イエス様によって実を結ぶ

 

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イエス様によって実を結ぶ

(マルコ 11:12-25)  

池田真理

 今日は聖書の中で唯一、イエス様が破壊的な奇跡を行うお話を読んでいきます。最初は少し戸惑うのですが、全体を読んでいくとイエス様の意図が分かります。まず、12-14節です。

 

A. イエス様が憤ること

 

1.実をつけないこと (12-14, ミカ 7:1-2)

12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

 この後読みますが、このいちじくの木はこの後、根まで枯れてしまいます。とても理不尽で不可解なイエス様の行動ですが、旧約聖書の背景を知るとイエス様の意図が見えてきます。例の一つとして、ミカ書の7:1-2を読みます。

1 なんと悲しいことか。私は夏の果物を集める者のように/ぶどうの摘み残しの実を集める者のようになってしまった。食べられるぶどうの房はなく/私が好む初なりのいちじくもない。 2 忠実な人はこの地から絶え/正しい者は人々の中にはいなくなってしまった。誰もが皆、血を流そうと待ち伏せして/互いに網で捕らえようとする。

他にも何人かの旧約聖書の預言者たちが、神様を忘れてしまったイスラエルの人々のことを嘆いて、実をつけないぶどうやいちじくにたとえています。実をつけないいちじくは、旧約聖書の時代から、神様のことを理解せず、求めず、裏切ってきた人々を象徴するものだったということです。

 だからと言って、イエス様の目の前のいちじくの木には罪はなく、枯らしてしまうのはひどいとも思えます。でも、イエス様はここで、その場にいた弟子たちと、これを読んでいる私たちに、神様の正義を教えようとしています。神様は、私たち人間の悪を放っておくことはなく、罪を罪として裁かれる方です。私たちの間違いを嘆き、憤り、そのままにしておくことはありません。今日の箇所はヨハネによる福音書の15章ととても内容が重なるのですが、そこにはこうあります。

1 私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。 2 私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。…6 私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれしまう。

このようにイエス様は、とても厳しくはっきりと、実を結ばない木は切り捨てられるということを教えています。イエス様は、私たちが実を結ばないことを憤り、許さないということです。それが神様の正義です。

 これを聞くと、私たちはみんな、自分は実を結んでいるのだろうか、実を結べなくて枯らされて切られて火に投げ入れられてしまうんじゃないかと不安になります。でもそれは、イエス様が望む実とは何かということを考えると、そんなに不安になる必要はないことがわかると思います。そのことは一番最後にお話しします。ただ、旧約聖書の時代から現代に至るまで、私たち人間が繰り返し神様のことを忘れて、神様を嘆かせ、憤らせてきたことは事実です。教会の歴史も、内部の腐敗を何度も聖霊様によって改革されてきた歴史です。今でも、私たちは実を結ばない危険性を持っており、イエス様によって新しくされ続ける必要があります。続きからもそれが分かります。15-19節に進みます。

 

2. 見せかけだけの偽りの礼拝 15-19)

15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の/祈りの家と呼ばれる。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに心を打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

 ここでのイエス様は非常に強引で一方的で、暴力的ですらあります。ここにもイエス様の怒りが表れています。イエス様が怒ったのは、人々が見せかけだけの偽りの礼拝をしていたからです。神殿には、人々が毎日のように動物の犠牲を献げ、神殿税を収めるためにやってきていました。犠牲にする動物には非常に細かい決まりがあり、境内で売られている動物ならその決まりを守った上で売られていたので、多くの人々は境内でそれを調達していました。また、神殿税も外国のお金ではいけないという決まりがあったので、境内には多くの両替商がいました。そういう細かい決まりをチェックするのが律法学者たちであり、神殿で利益を得ているのは祭司たちでした。そして、多くの人々が、動物犠牲と神殿税さえきちんと行っていれば、自分は正しいと認められると勘違いしていました。祭司たちも律法学者たちも人々も、神殿での礼拝行為を自分に都合の良いように利用しているだけだったのです。イエス様は、その全てをやめさせようとしました。

 ここで立ち止まって考える必要があることがあります。それは、イエス様は自分の命を犠牲として献げることによって、全ての動物犠牲を終わらせたということです。イエス様は、暴力的に神殿の境内の人々を追い出しただけでなく、究極的には神殿の意味そのものもなくされました。そして、神様が求めるのは動物の犠牲よりも、私たち自身の心だということを教えられました。イエス様がご自分の命を私たちのために献げられたように、私たちもそれに応えて、自分の心と人生をイエス様に献げることが、神様が私たちに求めている犠牲です。それが、見せかけだけではない、本当の礼拝とも言えます。

 本当の礼拝とは、一人ひとりが自分の心を神様に向けて心から神様を求めることです。一人ひとりが本当に礼拝しているかどうかは、神様にしか分かりません。でも、目に見えないことは頼りないので、私たちはどうしても目に見える行いの良さに頼ってしまう傾向を持っています。目に見える行いは、人と比べることもできます。毎週教会に来ているかどうか、教会でどんな役割を担っているか、いくら献金しているか、そういうことで信仰の熱心さや礼拝の本気度をはかることは分かりやすいです。ユアチャーチではそういうことは重要ではなく、むしろ危険だと考えていますが、ユアチャーチでも、いくらでも中身のない形だけの礼拝に陥る危険性はあります。神様が求めるのは、打ち砕かれ悔いる心です。一人ひとりが自分と神様の関係を最優先して、自分の行動よりも心の状態(向き)に気を付けている必要があります。先週のイエス様を熱心に歓迎した群衆のように、どんなに熱心に礼拝をしているつもりでも、私たちの心はイエス様以外の何かを求めていることが起こります。だから、イエス様と一対一で対話し祈る時間を持つこと、ワーシップを通して神様と対話することが、私たちにとって何よりも大切なことです。

 それでは、私たちが自分の心をイエス様に集中するとは具体的にどういうことなのでしょうか?そのことを、イエス様が続きで説明してくれています。それは3つあります。信仰と希望と愛です。まず信仰について、20-23節です。

 


B. イエス様が求めること

 

1. 神様を少しも疑わずに信じること<信仰> (20-23)

20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」22 イエスは言われた。「神を信じなさい。23 よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

 注目したいのは、22-23節のイエス様の言葉です。心の中で少しも疑わずに神様を信じるなら、山をも動かすことができる、と言われています。山を動かすことができるというのは比喩的表現で、不可能と思われることも可能にするということです。心の中で一点の迷いもなく神様を信じるということは、とても難しいことです。私たちは誰でも、迷いは消えたと思った次の瞬間には恐れや不安がやってきて、でもやはりイエス様を信じようと決心することを繰り返します。でも、それが信仰です。迷いの中でも信じると決心するということです。なぜ神様を信じて大丈夫なのか、その理由はイエス様の十字架にしかありません。神様は確かにおられ、私たちを愛していて、必ず良いことをしてくださる方だと信じられる理由は、イエス様が私たちのために命を犠牲にされたからです。イエス様を通して、神様は信頼するに足る方だと知り、信じることが、信仰です。その信仰によって、私たちは山をも動かします。私たちには到底不可能と思われることでも、神様には可能なんだということを経験するということです。それは、一人ひとりがイエス様に集中して、自分の迷いを神様に打ち明け、対話する中で与えられる経験です。だから、私たちの信仰は希望を生みます。次の24節です。

 

2. 祈り求めること<希望> (24) 

24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 私たちは、自分の心をイエス様に集中して、願いを打ち明け、神様を信じます。そのとき、たとえ現実の状況は何も変わっていなくても、私たちには希望が与えられます。神様は確かに私たちの祈りを聞いておられ、すぐにではなくても、神様の良いと思われる時に最も良いことをしてくださるのだと、私たちは信じることができます。

 今、コロナウィルスの不安が世界中に広まっています。早くこの状況が収束するように、私たちは神様に祈り求めていますが、収束の兆しは見えていません。私たちにできることは、周囲の不安に煽られずに、神様に祈り求め続けることです。祈り求める中で、冷静さをいただき、必ず収束する時が来ることを確信しましょう。そして、感染拡大防止に努めている専門家や政府の担当者たちに、神様が知恵と力を注いで導いてくださるように、求めましょう。デマも飛び交っていますが、イエス様は「明日のことを思い煩ってはいけない」と言われました。なぜなら、神様は私たちに必要なものをご存知だからです。

 そして、今週は3.11の大震災から9年を迎えます。大切な人や町を失った人たちの悲しみは計り知れず、何年経っても消えることはないと思います。それでも、祈りには希望を生む力があります。たとえ取り消されることのない悲しみを心に抱えていても、そして神様に「なぜですか」と聞いても一生答えが分からなくても、イエス様の愛が変わることはありません。イエス様は、突然命を落とした人たちの悲しみも、大切な人を失った人の悲しみも、知っています。だから、イエス様によって希望を取り戻す人が少しでも増えるように、願い求め、自分の周りから始めましょう。

 それでは最後に25節です。

 

3. 他の人を赦すこと<愛> (25)

25 また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

 この最後の1節は、これまでの流れからは少し唐突な印象があります。信じて祈ることについて話していたはずなのに、急に他の人との関係に話が変わります。これは、イエス様が私たち人間の性質をよく知っておられたからとしか言いようがありません。私たちは、自己中心的な性質を祈りの中でも発揮してしまいます。自分が傷つけられたり、不当な扱いを受けたと感じていると、当然神様は自分の味方になってくれて、間違っている人を正してほしいと願ってしまいます。自分が正しくて、相手は間違っていると、当然思ってしまいます。でも、たとえ事実がそうだとしても、神様が全ての人を愛していることに変わりはありません。イエス様が十字架で教えてくださった愛は、自分を憎む者や苦しめる者も許す愛です。私たちの怒りや憎しみはそう簡単に消える感情ではなく、傷が深ければ深いほど難しいと思います。それでも、イエス様と出会って、イエス様に愛されている確信をもらい、少しずつ傷が癒されることで、誰かに対して持っていた恨みを手離すことができます。そして、最初は感情が伴わなかったとしても、その人のことを赦すと決めることができます。
 このように、私たちがイエス様に向けて自分の心を集中するとき、信仰と希望と愛という実を結びます。反対に言えば、私たちがイエス様とつながっていなければ、信仰も希望も愛も与えられません。最後にこのことを少しだけ付け加えたいと思います。

 


C. 愛という実を実らせよう (1コリント13章、ヨハネ15章)

 今日最初に、イエス様は実をつけない木を許さず、切り捨ててしまうということをお話ししました。でも、お話ししてきたように、私たちは誰も、自分で実をつけることはできません。行いによってではなく、自分の心の向きを変えて、イエス様に心を集中することによって、初めて、私たちに信仰と希望と愛という実を与えられます。ヨハネによる福音書15章でイエス様ご自身がこう言われています。

4 私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。5 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。

私たちは、自分が実をつけているのかどうか心配する必要はありません。心配する必要があるのは、自分の心が本当にイエス様とつながっているかどうかだけです。そこが大丈夫であれば、私たちは自分で実をつけるのではなく、神様によって手入れされ、豊かな実を与えられます。そして、その中でも最も大きな実は愛です。1コリント13章でパウロがこう言っています。

2 たとえ私が、…山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。…13信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。 

イエス様から愛をいただいて、自分もイエス様に愛する心を捧げること、そして周りの人と愛し合うこと、これに勝る実はありません。イエス様にしっかりつながっていましょう。そして、イエス様によって栄養をもらい、成長して、手入れされて、豊かな実を結びましょう。

 


メッセージのポイント

私たちは、どうしても神様を求めるよりも他人からの評価を求めてしまい、自分の心の状態よりも行いの良さを気にしてしまいます。イエス様は、そんな生き方は虚しく、本当はもっと豊かな実を結ぶ人生を歩むことができると教えるために、この世界に来られました。十字架で死なれたイエス様の愛を受け取って、イエス様を愛し、人を愛して生きる生き方です。

話し合いのために
  1. いちじくの木や神殿に対して、なぜイエス様はこんなに怒ったのでしょうか?
  2. 愛するという実を豊かに結ぶために、私たちには何ができる(できない)のでしょうか?
子供たちのために

(子供のミニチャーチはお休みですが、それぞれのご家庭で子供たちと話すとしたら、「イエス様によって実を結ぶって、どういう実のこと?」と話してみてください。聖書を読むとしたら、マルコは難しいのでヨハネ15章や1コリント13章を読んでもいいかもしれません。)