強い神様が弱くなられて私たちを救われた

Ambrosius Francken I / Public domain

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強い神様が弱くなられて私たちを救われた

 マルコ による福音書 14:12-25

池田真理

 私たちにはそれぞれ、神様が危機を救ってくださったという経験があると思います。自分ではどうしようもないと思っていた問題を解決してくださったり、具体的に事態を改善してくださったり、大小様々な経験があると思います。そういう経験は、想像を超えた神様の力の記憶として、私たちを励ましてくれます。でも、神様の最大の力は、そういう具体的な問題の解決や状況の改善にあるのではありません。そうではなく、神様ご自身が何もできない見捨てられた存在となられたところに、神様の最大の力があります。強い神様が弱くなられたところに、神様の本当の愛と真実があり、全ての問題の根本的な解決があります。

 今日の聖書箇所では、前半で強い神様のこと、後半で弱くなられた神様のことが語られています。まず前半の12-17節を読んでいきましょう。

A. 強い神様の記憶

12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14 そして、その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか」と言っています。』15 すると、席のきちんと整った二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために用意をしなさい。」16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。

 過越祭は、古代から現代に至るまで、ユダヤ教の人々にとっては一年に一度の大切なお祭りの一つです。私たちにはもう過越祭を祝う習慣はありません。それは、後半で読んでいくように、イエス様によって過越祭は聖餐式に引き継がれたからです。でも、イエス様は過越祭を無視しませんでした。聖餐式を始めるから過越祭をもう祝わないでいいと教えることもできたはずなのに、イエス様はそうせずに、弟子たちとしっかり過越祭を祝いました。その理由は、過越祭でイスラエルの人々が覚えてきた神様の救いは、イエス様が十字架で完成する救いの土台だったからです。
 過越祭は、神様がイスラエルの人々をエジプト人の支配から解放したことを記念するお祭りです。家庭ごとに集まり、まず家長が出エジプトの話をします。その時には、この旧約聖書の一節が読まれることが多いそうです。

私の先祖はさすらいのアラム人でしたが、少数の者と共にエジプトに下り、そこに寄留しました。そしてそこで強くで数の多い、大いなる国民になりました。そんな私たちをエジプト人たちは過酷に扱い、苦しめ、つらい労役を課しました。私たちが、私たちの先祖の神、主に叫び求めますと、主は、私たちの声を聞き、私たちが受けた苦しみと労苦と虐げを見て、力強い手と伸ばした腕、大いなる恐るべき業としるしと奇跡をもって、私たちをエジプトから導き出してくださいました。そして、この場所に導き入れ、乳と蜜の流れるこの地を与えてくださいました。(申命記26:5b-9) 

このように出エジプトの出来事を思い起こし、途中に詩編の賛美を挟み、最後に食事をし、詩編を賛美して終わります。子羊を殺して食べるほか、パンが発酵するのを待てないほど急いで旅立たなければいけなかったことを思い起こすために、酵母の入れないパンを食べます。また、エジプトでの苦しい日々から神様が救い出してくださったことを思い起こすために、苦菜も食べます。福音書には、こういう過越祭の詳細は記録されていませんが、イエス様も弟子たちと同じようにされたはずです。

 ここから分かるのは、過越祭は「強い神様」を記念するものだということです。神様が力強く働き、人々を苦しみから救い出され、豊かな土地に導かれたという記憶を思い起こすことが、過越祭の中心です。イエス様が過越祭を大切にされたのは、かつてイスラエルの人々にしたように、これからも神様は私たちの間で力強く働いてくださる方だということを教えるためです。神様は私たちの苦しみを知っておられ、そこから救い出したいと願っておられ、豊かな命に導いてくださる方だということは、イエス様が来られる前も後も何も変わりません。私たちは神様に、自分の抱えている具体的な問題の解決を願っていいし、神様が想像を超えた形で働いてくださることを期待していいのです。また、そのように神様が働いてくださった経験を共有し、励まし合うことも大切なことです。だから、イエス様は過越祭を弟子たちと守られました。

 でも、神様が私たちの個々の問題にどのように働いてくださったかということよりも大切なことがあります。それは、十字架でイエス様が死なれたという事実を思い起こすことです。強い神様の記憶よりも、その神様が弱くなられたことを思い起こす方が重要なのです。後半はそのことを読んでいきたいと思います。

(「水がめを運んでいる男について行きなさい」について)

 その前に少し脱線するのですが、この場面で登場する「水がめを運んでいる男」についてお話ししておきたいと思います。この人は、もしかしたら今で言うトランスジェンダーの人だったかもしれません。当時の社会で、水がめを運ぶのは女性の仕事で、男性が水を運ぶとしたら革袋で運ぶのが一般的だったので、男性が水がめを運ぶ姿はそれだけで目立ちます。だから、過越祭の最中の人のごったがえしたエルサレムでも、弟子たちはその人を見分けることができました。そこまでは大体の聖書学者が認めています。ではなぜこの男性は水がめを運んでいたのかというと、確かなことは誰にも言えません。その答えの一つの可能性として、彼は、または彼女は、トランスジェンダーだったのかもしれないと言う意見があります。どちらにしても、イエス様はこれまで何回もそうしてきたように、周りからは奇異の目で見られる人を用いられたということです。イエス様と弟子たちの過越の食事、そして最後の晩餐は、その人の家で行われました。「水がめを運んでいる男について行きなさい」というイエス様の指示は、今の私たちにも向けられていると思います。社会からも教会からも排除されてきたLGBTの人たちが歩んでいる道を、私たちもついていく必要があります。その道の先で、イエス様はご自分の死の意味を、愛の大きさを、もう一度私たちに教えてくださると思います。

それでは後半に入っていきましょう。18-21節です。


B. 神様が弱くなられた記憶

1) 私たちの弱さと罪 (18-21)

18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」19 弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ。21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 イエス様は、喜びを思い起こす食事に水を差すようなことを言い出しました。裏切りの予告です。弟子たちは動揺し、心を痛めたとあります。ここではユダ一人が注目されていますが、この後すぐに、イエス様は弟子たち全員が自分を見捨てて逃げてしまうということも予告しています。なぜイエス様は、喜ばしい食事の最中に弟子たちを悲しませることを言われたのでしょうか?それは、それが人間の現実だからです。神様が何度も救い出し、導こうとされているにもかかわらず、神様を忘れ、裏切るのが人間です。弟子たちの姿は、エジプトから脱出させてもらっても神様に不平不満を言い続けた人々の姿であり、私たちの姿でもあります。イエス様に水を差された弟子たちが心を痛めたとありますが、イエス様の方ではその何倍もの痛みを感じられていたでしょう。
 私たち人間の歴史は、神様を繰り返し裏切り、悲しませてきた歴史です。個人のレベルでも、神様を悲しませていることに気が付かないで、神様を忘れたり裏切ったり、そんなことを繰り返しているのが私たちです。互いに傷つけ合い、互いの罪と弱さがさらなる悲しみを生み出しています。私たちは、自分が苦しみから解放されることばかりを求めるわけにはいきません。自分自身の弱さと罪を認めて、神様の赦しを求めることがなければ、根本的な問題の解決にはなりません。下手をすれば、自分の願い事を叶えるために神様を利用しようとしているだけになってしまいます。イエス様は、そんな私たちの弱さと罪を赦すために、神様としての力を全て放棄して、無力になり、命を献げられました。22-25節に進みます。

2) 神様自らが犠牲となられた (22-25)

22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」23 また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。25 よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

 私たちは聞き慣れた聖餐式の時の言葉ですが、これを初めて聞いた弟子たちはどう感じたのでしょうか?おそらく、この時点では訳がわからなかったと思います。彼らが全てを理解するのは、イエス様が十字架で死なれる様子を目撃し、復活されたイエス様と出会って、自分の罪が赦されていることを知り、さらに聖霊様が彼らに降ってからです。イエス様を見捨て、裏切り、神様のことを理解しない自分たちのためにこそ、イエス様はこの世界に来られ、死なれたのだと、その時初めて彼らは分かりました。イスラエルの民を不思議なしるしや業で導いてこられた全能の神様ご自身が、無力な罪人の一人にされ、苦しまれたのだと分かりました。

 前半で確認したように、私たちは自分の抱えている個々の悩みや苦しみを、神様に訴え、助けてくださいと願うことができます。そして、私たちの祈りに応え、想像を超えた神様の介入を経験し、共にその経験を分かち合って喜び合えるのも大切なことです。でも、それ以上に大切なのは、一人ひとりが十字架で苦しまれるイエス様に出会うことです。自分のためにイエス様は苦しまれ、命を献げられたのだという事実は、私たちを取り巻く状況がどんなに悪くても、出口が見えなくても、揺るぐことはありません。私たちのために無力になられた神様は、私たちの無力さ、寂しさ、虚しさを知っておられます。神様を疑う私たちの心も知っておられ、先に赦して下さっています。そして、その上で、私に従ってきなさいと言われます。神様は私たちに復活の希望を与え、豊かな命を与えると約束してくださっています。だから、私たちは、今は見えない神様の力強い介入を期待すると同時に、今ここで弱い私たちと共におられるイエス様を知りましょう。

(祈り) 神様、あなたがこの世界にイエス様として来られ、十字架で苦しまれたことを今もう一度思い起こします。あなたを知らず、理解せず、目的も分からずに生きてきた私たちの中に、あなたは入ってきて下さいました。あなたと出会えたことは、私たちの人生で一番大きな喜びです。これまでそれぞれの人生で見せて下さった、たくさんの恵みをありがとうございます。今苦しみの中にいる人に、どうぞ具体的な解決を与えて下さい。あなたは私たちの叫びを聞いておられ、今は私たちには想像もつかないような方法で答えてくださると信じます。また、たとえ悪い状況が変わらない中でも、あなたを信頼して安心し、希望を持つことができるように、聖霊様によって私たちを強めて下さい。コロナウィルスの広がりは収まっていませんが、私たち一人ひとりに知恵を与え、このような状況で互いに愛し合い、世界を愛することに、より心を注ぐことができるようにして下さい。あなたがどんな時も共にいてくださることに感謝し、あなたがしてくださることを期待して、イエス様のお名前によってお祈りします。


メッセージのポイント

神様は私たちを災いから守り、豊かな命に導いてくださる全能の方です。私たちがそれぞれに神様に危機を救われた経験を思い起こし、共に喜ぶことは大切なことです。でも、それ以上に重要なのは、神様が私たちを救うために弱くなられたことを思い起こすことです。私たちの弱さと罪を赦すために、神様自らが犠牲にならなければなりませんでした。強い神様が全ての力を放棄して、私たちのために無力になられたことに、神様の真実の愛と救いがあります。

話し合いのために
  1. 過越祭は私たちとどう関係がありますか?
  2. イエス様の救いとは、私たちを何から解放し、何を与えてくださるのでしょうか?
子供たちのために

子どもたちの生活の中で、「神様が助けてくださった!」と思う具体的な出来事をあげることができるでしょうか?小さなことも大きなことも、そのことを時々思い起こして、みんなで一緒に喜べることは嬉しいことです。でも、イエス様は誰にも助けてもらえなかった時がありました。神様にも助けてもらえませんでした。それがイエス様の十字架の出来事です。それは、誰にも助けてもらえない苦しい状況を、神様が私たちの代わりに味わって、私たちがもうそういうふうに苦しまなくていいようにするためでした。神様はなんでもできる強い方だけれども、何もできない弱い人と同じになりました。つらい時や悲しい時に「助けてください」と祈ると同時に、そのつらさや悲しさをイエス様も知っていることを思い出してください。