、神様の恵みは無尽蔵です。神様はそれぞれの本当に必要な物を与えてくださいます。

 地上の富を求めるなら争いは避けられません。イエスを信じているといいながら、この世界の価値観で自分より豊かな人々との差を縮めようと思い悩んで生きる人は大勢います。そして神様を知らない人と同じ苦労を背負い込んでいます。せっかくイエスと出会えたのに、一番大きな特権に気づいていません。「もっと」と求めるべきなのは、神様に近づくことです。富や名誉や健康を求めることは良いことです。しかし、それらを優先順位の一番上に置くなら「悪い奴」の道を行くことになります。

 このことは政治や社会問題に関わらないということではありません。誰もが平等な神の子供として、全ての人の尊厳が守られるために考え行動することが、神様の正義にかなっていることは確かです。そこで私たちがすべきことは二つあります。第一に、イエスを紹介することです。それは、その人を「悪い奴」の悪夢から解放し、「神様の近くにいることこその幸い」を知る人にします。第二に、飢え乾く人々を助けることです。インドネシアの子供達への働きがそうです。始まったばかりですが、エンドウマメもその可能性を持っています。私達一人一人はお金持ちではありませんが、神様の働きを担いたいと願い続けるなら、さらに多くのことをさせていただけるでしょう。

 

 


メッセージのポイント

 何で神様に従って生きている私が苦しみ、神様を信じず自分勝手に生きている者が栄えているのか? それなら彼らと同じように自分中心に生きた方が良いのではないか? そのような誘惑の声を聞かない人はありません。それは、私たちが神様に与えられた、新しい別次元の価値観に対する疑いです。元の価値観に戻れば、財産や名誉や地位を手に入れられるかもしれませんが、その代わりに最も貴重なものを失うことになります。

話し合いのために

1) 最近、どのようなことで神様に憤りましたか?
2) あなたの持つ最も貴重なものとは何ですか?

子供たちのために

 学校では、力の強い子、勉強が良くできる子、運動が得意な子の方が幸せに見えます。そうでないと、仲間はずれにされてしまうこともあります。「悪い奴ほどよく眠る」は1960年の黒澤映画ですが、子供達にとっては「ドラえもん」の世界です。パッとしないのび太にとって、ジャイアンは脅威です。もしドラえもんが存在しなかったら、彼の生活は、暗くて辛いだけのものだったでしょう。ドラえもんは、ただのび太のお願いを聞いてあげるだけの存在ではありません。時にのび太を諌め、寄り添っていてくれる存在です。実際にはドラえもんはいませんが、イエス様はいつまでも共にいてくださるドラえもん以上に頼りになる方です。

 お金があること、能力があること、人気があることはその本人にとって愉快なことかもしれませんが、それはいつ無くなっても不思議ではないということ。それらがなくても、イエスと共に生きているなら、苦しいことからも悲しいことからも必ず救い出してもらえること。永遠の幸せを約束してくださった方です。