絶望の中で与えられる強さ

あの夏の日 井上幸雄 (長崎市平和公園)
::::=UT=:::: / CC BY-SA

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絶望の中で与えられる強さ

マルコによる福音書14:27-31, 66-72

池田真理

 75年前の今日、長崎に原爆が落とされました。広島と長崎で起こったことを私たちは忘れてはいけないと思います。世界で唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約に参加していないことは大きな恥だと思います。それは単に日本の政治家の問題ではなく、私たち一人ひとりの責任だと思います。一人ひとりが過去の戦争を自分のこととしてとらえ、過ちを繰り返さないように、次の世代に何を残していくのか、考え、行動していかなければいけないと、改めて思います。特に、このコロナ禍で世界の国々が対立を深め、各国で貧富の格差が浮き彫りになっている現状では、改めて、75年前の戦争の記憶を忘れてはいけないと感じます。
 今日のメッセージのタイトルは、「絶望の中で与えられる強さ」としました。この絶望は、原爆や戦争によって引き起こされる絶望を指しているのではありません。そうではなく、原爆や戦争を引き起こす、私たち人間に対する絶望です。私たちは、自分が救いようもないほど傲慢で弱いと気が付かなければ、イエス様についていくことはできません。自分に絶望しなければ、本当に神様を信頼して生きることはできないのです。過去の過ちを繰り返さないために一番必要なのは、その過ちを自分も犯すことがあると知っていることだというのと同じです。それではまず、マルコ14:27-31を読みます。

A. 私たちの弱さを知っておられるイエス様 (27-31)

27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる。』と書いてあるからだ。28 しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」29 するとペトロが、「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」と言った。30 イエスは言われた。「よく言っておく。今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」31 ペトロは言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 この時の弟子たちはとても強気でした。ペトロは特に、傲慢なほどに自分に自信を持っています。でも、イエス様は彼らが必ず自分を見捨てて逃げるということを知っていました。イエス様は彼らの弱さを知っていたからです。それは、彼らだけの弱さではなく、私たち人間が全て抱えている弱さです。イエス様が十字架で死なれたのは、そんな弱い私たちを赦して救うためでした。
 では、私たちのどんな弱さが、イエス様を十字架にかけてしまったのでしょうか?それは、弟子たちがなぜイエス様を見捨てたのかを考えると見えてくると思います。彼らがイエス様を見捨てたのは、自分の身の危険を感じたからでした。権力者たちが武器を持った兵士たちと共にやってきて、イエス様を逮捕したのを見て、彼らは恐怖を感じました。自分も捕らえられて、暴力にさらされるのではないか、最悪の場合、死刑になるのではないか、と恐れました。イエス様が何も罪を犯しておらず、権力者たちの方が間違っていることを彼らは分かっていたはずですが、逆らう勇気は彼らにはありませんでした。彼らは、自分の身を守るために、不正義を許し、悪が行われることを止めなかったということです。また、彼らは強い者に従い、弱い者を見捨てたとも言えます。宗教指導者たちという強い者の前に、抵抗しないイエス様という弱い者を見捨てました。反対に言えば、彼らがこれまでイエス様に従ってきたのは、彼らがイエス様の人柄に惹かれ、イエス様を愛していたからでもありますが、同時に、イエス様が強かったからとも言えます。強かったイエス様が無抵抗で弱くなった時、彼らはそれでもイエス様に従い続ける自信を失いました。自分を助けてくれる人には従っても、自分に面倒をかける人からは離れたくなるのが人間です。結局、全てにおいて自分の身の安全が第一でした。
 私たちは、弟子たちの行動を許せないと思うでしょうか、仕方ないと思うでしょうか?身の危険が迫る中で、どれだけの人が自己防衛に走らずに、自分の命を失っても正義のために戦えるかと言えば、多くの人は弟子たちと同じ行動を取るでしょう。正義を求めることも、弱い者を助けることも大切だけれども、そのために自分の命と生活を犠牲にできる人は、そんなに多くありません。
 でも、その結果、不正義と悪が許されます。強い者がより強く、弱い者が苦しみ続けます。イエス様の時代も現代も、変わらない世界の現状です。それは、私たち一人ひとりの罪と弱さが許している現実です。だから、イエス様はこの世界に来られ、十字架に架かられました。


B. 自分の弱さに絶望する私たち (66-72)

 それでは、聖書の箇所を少し飛ばして、66-72節にいきます。イエス様が逮捕された後、ペトロがこっそりイエス様の裁判を見ようとついてきた場面です。

66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司の召し使いの女の一人が来て、67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、まじまじと見て言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」68 ペトロは打ち消して、「何を言っているのか、分からない。見当もつかない」と言った。そして、庭口の方に出て行くと、鶏が鳴いた。69 召し使いの女はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」71 しかし、ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。72 するとすぐ、鶏が二度目に鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出して、泣き崩れた。

 この時、ペトロは自分自身に絶望しました。イエス様を誰よりも愛していると自分でも信じて疑わなかったのに、自分はイエス様よりも自分自身を愛していたことに気が付きました。イエス様と一緒なら死んでもいいと言ったのに、実際は怖くてできない自分がいました。そうしたいという意志はあっても、行動する勇気はありませんでした。自分が情けなく、腹立たしく、でも怖いのは変わらず、自分で自分を変えることはできないという、自己嫌悪と無力感の泥沼にはまったような状態でした。
 イエス様を信じてついていくということは、このペテロの体験を何度も繰り返すことです。イエス様を信じたいと思っても、時に不安と恐怖で信じられないことがあります。イエス様のために自分の人生を捧げたいと願っていても、そうできない自分に気がつくこともあります。この世界で正義が行われることを望んでいても、逃げ出したくなったり、諦めたくなったりします。それは、誰にも最初からそんなことをできる力はないからです。イエス様を信じることも、愛することも、それを行動にしていくことも、全て、自分の力でできる人は誰もいません。私たちは、自分には力がないという事実に、何度も引き戻されます。自分に絶望し、自信は打ち砕かれます。
 でも、それが私たちとイエス様の新しい関係の始まりです。そんな私たちのためにこそ、イエス様はこの世界に来られ、十字架で死なれました。私たちの弱さを初めから知っておられ、私たちがその弱さの中で絶望したままにならないように、道を開いてくださいました。


C. イエス様が私たちを変える

 ペトロは、この後、復活されたイエス様に出会い、聖霊を注がれて、変えられました。投獄されても拷問を受けても、恐れずにイエス様のことを伝え続け、初代の教会の重要なリーダーの一人になりました。最期は迫害によって殉教したと言われています。そんな揺るがぬ信仰を持ったペトロが、十字架の出来事の前にはイエス様を裏切り、3度イエス様を否定したというエピソードは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、全ての福音書に記録されています。それはおそらく、ペトロ自身がそのことを繰り返し人々に語ったからだと言われています。ペトロは、自分の信仰が自分で生み出したものではないということを、誰よりもよく分かっていたのかもしれません。イエス様を裏切ったという苦い記憶は、後のペトロにとっては、そんな自分をイエス様は最初から知っておられ、選んで弟子にし、愛してくださったという希望に変わりました。自分のような者のためにこそ、イエス様は十字架で死なれたのだと分かりました。そして、だからこそ、その希望を人々に伝え、励ますことができました。
 神様が私たちに求めるのは、力強く揺るがない心ではなく、打ち砕かれ悔いる心です。自分が救いようもない弱い人間だと絶望する時、私たちは自分の力をあきらめて、神様の愛に頼ることができます。そして、自分で神様の愛を勝ち取るのではなく、ただ神様の憐みによって与えられている愛を受け取ることができます。それが、絶望の中で与えられる強さであり、私たちの弱さにこそ神様の強さが現れるということです。そのようにして、イエス様は私たちを造りかえ、強めてくださいます。
 
 今日はじめに戦争と原爆のことをお話ししましたが、今は冷戦時代よりもさらに核戦争が起こる危険性は増し、過去最悪だと言われています。核廃絶への道のりはまだまだ遠いと思われるような現実ですが、それでも、過去75年間で着実に世界に核廃絶の運動は広がってきました。それは、思い出したくない辛い経験を語り続けてくれた人たちがおり、その人たちと共に行動を始めた人たちがいるからです。自分が一番大事、自国が最優先という人間の愚かさは変わりませんが、イエス様はそんな人間の世界に来られ、私たちを救おうとされた方です。私たち一人ひとりがイエス様によって変えられ、自分の力によってではなくイエス様の力によって、イエス様の手足となってこの世界で働けるように、願い求めていきましょう。

(お祈り) イエス様、私たちの心を打ち砕いてください。私たちがあなたの助けを心から求められるようにしてください。自分自身の抱える問題も、世界が直面している多くの課題も、あなたが導いてくださることを求めます。私たちが不安や恐れに支配されないように助けてください。そして、あなたが何を教えようとしてくださっているのか、私たちに何を望んでおられるのか、分かるように教えてください。私たちがあなたによく聞くことができるように、あなたの霊を私たちに注いでください。戦争の過ち、原爆の過ちを繰り返さないように、私たち一人ひとりにできることを教えてください。自分の身近なところでも、世界の裏側でも、あなたの愛が広がるために何ができるのか、できることがあるのか、示してください。私たちは小さい者ですが、あなたの大きな働きに加えられている責任を、喜んで果たしていくことができますように。あなたの国がこの世界に来ますように。


メッセージのポイント

私たちはペトロと同じように、自分の弱さに気が付かない時は、自分に自信があり、他人に対して傲慢です。神様も自分の良さを認めて喜んでくださるだろうと勘違いしています。神様が求めるのは、打ち砕かれ、悔いる心です。自分が救いようもない弱い人間だと絶望する時、私たちは自分の力をあきらめて、神様の愛に頼ることができます。そして、自分で神様の愛を勝ち取るのではなく、ただ神様の憐みによって与えられている愛を受け取ることができます。それが、絶望の中で与えられる強さであり、私たちの弱さにこそ神様の強さが現れるということです。

話し合いのために

1. 自分の弱さに絶望した経験を教えてください。

2. イエス様は私たちをどうやって変えられますか?

子供たちのために

ペトロはたぶん、浮き沈みの激しい、でも裏表のない人だったのだと思います。イエス様と一緒なら死んでもいいと言い張った直後に、恐怖のあまり逃げ出して、捕まりそうになると「そんな人知らない、自分は何も関係がない!」と言ってしまいます。決して強くなく、カッコよくもなく、情けない人でした。でも、その人が、復活したイエス様と出会い、聖霊様をうけて強くなりました。それは決してペトロ本人の力ではなく、イエス様によって与えられた強さです。子どもたちも、自分は失敗した、情けない、と思うことが時々あると思います。そんな時、イエス様はみんなを責めるのではなく、最初から許しています。そして、次はどうすればいいか、イエス様は何を望んでおられるのか、よく聞くことだけを求めておられます。