他人のために生きる

 

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他人のために生きる

(マルコによる福音書 9:30-37) 池田真理

 

 今日のメッセージのタイトル、「他人のために」というのは、私がよく知っているミッション系の学校の教育理念です。今日の聖書の箇所を読んでいて、このタイトルしか思いつかなかったのでこれにしました。でもこの理念は、素晴らしい理念だと思いますが、一歩間違えると偽善にもなります。他人のために立派な奉仕活動をすることは、私たちの虚栄心を満たすにも都合がいいことだからです。イエス様が言っていることはそれとは違います。見返りを求めずに、心から喜んで自分の人生を他人のためにささげることができること、それがイエス様の教える生き方です。他人のために生きなければいけない、自分を犠牲にしなければいけないという義務感からそれをするのは、結局は苦しくて続かないでしょう。そうではなく、それを喜んでできるようになることが、イエス様が私たちに与えてくださっている恵みです。少しずつ読んでいきましょう。最初に30-34節です。

A. 相反するイエス様の思いと私たちの思い (30-34)

30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。31 それは、弟子たちに教えて、「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32 弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。道々、誰がいちばん偉いかと言い合っていたからである。

 最初に少しだけ触れておきたいのですが、ガリラヤという場所が登場するのは、マルコによる福音書の中ではここが最後です。ガリラヤはイエス様の故郷であり、カファルナウムはペトロの実家があった村です。ここを最後に、イエス様と弟子たちはエルサレムに向かっていきます。

 それはイエス様にとっては苦しみに近づいていくことを意味していましたが、弟子たちはそのことを全く理解できていませんでした。むしろ、弟子たちはいよいよイエス様がエルサレムで新しい王として君臨することになるという期待を膨らませていました。

 イエス様は今日の箇所を含めて、三回、自分の死と復活を予告しました。そしてその三回とも、弟子たちはイエス様の言葉の意味が理解できませんでした。数週間前に読んだ最初の予告では、ペトロが「そんなことはあってはいけません」と言ってイエス様に怒られました。今日読んでいる二回目の予告では、誰も口答えはしていませんが、誰も怖くて聞けなかったとあります。そして、怖くて分からないことはそのままにして、自分たちの関心事に気を取られています。「誰が一番偉いか」という議論は、イエス様が王になることへの期待と関係しています。イエス様が王になった時、誰がどんな地位を得られるのか、自分たちの中でランク付けしようとしていました。これは、もう少し後に出てくる、三度目のイエス様の死の予告の時も同じです。その場面では、弟子のヨハネとヤコブが自分たちを王座の左右に座らせてほしいと願い出ます。イエス様が三度自分の苦しみを予告しているのに対して、弟子たちは三度共、それを理解できず、自分たちの繁栄を期待していました。

 ここから分かるのは、イエス様の思いと私たち人間の思いというのが、いかにいつもかけ離れているかということです。イエス様は私たちのために苦しむ道を歩まれるのに対し、私たちは自分の繁栄を願って互いに競争します。イエス様は自分の命を私たちのために捧げてくださるのに対して、私たちは他人から奪ってでも自分の利益を得ようとします。

 でも、誰でも、自分の利益ばかり追求することが虚しくて不毛であるということにも、うすうす気づいています。イエス様に「何を論じ合っていたのか」と聞かれて弟子たちが黙ったのも、自分たちの議論がイエス様には嫌われるものだろうと分かっていたからです。それでもやめられないのが弟子たちであり、私たちです。多くの人は、自分の利益ばかりを求めていたらいけないことは分かっていて、どこかでバランスをとって生きています。でも、前提にあるのは、自分の成功や繁栄を求めることは正しいことだという考え方です。

 イエス様は、その考え方が根本から間違っているということを教えてくれました。続きを読んでいきます。短いですが、とても内容が濃いので、二つに分けて読みます。まず35節です。

 


B. イエス様の生き方

1. 自分のためではなく他人のために (35)

35 イエスは座って、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

 このイエス様の言葉は聖書の中にたくさん出てきます。ここでも「イエスは座って、十二人を呼び寄せて言われた」とあります。イエス様は、このことがとても大切なことなので、弟子たちに改めて教えたかったということです。でも、これは大切な教えですが、とても難しい教えでもあります。少し理解を助けるために、他の箇所も読んでみましょう。

 まず、ルカによる福音書22:26-27です。

(ルカ22:26-27) 26 …あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。27 食事の席に着く人と仕える者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、仕える者のようになっている。

食事の客と給仕係では、客の方が立場が上なのは当然だと、イエス様自身が認めています。サービスを受ける人と与える人では、受ける人の方が偉いと思われるのが当然です。でも、イエス様はそれを認めながらも、サービスを与える側になりなさい、その方が偉いと教えています。矛盾しているようですが矛盾しないのは、誰から見て偉いのかという視点が変わっているからです。人から見て偉いのか、神様から見て偉いのかの違いです。人に重んじられることを喜ぶのか、神様に喜ばれることを求めるのか、の違いとも言えます。
 それでは、なぜ神様は仕えられる人よりも仕える人を喜ばれるのでしょうか?そのヒントは、イエス様が言われた通り、イエス様ご自身が仕える方だったことにあります。今日の箇所の少し先にはこうあります。10:43-45です。

(マルコ10:43-45) 43 …あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、44 あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

イエス様はすべての人のために命を捧げました。それは、私たちすべての罪と苦しみを身代わりに負われたということでもあります。イエス様の人生は、私たちという他人のために、命をかけて仕える人生でした。それによって、イエス様は本当の愛と本当の人生の目的を教えてくれました。本当の愛とは、イエス様のように、自分の命よりも誰かを大切にすることです。そして、本当の人生の目的とは、その愛で互いに愛し合って生きることです。神様は、それを私たちに望んでいるので、私たちが仕えられることよりも仕えることを喜ばれます。聖書には「神は愛です」という言葉がありますが、その通り、愛が神様の性質です。神様は私たちにもその愛に生きてほしいと望まれています。
 でも、これを私たちが実践するのはとても難しいことです。神様の性質が自己犠牲を伴う本当の愛であるのに対して、私たち人間の性質は他人に犠牲を強いる自己愛だと言えます。この二つは相入れません。イエス様のように、他人のために自分を犠牲にする生き方は、私たちが元から持っている性質に反するのです。友人同士でも夫婦でも、自分の利益に害を及ぼさない間は仲良くできても、互いの利益がぶつかった途端に敵になってしまうこともあります。それは本当の友情でも愛情でもありません。でも、そういう関係が私たちの周りにはあふれているのが悲しい現実だと思います。私たちは、自分が持っているこの性質を知りながら、イエス様に神様の性質を教えてもらいました。実践するのはとても難しいですが、実践あるのみです。目指すべき方向は示されています。私たちにできることは、イエス様のように愛したいと願い続けることです。そうすれば、神様は私たちを少しずつ造り変えて、「仕えられることよりも仕えること」を喜べるようにしてくださいます。
 愛することには実践しかないということを、イエス様は弟子たちにも教えています。残りの36-37節を読みます。

 

2. 最も小さい者の必要を満たす (36-37, マタイ 25:31-46)

36 そして、一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた。37 「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 「このような子どもを受け入れなさい」と、イエス様は実際に一人の子どもを連れてきて弟子たちに語りました。弟子たちの目の前に、具体的に愛する対象を示したということです。一つ注意するべき点は、当時のユダヤ人の社会において、女性と子どもは数のうちにも入らない、見下された存在だったということです。夫か父親に付属する存在で、何の社会的地位もありませんでした。そういう子どもの一人をイエス様は連れてきて、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われたのです。その子どもと関わったところで、何のメリットもない、何の見返りも期待できない、ただ手間がかかるだけなのに、それをすることがイエス様を愛することでもあるということです。

 このことに関しては、もっと鮮やかに教えてくれる箇所があるのでそちらも読みたいと思います。マタイによる福音書の25章にあるイエス様のたとえ話です。一部だけを読みます。

(マタイ25:31-46) …37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』…44 すると、彼らも答える。『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よその人であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』

このたとえ話で重要なことは、誰も自分がイエス様と関わっていたと気が付いていなかった点です。最も小さな者たちを助けた人たちは、ただ目の前の人が困っているというだけで、見返りを求めずに助けました。そこには本当の愛があります。一方で、彼らを助けなかった人たちには、それがイエス様だと分かっていたなら助けていたのに、という後悔があります。それは偽善です。自分をよく思ってもらうためになら行動することはあっても、そうでなければ、つまりメリットがなければ行動しないというのは、本当の愛でありません。

 私たちは、それぞれの生きている世界の中で、イエス様の教えてくれた本当に愛に基づいて、具体的に行動することを求められています。イエス様を愛するということは、他人を愛するということです。それも、自分にとって何のメリットもない人たちと関わり、その人たちの必要を満たそうとすることです。最も小さい者とは、最も自分の役に立たないと思われる人、自分とは関係ないと思ってきたような人と言い換えられます。または、近すぎて、当たり前の存在になっている人でもあるかもしれません。その人たちの必要を満たすことが、立派な行いだからするのではなく、その人たちのことをイエス様は愛しておられると知っているから、私たちも愛します。イエス様が私たちに見返りを求めず、ただ愛して命を捧げてくださったように、私たちもその人たちに仕えます。仕えられることではなく仕えることを、それぞれの場所で始める時、イエス様の愛が実現していきます。そのために小さな役割を担うことが、私たちに与えられた生きる目的であり、喜びです。私たちの愛はとても小さくて乏しいですが、イエス様の愛が私たちを変えてくださり、私たちの周りの人たちに働くことを期待していきましょう。

 


メッセージのポイント

私たちは自分のために他人を利用しますが、イエス様は他人(私たち)のために自分を利用する方です。イエス様のように他人のために生きることは、私たち人間が元から持っている性質に反します。でも、私たちはイエス様を通して神様の性質は愛であるということを教えられました。私たちは、イエス様のように、自分の利益を求めずに他人の必要を満たすことを、喜びにできます。それがイエス様が私たちに与えてくださった新しい生き方です。

 

話し合いのために

1)「他人のために生きる」ことについてどう思いますか?
2) あなたにとって「最も小さい者」とは誰だと思いますか?

 

子供たちのために

「自分のためではなく他人のために生きなさい」ということは、道徳的な教えに陥りがちだと思います。ポイントは「そうしなければいけない」という義務感ではなく、イエス様を信じていると他人のために生きることを喜べるようになる、ということです。他の人に褒められることや尊敬されることよりも、イエス様が喜ばれることは何かを忘れないようにしてください。マタイ25章の方を読んでもいいかもしれません。他の人が気がつかなくても、自分自身でも気づいていなくても、神様はみんなの小さな優しさを大いに喜ばれているかもしれません。