心にイエス様をお迎えしよう

 

❖ 見る

第1礼拝(日本語)

第2礼拝(日本語・英語)


❖ 聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語/英語)


❖ 読む

心にイエス様をお迎えしよう

(マルコ 11:1-11, ゼカリヤ 9:9-10)  

池田真理

 教会のカレンダーでは、先週の水曜日から受難節(レント)が始まっています。イースターの前の40日間(日曜日を入れると46日間)で、イエス様の受けた苦しみを思って、昔は断食をする習慣がありました。私たちが読んできたマルコによる福音書でも、ちょうど今日からイエス様の最後の7日間が始まります。と言っても、マルコはこの7日間の記録に全体の三分の一を割いており、とてもイースターまでに読み終えることはできません。イースターが終わっても、ゆっくり読んでいきたいと思っています。今日は、ふだんはイースターの1週間前のしゅろの日曜日に読まれるテキストです。イエス様がエルサレムに入る場面です。最初に1-7節を読みます。

 

A. イエス様が私たちに与えたいと願われている喜び  (1-7, ゼカリヤ9:9-10)

 

1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3 もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばがつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5 すると、そこに居合わせた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7 二人が子ろばをイエスのところに連れて来て、その上に自分の上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。

 最初に地名が出て来ます。オリーブ山、ベトファゲ、ベタニア、すべてエルサレムに徒歩で1時間以内で行ける範囲内にあります。イエス様と弟子たちは、これからエルサレムに到着してからも、エルサレムの中に滞在するのではなく、夜はベタニアという村で過ごしました。エルサレムから約3キロの村だったそうです。ベトファゲはさらにエルサレムに近く、エルサレムから1キロの位置にあり、オリーブ山の上の方にあった村だと言われています。
 ここでイエス様は不思議なことを弟子たちに命じています。村に先に行って、そこにいる子ろばを連れて来なさいと命じています。それは、ご自分がその子ろばに乗ってエルサレムに入るためでした。これまでイエス様はどこへでもご自分の足で旅をして来て、乗り物を要求したことはありません。わざわざ子ろばを探して来て、しかも誰も乗ったことのない子ろばという注文をつけ、それに乗って都に入るというのは、イエス様らしくない、不自然なパフォーマンスのように思えます。でも、イエス様にははっきりと意図がありました。それは、旧約聖書の預言の成就です。旧約聖書ゼカリヤ書の9章9-10節にこうあります。

9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。10 私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る。

マルコはこのゼカリヤの預言にふれていませんが、マタイやヨハネはこの預言を引用して、イエス様の行動はこの預言が成就するためだったという説明を付け加えています。イエス様は確かにこの預言を意識していました。

 ゼカリヤの預言は、「喜べ!」から始まります。「エルサレムよ、喜べ!なぜなら、あなたの王があなたのところにやってくるから」とあります。これが、今日、私たちが一番心に留めたい言葉です。イエス様を自分の王様として、私たちの心にお迎えするなら、私たちの心には大きな喜びが与えられます。

 なぜなら、イエス様は世界で一番いい王様だからです。普通、戦場では王様の命を守るために多くの兵士を犠牲にするのは仕方ないと思われますが、イエス様はその正反対です。王様でありながら、全ての兵士を守るために、自分の命を献げる方です。自分が苦しんで兵士が助かるならそれでいいと思える王様は、人間にはなかなかいません。しかも、その兵士たちは王様のことを慕っているわけでもなく、お互いに争いが絶えないような者たちです。時には自分が王様の座を狙っていることさえあります。そんな者たちのために、なぜ王様が命を献げなければいけないのでしょうか?そんなことをする王様は愚かだと思われるかもしれません。でも、イエス様はそういう王様です。私たちがイエス様のことをどう思っていようと、私たち全てを愛している方です。そして、私たちが争いの中で死んでしまうことなく、生きていくことを望まれます。そのことを証明するために、イエス様は十字架で死なれました。それによって、私たちがイエス様の愛の大きさに気が付き、イエス様に代わる良い王様はいないと知るためです。

 さらにイエス様は、私たちがイエス様の治める国に住むことを望まれています。イエス様が望むのは、私たちが戦場で戦い続けることではありません。私たちがその戦いに意味がないことを知り、イエス様の国に戻ってくることを望まれます。良い王様の治める国に住む人たちは幸せです。王様に大事にされ、王様を信頼しています。それと同じで、私たちはイエス様という良い王様の国で生きることができます。心にイエス様を王様としてお迎えして、イエス様に愛されていることを喜びながら、イエス様のことを信頼して歩むことができます。それが、イエス様が私たちに与えたいと願われている喜びです。

 でも、私たちはこのイエス様の願いに気がつかなかったり、忘れてしまうことがよく起こります。マルコの続きに戻ります。8-10節です。

 


B. イエス様を悲しませる私たち

1. 私たちは自分たちの王国を求める (8-10)

 8 多くの人が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高き所にホサナ。」

 この場面はよく、人々がイエス様のことを称えて喜んで迎えている明るい場面として描かれます。確かに、人々が道に上着を敷いたり枝を敷いたり、「ホサナ」と声を上げたのは、イエス様に新しい王様になってくれることを期待していたからです。でも、人々が望んだ王様というのは、自分たちにとって都合の良い王様でしかありませんでした。10節に「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」とあります。この言葉からは、人々がユダヤ人という民族の王様を求めていたことが分かります。ローマから自分たちを解放してくれる政治的・軍事的リーダーとしての王様です。また、それを達成してくれる人が、神様が送ってくださる救い主だという宗教的期待もあります。人々は、自分たちの民族の繁栄を願い、イエス様が異民族を排除して、自分たちの王国を立ててくださることを期待していました。

 私たちは、自分と彼らが無関係だとは言えません。私たちは、イエス様に何を求めているのでしょうか?自分の心に聞いてみて、それがイエス様ご自身以外であれば、私たちはイエス様を本当に自分の王様として迎えていることにはなりません。イエス様の時代のユダヤ民族の人々にとって、ローマの支配からの解放を願うことは、自然なことで、倫理的に何も間違っていません。でも、その願いを達成してくれる人としてイエス様を求めるのは間違っています。その願いを叶えてくれれば、イエス様でも誰でも良いということになるからです。どんなに熱狂的にイエス様を歓迎しても、自分の願いを叶えてくれる人としてしかイエス様を見ていないなら、それは本当にイエス様を歓迎していることにはなりません。私たちは様々な願いをイエス様に打ち明けますが、その願いが叶うかどうかにばかり気を取られていると、いつの間にかイエス様を都合よく利用しようとしていることになります。それは結局、自分が自分の王様になっているのと同じです。心の中の王座には、イエス様ではなく私たち自身が座っており、イエス様は私たちに助言を与えてくれる大臣くらいでしかありません。そんな私たちの心の中には、イエス様の居場所はありません。最後の11節を読みます。

 

2. 私たちの内にイエス様の居場所がない (11) 

11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入られた。そして、周囲を一瞥した後、すでに夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 この一文はマルコにしかなく、マタイ・ルカ・ヨハネにはありません。イエス様は大勢の人に歓迎されたはずなのに、この終わり方はあまりにあっけないものです。エルサレムに入り、神殿に入ったイエス様は、何もしないで出て行ってしまいました。来週この続きの箇所を読んでいきますが、そこで分かるのは、イエス様が神殿の中の様子を見て、非常に悲しまれ、憤られていたということです。それに、イエス様を歓迎したはずの群衆はいつの間にか解散してしまったようです。イエス様は興奮の中で迎えられましたが、エルサレムの中にも、神殿の中にも、イエス様の居場所はありませんでした。だから、あたりを見回して、「もう夕方になったから帰ろう」と、弟子たちと出て行ってしまいました。イエス様は、人々があまりに自分のことを理解していないことに、虚しさと悲しみを感じられたのだと思います。マルコはおそらく、人々の興奮とイエス様の孤独というギャップを、忘れずに記録しておきたかったのだと思います。

 私たちが、自分の勝手な期待をイエス様にかけて、自分が自分の王様である限り、私たちの心にイエス様の居場所はありません。イエス様は私たちがイエス様を利用しようとしているのに気が付き、悲しまれます。そんな時でもイエス様が私たちのことを見放すことはなく、私たちの心から出て行ってしまうことはありませんが、私たちの方でイエス様を追い出しています。

 最後に、前半に読んだゼカリヤの言葉をもう一度読みます。

9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。10 私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る。

イエス様は私たちの戦いを終わらせ、平和をもたらす方です。でも、戦車や軍馬に乗ってくるのなく、子ろばに乗って来られます。それは一見スピードが遅すぎて、何の力もないように思える姿かもしれません。それでも、それがイエス様のやり方で、愛によって世界を変える方法です。今、私たちの心にも、イエス様が同じように近づいておられることを感じてください。良い王様を、心にお迎えしてください。そして、愛されている喜び、本当に信頼できる方を知っている喜びを味わってください。

 


メッセージのポイント

イエス様は私たちを愛して命を捧げてくださる王様です。イエス様と愛し合う関係の中に、私たちの本当の喜びと平和があります。でも、私たちはイエス様を愛さずに自分ばかり愛して自分の繁栄を求めます。そんなとき、私たちの内にはイエス様の居場所はありません。自分が自分の王様であることをやめて、イエス様を自分の新しい王様として心にお迎えしましょう。

話し合いのために
  1. なぜイエス様は子ろばにこだわったのでしょうか?
  2. イエス様がくださる喜びとは?あなたはそれを実感していますか?
子供たちのために

この場面はしゅろの日曜日に読まれるお話で、よく、人々がイエス様のことを喜んで歓迎する場面として描かれます。それは確かにそうだったのですが、人々のイエス様に対する期待は自分勝手なもので、長続きしませんでした。子どもたちはイエス様にどんなことを求めたり期待したりしているでしょうか?イエス様にはなんでも打ち明けて願っていいのですが、イエス様が一番喜ばれるのは、みんながイエス様ご自身を信頼して好きでいることです。みんなの願いが叶っても叶わなくても、イエス様がみんなを愛していることには変わりありません。