死ぬこと、復活すること、生きること

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死ぬこと、復活すること、生きること

(マルコ 12:18-27)  

池田真理

 先週はイエス様の復活を祝うイースターでした。先週は触れませんでしたが、今日は、死から復活した体とはどういう体なのか、ということからお話しします。イエス様が死からよみがえられたのと同じように、私たちも体が死んでもやがてよみがえると、イエス様は言われました。でも、死者がよみがえるなんて、人間の常識では考えられないことなので、昔も今もそんなことは起こるわけがないと考える人たちがいます。今日はそんな人たちとイエス様のやりとりから始まります。まず18-25節から読みますが、これは次に続く本題の前置きです。読んでいきましょう。

 

A. 復活の体とは (18-25, 1コリント15章)

18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。19 「先生、モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけねばならない』と。20 さて、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが、子を残さないで死にました。21 次男が彼女を妻にしましたが、子を残さないで死に、三男も同様でした。22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活の時、彼らが復活すると、彼女は誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」24 イエスは言われた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。

 

 ここでサドカイ派と呼ばれる人たちが言っているのは、旧約聖書(申命記25:5〜)に根拠のある話です。家系を絶やさないために、長男が死んでしまった場合は次男が長男の妻と結婚しなさいという掟です。その掟をサドカイ派の人たちは拡大解釈して、7人兄弟全てが死んでしまったら、復活の時にはその女性は誰の妻と考えればいいのか、とイエス様に聞きました。彼らとしては、一休さんのとんち話のように、ちょっとした知恵とユーモアがあれば、常識外れなイエス様の主張なんて覆せると思ったのだと思います。でも、それは彼らの読み間違いでした。

 サドカイ派の人たちは、死者の復活というものを、単純にこの世で生きていた体がそのままよみがえることだと考えていました。死後の体というのを、この世の延長としてしか考えていなかったのです。

 でも、イエス様はこう言われています。25節「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。」つまり、死からよみがえるとは、天使のような体を持つことで、夫がいたり妻がいたりという、それまでの夫婦関係はもうなくなるのだということです。

 また、先週のイースターの記事を思い出してください。イエス様は、弟子たちが目で見て手で触れられる実体のある体を持っていましたが、同時に、鍵のかけられた家の真ん中に突然現れることができました。復活したイエス様の体は、死なれる前と同じでもあり、違うものでもあったとわかります。

 それでは、天使のような体でよみがえるとは、どんな体なのか、もう少し詳しく書かれている箇所を読んでおきたいと思います。1コリント15章です。15章全体が復活のことについて書かれているのですが、今は一部分だけを読みます。42-44節です。

(1コリント15:42-44) 42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、44 自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。

これも具体的というよりは抽象的ですが、要するに、今ある私たちの体はやがて必ず朽ちるものですが、復活の時にはもう決して朽ちないものになるということです。霊の体とも言われていて、霊魂だけがよみがえるということではなく、体を持ったものとしてよみがえるということです。復活したイエス様の体に十字架の傷痕が残っていたように、私たちが復活する時にも、私たちの体にはそれぞれが生きているうちに戦った様々な傷痕、個性が残ることになると思います。でも、生きていた時と全く同じ体ではなく、新しい体です。
 これ以上のことは今は私たちには分かりません。私たちはただ、私たちには死からよみがえることが約束されていて、その時にはそれぞれの個性を保ったままの形で、でも今とは違う新しい体になるということを知っておきましょう。

 さて、ここまでは前置きで、ここから先が大切な本題です。死からの復活について考えることよりも、やがて復活することを知りながら、今をどう生き、体が死ぬことをどう受け入れればいいのかを考えることの方がずっと大切です。26-27節のイエス様の言葉を読みます。

 


B. 死者の復活とは (26-27)

26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている。」

 

1. アブラハム、イサク、ヤコブは神様にとっては生きていた

 まず26節に注目しましょう。イエス様はここで、旧約聖書にも死者の復活を教えている箇所があると言われています。モーセが初めて神様に出会った時、神様はご自分のことを「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われた、という箇所です。なぜそれが死者の復活を教えることになるかというと、モーセの時代には、アブラハムもイサクもヤコブも、とうの昔に死んだ人たちだったからです。神様は、すでにこの世を去った彼らのことを覚えていたということです。そして、彼らの子孫を祝福するという約束も覚えていました。だから、彼らの子孫のひとりであるモーセに現れて、エジプトで苦しむ子孫たちを救い出すように使命を与えました。神様とアブラハム、イサク、ヤコブの関係は、彼らの死後も終わっていませんでした。彼らはこの世を去っていましたが、神様にとって彼らは生きていたということです。

 ただ、これだけだと間接的で、死者が復活するということの直接的な根拠にはならないように思います。そこで参考になるのが、イエス様ご自身が彼らのことを知っていたと分かる箇所です。3つ続けて読んでいきます。

 

2. 彼らが天の国にいることをイエス様は知っていた

マタイ8:11 「言っておくが、東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。」

ルカ16:22 「やがてこの貧しい人(ラザロ)は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。」

ヨハネ8:56-58 「あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」…「アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」

 この三つのイエス様の発言から分かるのは、アブラハム、イサク、ヤコブが天の国にいるということを、イエス様は当たり前のこととして話しているということです。イエス様は、彼らが天の国にいることを知っていたのです。そして、彼らも自分のことを知っていて、自分がこの地上に来ていることを喜んでいると言われています。また、この地上での苦しい生涯を終えたラザロという貧しい人は、天使たちによってアブラハムのそばに連れて行かれたとも言われています。イエス様は、この地上での歩みを終えた人たちが、なお天の国で生き続けていることを知っているということです。だから、肉体が死んでしまっても、彼らは死んでおらず、生きていて、やがて復活するのだと、イエス様には言えたのです。

 私たちには、それぞれに、すでにこの世を去ってしまった大切な人たちがいます。どんなにまだ一緒にいたいと思っていても、もう一度会いたいと思っても、私たちにはどうしようもありません。なぜその人を神様は取り去ってしまうのか、私たちには一生答えることはできませんし、悲しみをすぐに手離さなければいけないと思う必要もありません。どんなに神様を信頼していても、あの人は今神様のもとにいるのだと信じていても、会えなくなってしまった寂しさは、私たちにはどうしようもありません。決して自分を責めたりせずに、神様が時間をかけて寂しさと悲しみを癒してくださるのを待ってください。また、信頼できる人に苦しい心を打ち明けて、一緒に重荷を分けて担ってもらってください。

 私たちは誰でも、いつかこの世を去る時を迎えます。健康な時には忘れてしまうかもしれませんが、病気になった時、生きる辛さを感じる時、大切な人を失った時、死が身近になります。

 でも、今日のイエス様の言葉から分かるように、肉体の死は全ての終わりではありません。体が死を迎えても、私たちは天の国で生き続けます。私たちが先に見送らなければならなかった人たちも、そこで生き続けています。死後の世界や天国のことについてというのは、好奇心から想像を膨らませてしまいがちですが、私たちの根拠はイエス様の言葉にあります。イエス様が言われた以上のことは私たちには分かりませんが、イエス様が言われたことには確信を持つことができます。イエス様は、アブラハム、イサク、ヤコブのことを覚えていて、そして天の国にいる彼らを知っていました。同じように、イエス様は、私たちより先にこの世を去った人たちのことを覚えていますし、彼らは天国でイエス様と共にいるでしょう。同じことが私たち自身にも言えます。私たちがこの世を去っても、イエス様が私たちのことを覚えていて、そばにいてくださるのには変わりありません。だから、私たちは体が死んでも生きており、決して死ぬことはないとも言えます。いつ体の復活が起こるのかとか、どんな体になるのかなどは、重要ではありません。大切なのは、生きるにしても死ぬにしても、私たちがイエス様と共にいることなのです。

 

3. イエス様との関係が私たちを永遠に生かす

 イエス様は27節でこう言われていました。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている。

これは、神様は死んでしまった者のことはもう忘れてしまって、生きている者のことしか気にかけない、という意味ではもちろんありません。そうではなく、神様は私たちの体の生死を超えて私たちを生かす方だということです。この世と天の国という隔たりを超えて、神様は生きておられる神様です。そして、その神様と共に生きる人は、神様と共に永遠に生きます。
 イエス様は別の箇所でこうも言われています。

ヨハネ11:25-26 「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。」

 今日は、イエス様の言葉を頼りに、復活や天国のことを考えてきましたが、イエス様の言葉以上に決定的な事実は、イエス様が十字架の死からよみがえられたという出来事です。死から復活されたイエス様は、身をもって、体の死が私たちとイエス様を引き離すことはないと証明されました。先週のイースターでも確認したように、イエス様は弟子たちのところに戻ってきたのです。イエス様と弟子たちとの関係は、何も終わらなかったどころか、永遠に切り離されることはなくなりました。彼らとずっと一緒にいたいというのが、イエス様ご自身の願いだったのです。そのイエス様の深い愛を受け取って生きることが、本当に生きるということです。この地上の歩みを続けている間も、この地上を去る時も、それは変わりません。体があってもなくても、私たちは、イエス様に愛されて、イエス様を愛して生きることができます。今それぞれが置かれている場所で、与えられている時間の限り、イエス様の愛に生かされて生きましょう。お別れの時が来ても、いつかまた会える希望を持っていましょう。

 


メッセージのポイント

私たちはいつか死から復活することが約束されています。それは、単にこの世で生きていた体がそのまま生き返るのではなく、新しい体に生まれ変わり、永遠に生きることができるようになるという約束です。ただ同時に、その時を待たなくても、私たちが死んでも神様が私たちのことを忘れることはないという意味で、私たちが死ぬことはありません。それは、私たちがこの世に生きているうちから、神様と共に生きることですでに始まっている神様との関係によります。神様と共に生きることが、体があるかないかにかかわらず、私たちが本当に生きているということです。

 

話し合いのために

1)体の死を恐れる必要がないのはなぜですか?

2)体があるうちから永遠の命が始まっているとは、どういうことですか?

子供たちのために

生きているか死んでいるか、と言われたら、普通は体が生きているか死んでいるかを考えます。でもイエス様は、体のことよりも、私たちの心が生きているか死んでいるかの方を大切にしています。私たちの心がイエス様と一緒にあるなら、体が死ぬことは何も怖くありません。体があってもなくても、イエス様が共にいてくださることには変わりないからです。イエス様と一緒にいることが、本当に生きるということです。