命(世界)という畑を預けられた農夫たち

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命(世界)という畑を預けられた農夫たち

(マルコによる福音書 11:27-12:12)  

池田真理

 (先週と今週の話は不思議とつながっています。) 今日のお話の中心は12:1から始まるイエス様のたとえ話です。イエス様がこのたとえ話をしなければいけなかったのは、イエス様の時代の人たちも今の私たちも、全ての人が自分を神様にしたくて、神様を邪魔だと思う罪の性質を持っているからです。情けない現実でがっかりしてしまいますが、読んでいきたいと思います。11:27-33です。

 

A. 自分の罪に向き合わないから、神様と向き合わない(27-33)

27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、28 言った。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか。」29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたがたに言おう。30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」

 

 ここで、宗教指導者たちはイエス様に質問していますが、彼らは本当は答えを知っていました。イエス様は神様の権威によって行動してきたのです。でも、彼らはそのことを認められませんでした。なぜなら、彼らは自分たちこそが神様の権威を持っていると思っていたからです。彼らがそう思っている限り、イエス様が何を言おうと、彼らはイエス様のことを認めるはずがありません。イエス様はそのことを見抜いていたので、彼らの質問には答えず、逆に質問を返しています。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか。」この質問は、見事に彼らの矛盾を明らかにしています。彼らは、ヨハネのこともイエス様と同じ理由で受け入れませんでした。自分たちが正しいのだから、ヨハネは間違っているという理由です。ヨハネが正しいと認めてしまったら、自分たちは間違っていることになってしまうので、認めるわけにはいかなかったとも言えます。彼らにとっては、イエス様もヨハネも、どんなに正しいことを教えていようと、神様の真実を語っていようと、実は関係ありませんでした。自分たちの正しさを危うくする存在は、誰でも敵だったのです。つまり、彼らにとって一番重要だったのは自分たちの立場を守ることであり、本当に正しいことは何か、真実は何か、ということではありませんでした。そのことは、彼らが群衆を恐れたというところにも現れています。もし彼らが本当に自分たちが正しくてヨハネの教えは間違っていると信じていたなら、ヨハネの洗礼は天からのものではなく人からのものだと答えられたはずです。そうできないのは、やはり、彼らにとって最も大切なのは自分たちの社会的立場だったからです。
 イエス様に質問しておきながら、結局は自分たちの方が答えに窮するという、情けない姿ですが、私たちは自分と彼らに共通するところがあると知る必要があります。私たちも、彼らと同じように、自分たちが正しいと思っている限り、本当に正しい方を知ることができません。そして、自分が手に入れた地位を危うくする存在には、たとえ相手が正しくても、自分の間違いは認められず、相手を排除したくなる傾向を持っています。そんな時、私たちは、自分自身と周りの人たちの神様になろうとしています。それが私たちの罪です。私たちが自分にそういう罪の性質があることを認めなければ、本当の神様を認めることができません。これは反対のことも言えます。私たちは神様の前に自分をさらけ出さなければ、自分の罪を認めることができません。本当に正しい方は神様お一人です。その方の前に立つことがなければ、私たちは自分の間違いに気がつくことも難しい存在です。
 イエス様は、こんな私たちの現実をたとえ話にして教えました。そして、どうすれば私たちがこんな状態から救われるのかも語られています。10:1-12全体を読みます。

 


B. 私たちの罪

1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。3 ところが、農夫たちはこの僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。6 その人には、まだ一人、愛する息子がいた。『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ。』8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出した。9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。11 これは、主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。』」12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。 

 

1. 神様は私たちに命(世界)を預けた(1)

 このたとえ話でまず覚えておかなければいけないのは、主人は農夫たちにぶどう園を預けたというところです。主人は、豊かな収穫を期待してぶどう園を造り、農夫たちを信頼してぶどう園を預けました。主人とは神様、農夫は私たち、ぶどう園はこの世界と考えることができます。でも、神様が期待している収穫とは、前回の聖書箇所で読んだように、愛です。私たちが神様を愛すること、互いに愛し合うことです。そう考えると、このぶどう園というのは、この世界全体を指していると同時に、私たち一人ひとりの人生とも考えることができます。神様は、私たちが愛という実を豊かに結ぶことを期待して、この世界とそれぞれの命を、私たちに預けられました。ですから、私たちそれぞれの人生と周りにいる人たちの命、そしてその延長上にあるこの世界は、神様が私たちを信頼して預けてくださった、神様の畑と言えます。そして私たちは、自分の命と他の人たちの命、そしてこの世界という神様の畑を預けられた農夫(小作人)です。畑の主人は私たちではなく、神様です。
 ところが、先に読んだ宗教指導者たちのように、私たちは預けられたことを忘れて、全てを自分のものにしたくなります。そして、主人のことが邪魔になります。2-5節をもう一度読みます。

 

2. 私たちは預けられたことを忘れて、自分のものにしたくなる (2-5)

2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。3 ところが、農夫たちはこの僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

 非常に残酷な農夫たちですが、これはイスラエルの歴史であり、教会の歴史であり、私たち個人の歴史でもあります。神様から預かったものを自分のものにしたいために、それが間違っていると指摘する人たちのことを、排除します。イエス様の前の時代の預言者たちも、人々の心が神様から離れていることを繰り返し警告しましたが、無視されました。イエス様の時代、ヨハネはヘロデによって殺害されました。16世期の宗教改革のきっかけとなったルターも、最初は教会から破門されました。そして、私たち個人の人生においても、もっと目立たない形で、私たちは神様からの使いを排除していることがあります。私たちは物理的に誰かを殴ったり殺したりすることはないかもしれません。でも、私たちに大切なことを教えてくれている人たちを、見えないふりをして排除していることがあります。まさかその人が神様が送ってくれた使いだとは思ってもいないかもしれません。それは、とても身近な家族や友達かもしれません。排除しているつもりがなくても、その人たちのことを自分のものだと勘違いして、なんでも自分の言うことを聞いてくれる存在として見ているなら、危険です。その人たちも神様のものであり、私たちのものではありません。神様は、その人たちを通して、私たちに語りかけます。あなたの人生も、その人たちの人生も、私があなたに一時的に預けただけであって、主人は私であると。私たちは、一生この声を聞き続ける必要があります。自己中心的で残酷な農夫の性質を、私たちはみんな一生持っているからです。この性質の根本は、自分が神様になりたいという欲望です。6-8節をもう一度読みます。

 

3. 私たちは自分が神様になるために、神様を殺す  (6-8)

6 その人には、まだ一人、愛する息子がいた。『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ。』8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出した。

 これが、私たちがイエス様を十字架につけて殺してしまったということです。私たちが自分と他の人たちの人生をコントロールしたいと願うことは、自分が神様になりたいと願うことです。世界征服を願わなかったとしても、少なくとも、自分の人生と身近な人たちにとっての神様になりたいと願うのです。それは、本当の神様を排除し、殺すことです。自分が手に入れたい人生のために、本当の神様は邪魔なので、無視して排除します。
 でも、そんな生き方の結末は虚しいものです。この農夫たちは、なぜ息子を殺せば主人の財産は自分たちのものになると思ったのでしょうか。息子を殺したところで、主人は生きていて、主人の財産が自分たちのものになるわけがありません。もともと、農夫たちは畑を預けられただけなのです。また、ここで、農夫たちが狙っているのは畑の収穫ではなく、主人の財産である畑そのものだというところも的外れです。畑を手に入れれば自動的に収穫は自分たちのものになると思ったのかもしれませんが、それは間違いです。主人から定期的に畑に必要な肥料や農具や技術を与えられることなしに、畑が豊かな収穫を生み出すことはありません。主人の畑を横取りすることは、結局は畑を荒地にしてしまうことなのです。自分が神様になろうとしている限り、愛という実りは期待できないということです。
 それにしても、この主人は、これまで農夫たちが多くの僕を殺してきたことを知っていながら、自分の息子なら大丈夫だろうと思ったというのは、少し人が良すぎるというか、呑気すぎると思います。普通だったら、息子の命も危ないと思って、絶対に送り出すことはないと思います。それでも、主人はそうすることを選びました。神様は、イエス様をこの世界に送ることで、殺されることになることは分かっていました。神様は呑気だったのではなく、諦めが悪かったのです。ご自分の畑のことを諦められず、豊かな収穫を得たいという願いを諦めなかったのです。そのために、たとえ自分が犠牲になってもいいと思われました。最後に、9-11節をもう一度読みます。

 


C. イエス様によってしか与えられない収穫 (9-11)

9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。11 これは、主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。』」

 9節で言われている、主人は帰ってきて農夫たちを殺して、他の人たちにぶどう園を与えるだろう、というのは、「もしこの主人が普通の人間の主人だったら」の話です。実際には、神様は自分が殺されても、ご自分を殺した人間を殺す方ではありません。その反対に、ご自分を殺した私たちを赦して、愛するために、自ら命を献げてくださいました。
 神様は、私たちのことを諦めません。私たちがそれぞれの人生で、神様を愛し、他の人たちと愛し合うという実を結ぶことを、願って諦めません。その実が世界中に広がり、神様の愛がこの世界で実現することを、諦めていません。私たちはすぐに主人を忘れて、目の前の畑は全て自分のものだと勘違いする農夫です。また、他の悪い農夫によって搾取される畑になって、傷つくこともあります。でも、主人は自分の命を捧げるほど自分の畑のことを大切にしています。そのことを知った悪い農夫は良い農夫になれます。そして、荒れた畑は豊かな畑になることができます。神様の諦めない愛によって、私たちは何度も赦される農夫です。そして、イエス様の命をかけた愛によって、愛し合う実を結ぶ畑です。

家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。

神様が私たちに預けた命とこの世界を、イエス様の愛によって耕す農夫となりましょう。どうしようもない悪い農夫でも、荒れた土地でも、変わることができます。それは神様の望みで、私たちには不思議にさえ思えることです。

 


メッセージのポイント

私たちは、自分の命と他の人たちの命、そしてこの世界を、神様によって預けられています。神様を愛する人生を歩み、他の人と愛し合って生きる世界を実現するためです。でも現実には、私たちは自分の人生も他の人の人生も自分の思い通りに動かしたいと願い、神様は邪魔だと感じます。その行末は、他の人を傷つけ、自分も永遠に満足できず、虚しいだけです。神様はそんな私たちを滅ぼす代わりに、自らが死なれました。イエス様の死の上にしか、私たちの命はありません。イエス様によって罪を赦され、愛を教えられて、私たちは本来神様が望まれていた人生を歩み、世界を実現することができます。

話し合いのために
  1. なぜ私たちはなんでも支配(コントロール)したくなるのでしょうか?
  2. どうしたら良い農夫になれますか?
子供たちのために

私たちの命は神様から預けられたもので、私たちのものではないということを話し合ってみてください。なぜ(なんのために)神様は預けてくださったのでしょうか?