エクレシア

 

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エクレシア

(1 コリント 1:2, 12:12-20, マルコ 3:31-35, マタイ 11:28-30)  

永原アンディ

 

 先週の日曜日に今年最初のハドルと私たちが呼んでいるユアチャーチのメンバーのミーティングが礼拝の後に開かれました。新しく加わった3人の方も参加されました。ハドルはもともとフットボールでワンプレーごとにチームが集まって次のプレーを確認する短い打ち合わせの事です。私たちは年4回、これを開いてユアチャーチの次のプレーを確認しています。ユアチャーチのメンバーとして神様を愛し、互いに愛し合い、この世界を愛そうとする決意だけがメンバーになる資格です。そしてこの三つの愛を追い求めることが教会の本質であり、存在する理由です。

 しかし多くの人にとって「教会」という言葉は誤解されています。多くの人といってもイエスを信じていない人々ではありません。イエスを信じる多くの人々が誤解しているのです。この誤解は、本来の教会を弱め、歪め、神様の意思とは異なる存在にしてしまっていると私は思います。皆さんは「教会とは何か?」という問いに自信を持って答えられるでしょうか?自信がないけど、今更聞けないという人が多いと思うので、今朝はこのことについてお話しします。ちょうど今年のメンバーになることを希望する人がカヴェナントを提出する時期なので、教会とはユアチャーチ とは何か?を確認してゆきましょう。

 

A. 教会とは何か?

1. よくある誤解

 始めに、「教会は〜ではない」ということからお話しします。最悪の誤解は教会は建物、礼拝する場所のことだという誤解です。教会が存在するために建物は便利です。ですが、目に見える場所そのものが教会ではありません。私に教会について大切なことを教えてくれた人は教会を始めた時、ビーチで礼拝していました。集まる場所が他に見つからなかったからです。その後は長く小学校の体育館を毎週借りて礼拝をしていました。土地を買い教会堂を建てる事は大きなエネルギーを必要とします。それが教会の目的になれば、それ以外の多くのことを犠牲にしなければなりません。また、目に見える建物を持った以上、それを維持することにも気を使います。イエスは、特定の場所を持たず、誰かの家や野原で人々と共に集まる自分と弟子たちを教会と呼びました(マタイ16:18, 18:17)。建物はヤドカリ(a hermit crab)の貝殻のようなものであって、教会ではないのです。

 もう一つの誤解は、礼拝や集会を行う組織だと考える誤解です。教会は牧師やリーダーといったスタッフがいて、それ以外の人は献金という維持費を払ってそれを楽しむ、困ったときにはカウンセリング、コーチングを無料か会員料金で受けられるサービスではありません。もしそのようなものなら、そこで求められるのはバラエティーに富んだプログラム、3分に一回は笑わせ、10分に一回は泣かせてくれるメッセージなのでしょうが、それも教会ではないのです。

 現代語訳の church/教会 も誤解の一因です。日本語の「教会」(教わる会)はキリスト教や聖書の勉強が目的と誤解されやすい訳です。Church の語源は主の家 House of Lord、礼拝するための家 House of Worship と言われています。それは、建物や礼拝というプログラムにが注目されやすい言葉です。実際、アメリカの教会はよく歌う、韓国の教会はよく祈る、日本の教会はよく勉強する教会だと言われます。どれも大切な事ですが、教会の本質ではないのです。

 

2. エクレシア(1コリント1:2)

 それでは教会とは何なのでしょうか?その答えのヒントは、私たちが教会 (Church) と訳して使っているイエスの言葉にあります。先に紹介したマタイによる福音書の中の二箇所です。イエスは、弟子たちを私の“エクレシア”と呼びかけました。エクレシアはもともとギリシャ市民の代表が集まる会議に用いられていた言葉です。原意は、「呼び出されて集められた者たちの集まり(a called-out assembly)」です。イエスは、これを教会の本質を表す言葉としてふさわしいと考え、建物も規則もなく、あちこちを移動し、色々なところで教えたり、癒したり、人々の飲み会にも参加する怪しい集団をそう呼んだのです。中には兄弟で従った者たちもいましたが、多くは背景の全く異なる様々な人々が、神様を愛し、互いに愛し合い、世界を、人々を愛するために、イエスに呼び出され集められたのです。それが教会です。

 イエスの働きを委ねられた弟子たちも教会の意味をよく理解していました。それを示しているのが、パウロがコリントに住む人々に宛てた手紙の最初の挨拶です。

(1コリント 1:2)「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。」 

教会とは、世界中に存在する、イエス・キリストによって呼び出され、イエス・キリストに従い、イエスとともに生きる人々とそのネットワークのことなのです。

 


B. ユアチャーチ とは何か? 

1. 世界に広がる大きな教会の一つの部分(1コリント12:12-20)

世界中に教会はいくつ存在するでしょう?それには二つの答えが存在します。一つは日曜日にともに礼拝するグループの数で、正確な数字は確認できませんが、日本には約8500くらいあります。この町田市なら40弱です。でももう一つの答えははっきりしています。イエスの時代から今まで、そしてこれからも変わりません。その答えは「一つ」です。 コリント人への第一の手紙にはこう書かれています。

(1コリ 12:12-20) 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるでしょう。しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。

教会はキリストの体とも表現されますが、頭であるイエスが一人なのですから、体がいくつもあるわけはないのです。教会には様々なグループがあって色々違いがありますが、一つの体の一部なのです。人間の体のそれぞれの部分を考えれば、ここに書かれているように違って当然、むしろ違っていなければ具合が悪いのです。 ユアチャーチはその体の一つの器官であり、一人一人はその器官の部分なのです。そしてこの同じ器官の中でも、一人一人は、それぞれ異なる部分であり、違っていて良いのです。相手のことが、自分と違いすぎて理解できなくても、ともに一つの体の一つの器官の部分なのです。

 

2. 大きな家族(マルコ3:31、マタイ11:28-30) 

 それでは、イエスの一つの体の中でユアチャーチがどのような器官なのか、イエスの二つの言葉から考えていきたいと思います。一つはマルコによる福音書3:31-35です。

イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。時に、群衆がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 イエスはここで実の母親、兄弟姉妹を否定したのではありません。 イエスが言いたかったのは、イエスにとって、彼に従う者たちがどのような存在なのかということでした。

 家族、家庭の形はいろいろです。様々な理由で、家族とともに歩んでいない、歩むことのできない人もいます。 キリスト教の理想的な家族像を、男性である一人の夫の権威のもとに従順な妻である女性とその間に生まれる多くの子供たちに見るのは大きな誤解です。そのような人は旧約時代のユダヤ教社会を理想にしているに過ぎません。旧約の読み方を間違っているのです。旧約は新約の土台のようなものですが、旧約はイエスの視点、つまり新約のフィルターを通してでなければ正しく読むことはできません。そうでなければキリスト教である理由は無くなってしまいます。ここの書かれている群集とは、旧約の社会の中で、除け者にされていた人々、汚れているとされた人々、罪人と裁かれていた人々です。イエスなら助けてもらえるかもしれないと思って、そこに集まってきていた人々です。イエスは、その彼らに向かって 「あなたがたはわたしのお母さん、お父さん、兄、姉、弟、妹なんだよ!」と呼びかけたのです。この大きな家族は血縁関係ではなく、イエスの意思に倣って生きて行こうとするから、イエスの家族なのです。イエスに呼び出されて、私たちは家族とされたのです。ユアチャーチの存在が許されているのは、ユアチャーチがイエスの意思を行おうとしているからです。それを一言で言うなら愛するということ。もう少し言葉を足すなら、神様を愛し、互いに愛し合い、人々・世界を愛するということ。つまり私たちのカヴェナントの内容そのものです。 皆さんは、神であるイエスキリストが主人である家族の一員なのです。ここでは血縁の家族同様、あるいはそれ以上に、小さな者、弱い者、困難を背負った者が、強いもの、成長した者、富んだ者によって守られるべきです。誰もが必要な助けを受け、癒され、成長し、与える者、癒すものとされるのです。しかしそれは決して世の中の基準による強さ、能力によるのではありません。聖霊に満たされることによってできることです。 イエスは、人を招くのに次のように言われました。

(マタイ11:28-30) すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。 

 イエスのもとに来れば、癒され、強くされるのです。しかしその先があります。子供たちが、その成長に従って、親の手伝いができるようになるように、イエスの仕事を担いつつ、イエスに学び、愛の働きに参加するのです。しかし、間違えないでください。それぞれが、出来ることも、その量も、スピードも皆違います。荷が重いと思うなら、それはイエスが求めている働きではありませんから、潰れてしまう前にやめるべきです。私たちに与えられている働きは、魂に重荷を負わせるものではなく、魂に安らぎを与えられるものなのです。 ユアチャーチがそのような家族の特徴を失わず、さらに愛することにおいて成長することを、期待して祈ってゆきましょう。

 


メッセージのポイント

教会とは呼び集められた者のコミュニティーです。ともに主イエスキリストを愛し、互いに愛し合い、神様が作られた世界を愛するために存在します。建物でも、その建物で行われるイベントでも、聖書の勉強会でもなく、私たち一人一人の存在全体がユアチャーチであり、ユアチャーチ は、イエスを頭とするキリストの体(教会)の一部分です。

話し合いのために
  1. 教会とは何ですか?
  2. ユアチャーチは何のために存在しているのでしょうか?
子供たちのために

コリント12章を読んで世界の唯一の教会とユアチャーチの関係、ユアチャーチと一人ひとりの関係を伝えてください。またマルコ3:31-35を読んで、ユアチャーチ が大きな家族のような者であることを伝えてください。子供たちは、それぞれの家庭の子供であると同時に、イエス様の教会という大きな家族の子供であって、年の違うお兄さん、お姉さん、弟、妹がいること。実際の家族がいない人も、ユアチャーチでは、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、兄弟姉妹がいる恵みを伝えてください。