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神様はウイルスも創造したの?
(創世記 1:27-31, マタイ 6:19-21, イザヤ 55:2)
永原アンディ
私たちは今、経験したことのない危機に直面しています。 しかし、人類は今回とは比較にならないほど恐ろしいパンデミックを何回か経験しています。14世紀のペストでは当時のヨーロッパの人口の約1/3が失われました。16世紀にはコロンブスによって南北アメリカ大陸にもたらされた天然痘によって先住民の人口は約1/10になってしまいました。19世紀から20世紀にかけてはコレラ菌、HIVが多くの人の命を奪いました。そして人類は、それら一つ一つを克服してきました。 しかし、なぜこのようなことが起こるのか?神様はこの様子をどう思っておられるのか?皆さんの心には、不安と疑問と、もしかしたら神様に対する憤りが生まれているのではないでしょうか?この事について、創造の物語と、イエスの言葉と、イザヤの預言を手がかりに考えてゆきましょう。 始めに今日のメインのテキストとして創世記1:27-31を読みましょう。
神は人を自分のかたちに創造された。 男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」 神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それがあなたたちの食物となる。 また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」 そのようになった。 神は造ったすべてのものを御覧になった。 それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(創世記 1:27-31)
A. 素朴な疑問
1. なぜ神様は疫病(災害、事故、犯罪)が起こる事を許すのか?
「なぜ神様はこんな事が起こる事を許すのか?」 という声が聞こえてきます。神は造ったすべてのもの見て極めて良かったと満足されました。その中にウイルスも入っているのでしょうか?実は普段から私たちはそのようなことを考えます。なぜゴキブリを、蚊を、毒キノコを創ったのか? 生物だけではありません。なぜ自然災害を、事故を、犯罪が起こるのか? 神様は何か目的があって、自分のかたちに作った人間の命を奪うのでしょうか?何かの罰?仕返し?決してそうではないということをお話していきます。 また自然災害であっても人の営みが関連していないわけではありません。海辺や火山の近く、また山の斜面を削って町を作ったのは人間です。
2. 神様の計画とはどのようなものなのか?
また、こうも聞かれます。 「これも神様の計画なのでしょうか?」 という問いです。 クリスチャンがよく使う 「神様の計画」 という言葉ですが、どうも大きな誤解があるようです。神様はこの世の初めから終わりまで細部にわたる計画書を持っておられるわけではありません。旧約聖書の中では、その出来事を「神様の計画」と表現されている箇所が13節あります。しかし新約聖書では、その用法がすっかり変わっています。まず、福音書には「神様の計画」という表現は全くありません。つまりイエスが「神様の計画」という言葉を使ったという記録もないという事です。ところが、使徒言行録から黙示録までに27箇所、「神の計画」という言葉が使われていますが、そのほとんどが「イエス・キリストの十字架の救い」を指して用いられているのです。
B. 私たちが知っている事
自分に似せて作った人間に 「地を従わせ、あらゆる生き物を治めよ。」 と神様は命じました。私たちは、神様から大きな権限、責任を与えられたのです。神様は人類の登場までの全てをお造りになり、最後に造った人間に、この世界の管理を委託されたのです。このことが二つの素朴な疑問へのヒントです。
1. 私たちは神様ではない
私たちは、神様に似たものとして創られた被造物ですが、神様ではありません。決定的な違いは「限界がある」 ということです。 神様のように深く、広く、見通す力がありません。病気や不慮の事故に遭わなかったとしても長くても100年ほどしか、この世界にいる事はできません。 ここに書かれている事は、神様がそのような人間に、ご自分が創られた世界を治めさせようと決めたという事です。 なんという大きな権限を与えられたのでしょうか?世界は作りました、さああとはあなた方の番です。そう言われた途端、アダムとエヴァは自分のポジションを勘違いしてしまいます。自分をマネージャーではなくではなくオーナーと考えるという勘違いです。マネージャーであれば、オーナーである神様の大切な人々、動物、植物、自然をもっと注意深く治めることもできたでしょう。しかし、何に対してもオーナー感覚でしてしまう。自分中心、すべては自分のために。これこそが私たちの罪と呼ばれる性質です。神様はよくこんな者たちに委託したものです。 しかし委託された以上、なんとかやっていくほかありません。神様は忍耐深く、成り行きを見守り、様々なピンチを乗り越え、今また、私たちはまた新しい世界的なピンチを迎えています。
2. 世を治めることを神様に委ねられている
委ねたという事は神様は細部にわたる計画通りに私たちを行動させるのではなく、自分の意思で責任を果たすことを望まれたということです。 実際私たちは、神様が与えてくださった一つの前提を守ってはいません。 後半の部分を見てください。
神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それがあなたたちの食物となる。 また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」 そのようになった。 神は造ったすべてのものを御覧になった。 それは極めて良かった。
神様の最初の想定は、草とその実、また木になる実が私たちの食物でした。他の動物には青草が食物として与えられたとあります。私たちはビーガンになるべきなのでしょうか?いえ「なるべき」なのではなく、ヴィーガンだったのです。 しかしそれは楽園を追放される前のアダムとエヴァだけでした。レビ記には厳しい食物規定がありましたが、神様の最初の方針に比べれば神様はものすごく妥協されています。イエスもガリラヤ湖の魚を食べましたから、彼もヴィーガンどころかヴェジタリアンでもありませんでした。神様は人類が食生活を変えることを認められましたが、その代償は大きかったのです。 その一つが病気をもたらすウイルスの感染です。ウイルスは変化が激しく、もちろん新型コロナウイルスはアダムとエヴァの時も旧約の時代も、イエスの時代にもありませんでした。しかし多くのウイルスが、動物にとっても植物でもその健康を維持するためにまた地球の生態系を保つために必要な被造物ではあったのです。 しかし人が動物を食べるようになると本来なら感染するはずのない動物由来のウイルスに感染するということが起こり始めます。例えばブタさんは人のウイルスも、鳥のウイルスも感染しやすいので、体内で両方の遺伝子が混じり合うことによって新しいウイルスができてしまいました。これが2009年に発生した新型インフルエンザ(A/H1N1型)です。神様がというよりは、人が作ったと言ったほうがよさそうです。
C. 死ぬことではなく生きることで悩もう
1. 魂にとってはこの世が全てではない
「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイによる福音書 6:19-21)
自分の命の長さを決めることも、どのような死に方をするかも自分で決める事はできません。もちろん永遠にこの肉体のままで生きる事はできません。それが死の恐れを生みます。私たちは死の恐れから、完全に逃れることはできません。しかし、イエスの十字架によって死は命に打ち負かされたことは事実です。私たちは、本当は恐れなくてもよいものを恐れているのです。罪が赦されていても、その性質が残っているように、死への恐れは、閉じた目にも見える残像のように心に残っています。神様と同様に永遠についての知識があれば死を恐る事はないのですが、私たちにはその知識はありません。この事についてはただイエスを信頼するしかないのです。私たちは例外なく、いつかこの世界からいなくなります。では、死は誰にでも平等にやってくると言えるでしょうか?人間の感覚としては、そうは思えないのではないでしょうか? 自然災害、事故、犯罪、病気による死は小さな子供にも起こります。親の悲しみは計り知れません。親をそれらの原因で亡くした子供の悲しみも同じです。 「そのことさえ起こらなければ、他の多くの人々と同様にもっと長く生きられたのに」「まだ子供なのに」「働き盛りだったのに」と私たちは考えます。死が全てを失うことであるなら、この肉体を持って生きることが人生の全てであるなら平等とは言えないでしょう。しかしそれは限界のある人間の視点で見ているからです。 神様の視点から言えば、人の魂はそこで終わりではないのです。むしろ神様の永遠から見れば、地上での歩みは一瞬のことです。ペトロの手紙は「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。 」と言います。大切なのは、生きる長さでも、どのような死に方をするかでもありません。書かれているとおり地上の宝は次のステージには持ってゆけないのです。しかし、次のステージに持って行けるというか、天国の銀行に貯金する事はできるというのです。それは、1日1日を愛するということにおいて悔いなく過ごすという事です。
2. 豊かな恵みによって、失敗を恐れず、罪と戦い続ける
さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずに、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは糧にならないもののために金を支払い、腹を満たさないもののために労するのか。私によく聞き従い良いものを食よ。そうすればあなたがたの魂は豊かさを楽しむだろう。(イザヤ書 55:1, 2)
神様は私たちの愚かさ、弱さ、罪の性質を知りながら、この世界を治めることを私たちに委ねられました。神様を忘れ、自分を神のように考える傾向のある人間にとって、この世界を正しく治める事は難しく、人類は何度も危機を迎えましたが、イエスという一人の人としてご自身を現され、私たちが進むべき道を示していてくださるので、私たちは何度失敗しても見放されずに、歩み続けることのできる力をいただいてここまでやってこられたのです。人類の歩みが少し違っていたなら、新コロナウイルスのパンデミックにはならなかったかもしれませんが、それを悔いてもパンデミックが消えるわけではありません。今私たちがすべき事は、悔やむことや、誰かを責めることではなく、神様が下さる豊かなリソース=愛、知恵、労力、財力、時間を用いて最善を尽くすことです。 それは、例えばこのように、みんながここに集まれなくても、SNSやライヴ放送など様々な方法で礼拝すること(神様を愛すること)を、互いに愛し合うことを、世界を愛することを続けてゆくということです。
メッセージのポイント
神様はこの世界を創られた後、最後の被造物として人間を創り、被造物の全てを治めるように命じられました。 しかしこの世界では、私たちのコントロールできない理由によって、また私たちの持つ罪の性質によって絶えず問題は起こります。それでも神様は私たちを用いることをやめず、前に進む力を与えてくださいます。
話し合いのために
- なぜ災いは起こるのですか?
- 私たちが希望を持ち続けることのできる根拠は?
子供たちのために
「C」 を中心に、限界のある肉体と、魂の永遠を伝え、目に見える世界で何が起こってもイエス様に頼って安心していられることを伝えてください。