人間の権力者に対する態度

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人間の権力者に対する態度

(マルコによる福音書 12:13-17)  

池田真理

 世界中でコロナウイルスの感染が急速に広がっています。そのため、世界各国で緊急事態宣言が出され、都市の封鎖がされ、外出禁止令が出され、多くの人の日常生活に大きな変化が起きています。日本は今のところはヨーロッパやニューヨークほど深刻な事態には陥っていませんが、東京では危ない状況になりつつあります。この週末は東京とその周りの県で、知事たちが外出自粛を求めました。今後事態が悪化すれば、日本でも外出禁止や都市封鎖が行われるかもしれません。私たちの日常生活がここまで政府によって制限されるということは、第二次世界大戦後初めてです。実際、戦後以来と言えるほどの危機だから、各国の政府はそのように対応しているわけですが、私たちはこれが民主主義国家にとって非常に例外的な措置であることを覚えておく必要があると思います。政府が国民の日常生活を送る権利を制限することは、本来は民主主義において認められません。本来は、国民が政府の権力を制限するのが民主主義です。民主主義は、人間が長い歴史の中で多くの犠牲を出して、やっとたどり着いた社会の財産です。イエス様の時代には民主主義は確立していませんでしたが、イエス様の教えは民主主義の根本を教えてくれるものです。この社会の中で権力者は何のために立てられているのか、私たちはどう権力者に従えばいいのか、従うべきでないのか、教えてくれています。今のような非常事態の中で、改めて考えておく必要があると思います。今日の聖書のテキストがちょうどその教えの箇所でした。前半と後半に分けて読みます。まず13-14節です。

 

A. ローマに対する三つの異なる態度(13-14)

13 さて、人々は、イエスの言葉尻を捕らえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ党の人を数人イエスのところに遣わした。14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、私たちは、あなたが真実な方で、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」

 

 本題に入る前に、当時のユダヤ人の置かれていた状況を説明します。当時、ユダヤ人が住む地域はローマ帝国の支配下にありました。でも、ローマは地域によってはユダヤ人の自治を認めましたし、ユダヤ人がローマの法律に従い、税を納めていれば、それ以上にユダヤ人を弾圧することはありませんでした。特に、ユダヤ人の宗教生活を制限することはユダヤ人の反感を買うと分かっていたので、干渉しませんでした。でも、ユダヤ人の方では、ローマ帝国に対して様々に異なる姿勢がありました。それが、このファリサイ派とヘロデ党の人たちとイエス様のやりとりの背景にあります。大きく分けて三つの異なる態度です。当時の彼らと私たちの状況は違って、直接は関係ありませんが、ヒントになるので一つずつ見ていきたいと思います。

 

1. 納税してはいけない

 まず最も危険で極端な人たちは、ローマの支配に絶対反対しなければいけないと考えました。なぜなら、ユダヤ人の神様は唯一絶対で、ローマ皇帝の支配を許すことは神様への冒涜に当たると考えたからです。その結果、当然、皇帝への税金は払ってはいけないと考えました。彼らの中心は、熱心党(Zealots)と呼ばれた人たちです。彼らは武力を用いて実力行使で革命を起こし、ローマ帝国に反逆しようとしていました。一見すると熱心で純粋な信仰者たちのように見えますし、税金を払うべきではないという主張は、税金を払いたくない民衆の気持ちと一致します。だから、民衆からは支持されていました。でも、実際は、自覚があったにせよなかったにせよ、彼らは反社会的な民族主義者nationalistであり原理主義者fundamentalistです。彼らは、重要なことを理解していませんでした。それは、たとえローマ帝国を倒して自分たちの国を建てられたとしても、人間が支配者である限り、それは神様の国ではないということです。人間に神様の国を作ることはできません。

 

2. 納税するしかない

 二つ目のグループは、ファリサイ派の人たちに代表されるグループです。ローマ帝国に支配されるのは不本意だけれども、やがて救い主が来てくれるから、それまではユダヤ人の清さを保つことに集中しよう、と主張しました。彼らにとって重要なのは、律法を守り正しく清く生活することであり、できるだけ異邦人とは付き合わず、罪びとを避けることです。そのためには、その生活を守らせてれるローマ帝国に税金を払うのは仕方ないと考えました。彼らはユダヤ人の日常生活に大きな影響力を持っていましたが、権力者に対する態度に関しては中途半端な妥協をしていたことになります。その点に関しては人々から支持されませんでした。

 

3. 納税するべきだ

 三つ目のグループは、もう神様のことは忘れて、ローマ帝国に積極的に従えばいいと考える人たちです。おそらく、ここに出てくるヘロデ党の人たちというのはこのグループに入ります。ユダヤ人の中でも身分の高い人たちや政治的権力を持っていた人たちは、ローマ帝国に協力することによって自分の権力を保っていました。表面上はユダヤ人としてユダヤ人の神様を信じるふりをしていても、実際はもう自分の利益しか考えず、神様のことは忘れています。同時に、ローマ帝国に心から忠誠を誓っているわけでもなく、自分に都合がいいからローマ帝国を支持しているに過ぎません。自分に利益をもたらしてくれる権力者には進んで従おうという態度です。当然、このグループは人々からは嫌われていました。

 改めて今日の聖書のテキストに戻ると、人々がイエス様に対してしている質問は、イエス様がどう答えても、イエス様を窮地に立たせるためだと分かります。イエス様が納税すべきだと答えれば、民衆はイエス様から離れます。納税すべきでないと答えれば、イエス様はローマ反逆の罪に問われます。それは彼ら自身の間の意見の相違や妥協を棚に上げて、イエス様を陥れようとする罠でした。彼らに対するイエス様の答えは、これから読んでいきますが、彼らを驚嘆させました。この1〜3のグループで言うと、イエス様の答えは2に一番近く、3にも似ているところがありますが、2とも3とも違っています。イエス様は、ローマ帝国に従うべきか従わないべきかよりも、重要なことがあると教えました。15-17節を読んできましょう。

 


B. イエス様の教え (15-17)

15 イエスは、彼らの偽善を見抜いて言われた。「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚嘆した。 

  イエス様の答えは単純で短いですが、とても難しくもあります。少なくとも、この答えですぐに分かることは、イエス様は皇帝への納税を禁じてはいないということです。つまり、ローマ帝国の支配に従うことを認めているということです。でも同時に、その先があります。皇帝のものと神様のものは違うという点です。それでは、まず「皇帝のものは皇帝に返しなさい」とはどういうことなのでしょうか?

 

1. 皇帝のものは皇帝に返しなさい (ローマ13:1-7)

 ここでヒントになるのは、イエス様がデナリオン銀貨をわざわざ持って来させたことです。ユダヤ人1人分のローマへの人頭税が、デナリオン銀貨1枚です。イエス様は、その銀貨に皇帝の肖像imageと銘が刻まれていることを確認させました。この肖像imageというのがキーワードです。この肖像という言葉は、創世記1章にも出てくる言葉です。神様は人間をご自分の「像」に似せて造られたという部分です。皇帝の像が刻まれた銀貨というのは、人間の像が刻まれたものということです。それは、神様の像ではなく人間の像、人間の罪を反映したものです。また、デナリオン銀貨に刻まれた銘は、皇帝を神の子として称える文言でした。自分を神にする人間の罪がそこにも表れていたと言えます。イエス様は、銀貨そのもの、そして納税制度自体が、人間の罪の結果であり、神様とは関係ないと言おうとされたのだと思います。それは、人間の権力者の存在自体が、人間の罪に由来しているということにもなります。

 でも、これだけではまだよく分からないので、関係のある聖書の箇所を読みたいと思います。パウロのローマ人への手紙13章です。

(ローマ13:1-7) 1 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。3 実際、支配者が恐ろしいのは、人が善を行うときではなく悪を行うときです。権力を恐れずにいたいと願うなら、善を行いなさい。そうすれば、権力から褒められるでしょう。4 権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるからです。5 だから、怒りが恐ろしいからだけではなく、良心のためにも、これに従うべきです。6 あなたがたが税金を納めているのもそのためです。権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

この部分は注意して読まないと、どんな権力者にも盲目的に何も考えずに従えと言われているように勘違いしてしまいますが、そういうわけではありません。パウロは、ローマ帝国の役人が不正を行うことも知っていましたし、皇帝が神ではないことはもちろん分かっていました。それ以上に、パウロ自身が権力者たちの手によって何度も投獄された経験を持っています。権力者たちが悪を行うことを、誰よりもパウロがよく分かっていたはずです。それでも、全ての権力者は神様によって立てられているとパウロは言います。だから全ての権力に従いなさいとも言っています。それでは、権力者の脅しに屈しなかったパウロは、本当に全ての権力に従ったと言えるのでしょうか?そうとは言えません。では、ここのパウロの言葉をどう解釈すればいいのかというと、3節以降に注目すると見えてくると思います。パウロはここで、権力者が悪を行うということを全く想定していません。権力者はあくまで人々に善を行わせ、悪を行わせないために、剣を持っているとされています。剣とは、悪に対して罰を与える権力です。それによって、人間の罪を抑え込みます。罰が怖いから悪いことはしないというのは、本当の意味では解決にはなっていませんが、社会の秩序を保つためには効果があります。そして、その権力を用いることによって権力者は神に仕えている、とパウロは言います。人間の罪を抑え込み、社会の秩序を保つことが、神様が人間の権力者に与えた役割だということです。上下関係のある社会構造自体が、人間の罪を抑え込むために神様が許された仕組みだとも言えます。だからパウロは、上に立つ者には従いなさい、彼らは神によって立てられているから、と言いました。どんな権力者でも人間である限り限界があります。悪を行うこともあります。それでも、神様はそれを知った上で、彼らが権力を持つことを許しているということです。私たちの罪の根本的な解決は神様にしか与えられませんが、罪深い人間同士でも、限られた範囲で互いの罪を抑え合うことができるということです。

 改めて、イエス様の言葉に戻りましょう。「皇帝のものは皇帝に返しなさい。」罪深い人間同士で作り上げているこの世の社会構造や制度は、不完全ですが、意味があります。イエス様は、その中で一人ひとりが与えられている義務を果たしなさいと言われています。熱心党のように、不完全な世の中で完全な理想郷を求めて、それを武力で手に入れようとするのは間違っています。ファリサイ派のように、やがてくる救い主に希望を置いて、この世は汚れているからなるべく関わらない方がいいという態度も間違っています。そして反対に、ヘロデ党のように、この世のことが全てだと考えるのも間違っています。私たちは、人間の権力者たちに対して、彼らの役割を理解して彼らに協力する必要があります。でも同時に、彼らが与えられている役割を果たさないときや、間違えるときには、すぐにそれに気がつくことができるようにしておく必要があります。そのために必要なのは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエス様の大原則です。皇帝は、皇帝の役割以上のことをしてはいけません。皇帝には神様のものを手に入れる権利はありません。だから、私たちは、神様のものとはなんなのかを知っておく必要があります。

 

2. 神のものは神に返しなさい(ローマ12:1-2)

 イエス様は、皇帝の肖像が刻まれたデナリオン銀貨は皇帝に属するのだから、皇帝に返しなさいと言いました。では、神様の像が刻まれているものはなんでしょうか?それは、私たち自身です。神様に似せてつくられた私たちには神様の像が刻まれており、私たちは神様に属します。私たちは神様のもので、イエス様は私たちが自分自身を神様に返すことを望まれました。このことは、先に読んだローマ13章の直前の12章でパウロがこう言っています。

(ローマ12:1-2) 1 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。 2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。

イエス様が私たちのためにご自分を献げられたように、私たちも自分自身を神様に献げることが、「神のものは神に返す」ということです。それは、不完全で罪深い人間の社会に生きながら、自分と他人の罪の中で死んでしまうことなく、神様の愛によって生きるということです。そして、自分が神様の愛によって生かされると同時に、神様の愛と正義がこの世界で少しでも実現するように求め、行動していくことです。この世界を神様に返すとも言えます。イエス様は、私たちが神様を愛し互いに愛し合うことによって、自分自身とこの世界を神様に返すことを求められています。

 私たちは今、第二次世界大戦以来の世界的な危機にいます。病気の怖さだけでなく、経済への打撃も深刻です。感染を食い止めるために経済活動を自粛すれば、感染による死者が抑えられても、経済的破綻によって死者が増える、という新聞記事も読みました。いつになったら安心できるのか、全く出口は見えていません。こんな状況の中で、各国の政府の果たす役割はとても大きくなっています。私たちは彼らが正しい判断をできるように祈り、彼らの指示に協力する義務があります。でも同時に、彼らが正しい判断をしているかを冷静に考える必要があります。彼らがどういう根拠でどういう判断をしているのか、私たち一人ひとりが注視している必要があります。そして、彼らの指示がなくても、私たちは一人ひとりが神様の国の一員としてできることがあるはずです。身体の弱い人の命を奪うことにならないように、自分が元気でも慎重に行動することが必要です。そして、教会として日曜日に集まらないということも、私たちが世界のためにできることだと思っています。今は会わないことが互いを大切にすることであり、会えない寂しさは私たちの払う犠牲の痛みだと思います。一人ひとり、それぞれの場所で、自分自身を神様に返しましょう。そして、皇帝が皇帝の役割を果たせるように、祈り、協力しましょう。神様から知恵をいただき、イエス様から力をいただいて、この時を一緒に歩んでいきましょう。

 


メッセージのポイント

人間の権力者は、人間の罪を抑制し、社会の秩序を保つために立てられています。私たちは社会の一員として、社会の秩序を保つために必要な法律や制度に従い、義務を果たす必要があります。でも、権力者も罪から自由になれない人間です。唯一絶対で完全な権力者は神様だけです。私たちは一人ひとりが神様の国に属する一員として、人間の権力者を見張り、社会の中で神様の意志が行われることを求める義務があります。この世界で人間の罪が抑制され、神様の正義と愛が実現されるように、一人ひとりの行動を変えることから始めましょう。

 

話し合いのために

1) 人間の権力者を見張るとは具体的にどういうことですか?各国政府が緊急事態宣言を出して国民の権利を一定期間制限する措置に出ていますが、そのことはどう考えれば良いのでしょうか?

2) 自分を生けるいけにえとして献げるとは、この状況で具体的にどういうことですか?