世の終わりは必ず来る

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世の終わりは必ず来る

 

池田真理

 前回に引き続き、今日も世界の終わりに関するイエス様の教えを読んでいきます。以前にもお話ししたことがあるのですが、イエス様が教える世界の終わりというのは、私たちがSF小説や映画で知っているような人類滅亡、地球滅亡の危機ではありません。そうではなく、新しい世界の始まりとも言えますし、本来神様が望まれた世界の回復とも言えます。ですから、それは絶対に阻止しなければいけない恐ろしいことではなく、むしろ希望を持って待ち望むべきことです。ただ同時に、その時が来なければ苦しみからの解放はないと思うのは間違っていますし、今のこの世界には希望はないとあきらめてしまうことも間違っています。世界の終わりはすでに始まっており、同時にまだ完全には来ていないという、狭間に私たちは生きています。それではまず24-27節を読んでいきましょう。

 

A. イエス様がこの世界に戻ってくる (24-27)

 

24 「それらの日には、このような苦難の後、 太陽は暗くなり月は光を放たず
25 星は天から落ち、天の諸力は揺り動かされる。
26 その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
27 その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。」

 月も太陽も星も輝かなくなり、宇宙に変化が現れると言われています。これはイエス様が初めて言ったことではなく、旧約聖書の預言者たちも預言していたことでした。イエス様は、その旧約聖書の預言は確かに実現すると言われたということです。世界の終わりには、そのような宇宙の変化が起こるということです。
 これだけだと、やはり恐ろしく感じます。光が消えた世界というのを想像すると、やはり世界の滅亡を想像してしまいます。でも、そうではありません。おそらく、その時には、もう私たちは太陽も月も必要としなくなるということだと思います。イザヤ書60:19-20にこうあります。

あなたにとって太陽が再び昼の光となることはなく
月が夜の明かりとなってあなたを照らすこともない。
あなたにとって、主がとこしえの光となり
あなたの神があなたの誉れとなる。
あなたの太陽が再び沈むことがなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたにとって、とこしえの光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。 (イザヤ60:19-20)

神様が私たちの光となり、私たちはそれ以外の光をもう必要としなくなるということです。
 これは、イエス様が26-27節で言われていることにもつながっています。イエス様がこの世界に戻って来られ、「地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める」と言われています。イエス様のもとに、イエス様が愛する全ての人が集められるということです。そして、人間が人間を支配するのではなく、イエス様が直接この世界を支配するようになります。イエス様の支配とはどういうものか、これもイザヤ書のたとえから想像することができます。イザヤ40:10-11です。

見よ、主なる神は力を帯びて来られ
御腕によって統治される。
見よ、その報いは主と共にあり
その報酬は御前にある。
主は羊飼いのようにその群れを養い
その腕に小羊を集めて、懐に抱き
乳を飲ませる羊を導く。

世界の終わりには、イエス様がこの世界に戻って来られて、私たちの光となり、私たちの羊飼いとなられます。イエス様はすでに私たちの光であり、羊飼いになってくださっていますが、世界の終わりにはそれが目に見える形で実現します。
 続きを読んでいきましょう。28-31節です。

 


B. まだ来ていない、でも必ず来る

 

 28 「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏の近いことが分かる。29 それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」

 29節と30節で言われている「これらのこと」とは、前回読んだ13章前半で言われていたことです。様々な苦しみが起こり、偽の預言者やメシアが現れ、多くの人が惑わされるということです。それは、前回お話ししたように、歴史の中で繰り返されていることであり、やがて来る終末の時の直前にだけ、1回だけ起こる苦しみではありません。全ての時代に共通する苦しみです。ですから、私たちはずっと終末の時を生きていると言えます。その時はまだ来ていないけれども、必ず来ることを知っており、確実にそれは近づいていることを知っているということです。イエス様はそれを、いちじくの木にたとえました。いちじくの木に葉が出てきて夏が近いことを知るように、私たちも苦しみの中で救いが近いことを知りなさい、ということです。いちじくの実が落ちて、葉が枯れるのを見て、冬が近いのを知りなさい、ではありません。終末の時は、暗い冬の到来ではなく、明るい夏の到来です。
 イエス様はまた、力強い言葉を言われています。31節「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」私たちは、イエス様を通して、神様が私たちとこの世界を深く愛してくださっていることを知りました。神様は、私たちが互いに愛しあい、この世界を愛して生きていくことを望まれています。でも、この世界はそんな神様の望みには程遠い状態です。私たちの愛も乏しく、神様を喜ばせるよりも悲しませることの方が多いです。それでも、2000年前にイエス様がこの世界に来られてから、この世界も私たちも、少しずつ変えられています。不完全な私たちの間に、完全な神様の愛が現れ始めています。それは、やがて全てが過ぎ去るこの世界の中で、唯一永遠に残るものです。私たちは、その永遠に続く神様の愛を自分で受け取り、他の人に伝えていく役割を与えられています。それは、限りある時間の中で、永遠に価値あるものを伝えていく大きな働きの一部です。この神様の大きな働きは、まだ完全には実現していませんが、確実に実現しつつあり、必ず完全に実現する時が来ます。イザヤ書をもう1箇所紹介します。イザヤ書55:10-11です。

雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく
必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ
種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。
そのように、私の口から出る私の言葉も
むなしく私のもとに戻ることはない。
必ず、私の望むことをなし
私が託したことを成し遂げる。

それではマルコ13章の最後の部分、32-37節を読んでいきましょう。

 


C. 今、ここで、「目を覚ましていなさい」 (32-37)

 

32 「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである。34 それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託し、門番には目を覚ましているようにと、言いつけるようなものである。35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなたがたには分からないからである。36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 イエス様は、この箇所だけでなく、この13章全体を通して、「気をつけていなさい」「目を覚ましていなさい」ということを繰り返し言われています。いつ世界が終わって、イエス様が戻って来られてもいいように、気を付けて、目を覚ましていなさいということですが、それは具体的に何をしなさいということでしょうか?それは、イエス様を信じて、希望をあきらめず、この世界と人を愛し続けなさいということですが、それだけではないと思います。
 この13章は、マルコ福音書の中ではイエス様が弟子たちに対して教えた最後の教えです。この後、イエス様を殺す計略が実行され、イエス様は捕らえられて、十字架に架けられます。その一連の出来事の中で、弟子たちは何が起こっているのか理解できず、ただ恐れて、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。ゲッセマネの園では、イエス様が悲しみ苦しんで祈っている間、弟子たちは疲れて眠ってしまいました。「目を覚ましていなさい」と言われていたのに、眠ってしまったのです。イエス様は何度も祈りを中断して戻ってきて「起きていなさい」と言われたのに、その度に眠ってしまいました。
 私たちも、目を覚ましていなさいと言われています。世界の終わりがいつ来てもいいように目を覚ましているというのは、この世界で苦しみ悲しまれる神様の姿を見ているということにつながっています。イエス様は、神様の愛が私たちの間で実現するために、十字架で苦しまれました。今も、苦しまれています。私たちが、神様の愛には程遠い偽善や差別や無関心、攻撃を繰り返す度に、イエス様は何度も十字架の苦しみを味わっておられます。私たちはそのことに気が付かないでいることが多くあります。神様ご自身が悲しみ苦しまれているのに、自分の悲しみに支配されたり、神様は私の苦しみに無関心なのだと思ってしまいます。また、私たちが他人の苦しみに無関心な時、私たちはイエス様の十字架から目をそらして眠っているのと同じです。自分の苦しみも、他人の苦しみも、イエス様は知っておられ、共に苦しんでおられることを忘れてはいけません。そして、この世界が本来神様が望まれた姿になるように、自分が変えられ、周りの人に神様の愛を届けることができるように、求め続けるべきです。それが、目を覚ましているということです。
 世界の終わりは、イエス様によって2000年前に始められ、私たちはその完成に向かって今の時代を委ねられています。目に見えなくても、イエス様は今も私たちを照らす光であり、私たちを養い導いてくださる羊飼いです。やがて、太陽が消え、月が消え、星がなくなる時、明るい夏がやって来るように、イエス様はこの世界に戻って来られます。その時は明日かもしれないし、千年後かもしれません。私たちはただ、今ここで、神様の悲しみに目を逸らさず、神様の愛に生かされて、希望を持って、この世界を愛していきましょう。

 


メッセージのポイント

イエス様はいつかこの世界に戻って来られます。その時には、今ある世界は滅びて、イエス様のもとで永遠に続く新しい世界が始まります。私たちは、やがて滅びる世界の中で、永遠に滅びないイエス様の愛を信じています。それは、イエス様が十字架で苦しまれたように、人間の罪の中で苦しみ、神様の悲しみを知り、それでも神様を愛し、人を愛し、この世界を愛して、今を生きることです。

 

話し合いのために
  1. イエス様は何のためにこの世界に戻って来られるのでしょうか?なぜまだ戻って来られないのでしょうか?
  2. 「目を覚ましている」とは、あなたにとって具体的にどういうことです

 

子供たちのために

「世界の終わり」と「今を生きること」をバランスよく話してあげてください。「世界の終わり」は、地球滅亡・人類滅亡の危機ではなく、SF小説のように絶対に阻止しなければならない恐ろしいものでもありません。むしろそれは、イエス様が2000年前に来られてすでに始まっている、この世界の変化が完成する時です。イエス様の愛によって私たち一人ひとりが作り変えられて、私たちの周りから少しずつ世界が変わり始めていますが、「世界の終わり」はイエス様の愛が全ての人に届きます。だから、私たちは「世界の終わり」がいつか必ず来ることを知りながら、それが明日でも千年先でも、毎日をイエス様と一緒に生きることに変わりありません。