あなたにとって私は何か?

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あなたにとって私は何か?

(詩編 74, マルコ 8:27-38) 永原アンディ

 

 この74編は、先週のイエスの問い「あなたにとって私は何か?」に正しく答える助けになる詩です。今日は先週に続いて、この大切な問いに対する答えを考えてゆきましょう。

 

1. 神のことを思わず、人のことを思ってしまう私たち (1-11, マルコ8:33)

 

1 マスキール。アサフの詩。神よ、なぜ永遠に捨ておくのですか。なぜ、あなたの牧場の羊に向かって怒りの煙をはくのですか。2 どうか、心に留めてください。昔あなたが買い取り御自分のものとして贖われた部族の群れを あなたが住まわれたシオンの山を。3 永遠の廃虚に歩を進めてください。敵は聖所のすべてを荒らし尽くしました。4 あなたに敵対する者は、祭りの場のただ中でほえたけり 自らのしるしをしるしとして立てました。5 それは木の茂みの中で斧を振り上る者のように見えました。6 その時彼らは聖所の彫り物を斧と槌でことごとく打ち砕きました。7 彼らはあなたの聖所に火を放ち あなたの名の住まいを地に倒して汚しました。8 心の中で「これらをことごとく踏みにじってやろう」と言って この地にある神の祭りの場をすべて焼き払いました。9 もはやわたしたちのしるしを見ることはできません。預言者もいません。いつまで続くのか 私たちの中に知る者はありません。10 神よ、敵対する者はいつまで嘲るのでしょうか。敵は永遠にあなたの名を侮るのでしょうか。11 なぜ、あなたは手を引いてしまわれるのですか。右の手は、懐に入れられたままです。

 

 先週のペトロがイエスに叱られた言葉を思い出してください。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」

 

 ペトロのメシア・イエスに対する誤った期待も、イスラエルの神様に対する誤った期待も出発点は同じです。それは神様のことを思わず、人のことを思うことから始まるのです。私たちもまた同じ過ちを犯します。

 「人のことを思う」とはどういうことでしょう?それは自分の望む人間関係や社会のあり方を基準に物事を判断するということです。ペトロはイエスが自分の思った通りのメシアであってほしかったので、死ぬなんてとんでもないとイエスを諌めて、反対に叱られてしまいました。詩人も、神に選ばれた民が苦しんでいるのに、あなたは何をしているのですか?するべきことをしてないじゃないですか!と文句を言っています。詩人は、その時代のイスラエル民族の気持ちを代弁しているのですが、それは残念ながら的外れです。神様は確かに他の民族に先駆けて、ご自身をイスラエルに現されましたが、彼らは、神様がすべてのものの創造者だという視点を見失っていました。それで神様を、民族の神としてしか理解できなかったのです。だから、自分たちの思いに寄り添ってくれて当然だと思え、自分たちが敵の攻撃に晒されているのは、神様の怠慢だと訴えるのです。

 しかし、それはイスラエル民族だけの問題ではありません。もし神様が他の民にご自身を現されたとしても同じことになったでしょう。それはすべての人の持つ性質から起こることだからです。

 それでは「神のことを思う」とはどういうことなのでしょうか?今日のコンテキストで言えば「神様の視点で人間関係や社会を見る」ということです。そのことを可能にさせるのが聖書です。本来、聖書は神様の思いを知り、神様の視点を得るために与えられている書物なのです。しかし、かなり多くの人々によって、聖書も「自分を正当化し、人のこと裁く」という誤った用い方をされ続けています。なぜそんなことができるのでしょうか?それは、そのような人々が「他の人々は自分の解釈で聖書を読むが、自分たちは聖書を文字通り読むので、神様の意思を正しく受け取っている」と考えているからです。英語であれ、日本語であれ現代語に訳された聖書を“文字通り” 読むことが神様の意思を正しく受け取ることにはならないのです。それが認められないということは、その人にとって聖書が偶像となってしまっているということです。聖書は他の宗教や国や民族を攻撃する武器でも、自分とは異なる人々を裁く道具でもありません。そのようなことをしている人々は、イエスに、「律法主義」と非難された旧約聖書の宗教指導者たちより悪質です。なぜなら、イエスと新約聖書を知っているのに、彼らと同じことをしているからです。

 神の思いを知るために聖書を読むのに重要なことは、創世記をベースに旧約聖書全体を読むこと、福音書をベースに新約聖書全体を読むこと、新約聖書をベースに旧約聖書を読むことです。詩人もここで原点に帰り、神様の創造の業を思い起こしています。12-17節を読みましょう。

 


2. 神の事実こそ全ての土台 (12-17)

 

12 しかし神よ、いにしえよりのわが王よ この地のただ中で、救いの業を行われる方よ。13 あなたは力をもって海を分け 大水の上で竜どもの頭を砕かれました。14 あなたはレビヤタンの頭を打ち砕き 荒れ野の獣の餌食とされました。15 あなたは、泉と川を切り開き 絶えることのない大河を涸れさせました。16 昼はあなたのもの 夜もあなたのもの。あなたは、光る天体と太陽を備えました。17 あなたはすべての地の境を定めました。夏と冬を造ったのもあなたです。

 

 この部分で、詩人は、神様がどのような方であるかを確認しています。私たちにとってもこの内容を心に止めることが、イエスがどのような方を正しく知ることの助けとなります。

 詩人が確認したことは、1)イスラエルの歴史を通して神様が手を差し伸べていてくださったこと 2)世界の全てが神様の支配の下にあること 3)世界の全てを神様が創られたこと です。それは、神様はイスラエル民族だけの神様ではなく、世界の全てのものの神様であるということです。これらのことを認めていたなら、イスラエルは11節までに書かれているような状態に陥ることはなかったのです。しかし現代のキリスト教徒も同じ過ちを犯します。イエスが私たちの主であって、私たちは従う者であることを忘れてしまいやすいということです。先に触れたように聖書を自分に都合よく解釈し、イエスの名によって、イエスが愛する人々を攻撃するということが起こるのです。それはイエスを主と呼びながら、実は、自分を主としイエスを都合よく利用していることなのです。先週のお話のペトロもその間違いによってイエスに叱られました。イエスが来られたのは私たちの願いを叶えるためではなく、私たちをイエスに従う者とし、私たちを用いてこの世界を変えるためなのです。世界を変えるということは大げさなことではないのです。私たちはすでにこの世界の中に生きています。あなたの身近な人間関係の中に神様の正義と愛が実現することが、世界が変わるということです。世界の至る所で、皆さんのような人々を通して神様の正義と愛が実現してゆけば、本当に世界は変わってゆくでしょう。

 


3. イエスを知った上で私たちが求めるべきこと (18-23, マルコ 8:34-38)

 

18 主よ、心に留めてください 敵があなたを嘲るのを 愚かな民があなたの名を侮るのを。19 あなたの山鳩の命を獣に渡さないでください。あなたの苦しむ者たちの命を 永遠に忘れないでください。20 契約を顧みてください。地の暗い場所は暴虐の住みかになり果てています。21 虐げられた人が再び辱められることのないように 苦しむ人、貧しい人が あなたの名を賛美できるようにしてください。22 神よ、立ち上がり、ご自分のために争ってください。愚か者が日夜あなたをそしるのを 心に留めてください。23 忘れないでください あなたに敵対する者の声を あなたに立ち向かう者の絶えず起こす騒ぎを。

詩人の言葉は前半とは少し変わりました。「今、あなたの民を敵から救ってください」という願いが前面から退き、「あなたの正義を、あなたの愛を、苦しんでいる者、貧しい者のために実現してください」という願いが強調されています。もちろん、まだイエスを知らない詩人は、民族主義、民族の神という考えからまだ自由ではありませんが、神様がどのような方かという告白を通して、自分たちの求めよりも、神様の正義と愛が実現することを強く求めているようです。

神様が全ての人間を作られ愛しておられるのであれば、わたしたちは、ある国々、人々、民族、文化、宗教を敵とはいえないはずです。それでは本当の敵とは何なのでしょうか?

イエスは「敵」の概念をすっかり変えてしまいました。敵とは倒すべき特定の人々や国、文化、民族、宗教ではなく、全ての人の心に働く「罪」であることを教えてくれました。それは全てのものが従うべき神様に従わないという態度です。それは自分自身に従うという態度です。自己中心、利己心といってもいいでしょう。しかし人間は、この罪を自分の力でコントロールすることはできません。神様が主人、主権者であることを知ることによってのみ、それは可能となるのです。神様はこの罪を赦すために、イエスとして世界に来られたのです。イエスの思いを尋ねながら生きることを勧めるイエスの言葉が、先週学んだマルコによる福音書の34-38節です

34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。35 自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。36 人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。37 人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。38 神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」

イエスは、ご自分に従う者、弟子を求めて、世界に来られたともいえるでしょう。かつてのペトロのように自分の都合にあった在り方をイエスに求めるのではなく、自分の罪を捨てて、イエスと同じように愛することや正義の実現を求めて生きることをイエスは私たちにも求めておられます。

 


メッセージのポイント

イエスとはどんな方なのか?私たちが先週から考えていることですが、私たちもペトロのように、置かれている状況の見方、自分本位なメシアへの期待で、イエスをがっかりさせてしまうことがあります。イエスがどのような方か知らなければイエスについてゆくことはできません。イエスは神様の愛と正義を体現される方、同じ生き方を私たちにも求める方です。

話し合いのために

1) なぜイスラエルはこのような状態に陥ってしまったのでしょうか?
2) イエスはどのような世界を望んでおられますか?

子供たちのために

 イエスが望まれる社会とはどのようなものか?イエスが表すように命じている愛とはどのようなものか話し合いましょう。(カディールさんたちのインドネシアの働きについて紹介しても良いでしょう)