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イエス様は私たちの代わりに死なれ、
私たちはイエス様の代わりに生きる
マルコによる福音書15:21-41
池田真理
今日はマルコによる福音書のクライマックス、15:21-41を読んでいきます。イエス様が十字架で死なれる場面です。これは聖書の記録する出来事の中で最も大切な出来事であり、イエス様を信じている私たちにとっては、歴史上で最も重大な出来事でもあります。イエスというひとりの人物がどのような死を遂げたのか、その死にどのような意味があるのか、聖書を少しずつ読みながら考えていきたいと思います。まず21-27節です。
A. イエス様の死
1. 社会から排除されて(21-27)
21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。22 そして、イエスをゴルゴタという所、訳せば「されこうべの場所」に連れて行った。23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/誰が何を取るか、くじを引いて/その衣を分け合った。25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 (28)
当時、犯罪者の処刑は町の中ではなく外で行われました。そして、十字架刑の決まった者は、自分が架けられる十字架を自分で背負って処刑場まで運ばされました。イエス様はこれまでに受けた暴力によってすでに衰弱しており、十字架を自分で背負うことができなかったので、通りがかりのシモンという人が無理やり担がされることになりました。イエス様は何の罪も犯していませんでしたが、犯罪者とされ、社会から排除されるべき存在にされました。人々は、血だらけで汚いイエス様のことを、憎み、侮辱し、早く目の前からいなくなってほしいと願いました。
2. 生き方の全てを否定されて(29-32)
29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。
ここでイエス様を罵っている人たちは、イエス様が何を教えていたのか、どんな行いをしていたのか、少なくとも見聞きしていた人たちです。イエス様が多くの人を助けていたことを知っていました。でも、そのイエス様の生き方と教えを理解せず、全てを否定しました。そして、イエス様のしてきたことは全て無意味だったのだと、間違っていたのだと蔑みました。十字架で苦しむイエス様は、彼らには人生の敗北者としか思えませんでした。
3. 神様に見捨てられて(33-34)
33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時に及んだ。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
イエス様はこの時、完全に孤独でした。人から見捨てられるだけでなく、神様からも見捨てられたのは、歴史上でイエス様ただひとりです。それは、肉体の死よりも恐ろしい、完全な死です。イエス様は、神様から切り離され、神様から忘れられた存在になりました。肉体的にも精神的にも極限の苦痛を味わっている自分のことを、神様は助けてくださらず、無視しておられるという絶望は、どんな絶望よりも深い絶望です。自分の存在が否定され、孤独と無力感しかありません。
4. そのまま死んでしまう(35-37)
35 そばに立っていた何人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。36 ある者が走り寄り、海綿に酢を含ませて葦の棒に付けイエスに飲ませ、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言った。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
イエス様は、そのまま死んでしまいました。無実の罪を着せられ、名誉を回復されることなく、痛めつけられ、侮辱されたまま。仲間に見捨てられ、神様にも見捨てられ、孤独と絶望の中にいるまま、死んでしまいました。それが、歴史上のイエスというひとりの人物の死でした。
でも、ここからが新しい歴史の始まりでした。
B. 私たちの代わりに死なれた神様
1. 「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」(38)
38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
神殿の垂れ幕というのは、神殿の最も聖なる場所とその外を隔てる幕です。神様と人間の間には、決して埋めることのできない溝があるということの象徴です。私たち人間がどんなに努力をしたところで、神様と対等になることは不可能です。でも、イエス様が十字架で死なれたことによって、その溝はなくなりました。イエス様は、私たちと神様を隔てていた幕を、真っ二つに裂いてしまったのです。それは、イエス様が歴史上のひとりの人であったと同時に、この世界を作られた神様ご自身であったからできたことです。
イエス様が残酷な人間の暴力に苦しまれた時、それは神様ご自身がその暴力に耐え、同じように暴力に苦しむ全ての人を知っておられる証拠になりました。また、イエス様が理不尽な不正義によって社会から排除された時、それも、神様ご自身が人間の社会の理不尽さと不正義に苦しみ、同じ苦しみを味わう全ての人と共に苦しまれたということでした。人からの無理解も侮辱もイエス様は受け止め、神様もそれを知っています。そして、何よりも、イエス様が神様から見捨てられ、孤独と絶望を味わわれたのは、神様ご自身が私たちに決してそんな絶望と孤独を味わってほしくなかったからでした。神様は自ら私たちの身代わりになり、私たちが辿るはずだった完全な孤独と絶望を自分で引き受けて終わりにしてしまいました。私たちの側からは決して渡ることのできなかった溝を、神様の側から橋を渡して、渡ってきてくださいました。それほどに、神様は私たちのことを愛し、私たちが不完全なままでも、共に生き、共に愛し合いたいと願ってくださったからです。
2. 全て神様の計画だった
このことは全て、神様が人間を造られ、人間が神様に背を向けた時から、ずっと神様が計画されていたことでした。このイエス様の十字架の場面には、詩編22篇と69篇の言葉がたくさん含まれています。詩編の作者はもちろんイエス様の十字架を知りませんでしたが、神様の霊に導かれて歌った詩には、イエス様の苦しみがはっきりと預言されていました。詩編22篇の一部を読みます。
2 わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか。
7 だが私は虫けら。人とは言えない。人のそしりの的、民の蔑みの的。
8 私を見る者は皆、嘲り、唇を突き出し、頭を振る。
9 「主に任せて救ってもらうがよい。主が助け出しくれるだろう。主のお気に入りなのだから」と。
18 私は骨をみな数えることができる。彼らは目を留めて、私を眺め回す。19 私の服を分け合い、衣をめぐってくじを引く。
神様ご自身が人となられてこの世界に来られ、しかも殺されてしまうなんていうことは、誰も予想していませんでした。でも、神様は確かにずっとそのことを計画しておられました。
3. 復活の約束
そして、神様の計画はイエス様の死で終わりではありませんでした。イエス様は死からよみがえられました。それはまさに新しい歴史の始まりでした。イエス様の復活によって、私たちは、私たちの罪も体の死も私たちと神様を引き離すことはできないと知りました。この世界に生きている限り、私たちの罪の性質は変わらず、相変わらず不完全で、間違いを犯しますが、それでも神様に愛され、神様を愛して生きることが許されました。それが、イエス様の死と復活によって私たちに与えられた新しい生き方であり、永遠の命の始まりです。イエス様が死なれ、復活して天に帰られた今、私たちはイエス様の代わりにこの世界と人々を愛して生きる使命を与えられています。それは具体的にどのように生きることなのか、今日の場面に登場している人々が教えてくれています。
C. 私たちはイエス様の代わりに生きる
1. キレネ人シモンのように(21)
まず、21節に登場したキレネ人のシモンです。この人が与えられた役割は、とても不思議です。イエス様が運ぶはずだった十字架を、ただそこに居合わせたというだけで、無理やり担がされました。イエス様が運べなかった十字架を、イエス様とは何の関係もなかったシモンが担ぎました。結果的に、シモンはイエス様の苦しみの一部を引き受けたと言えます。私たちがこの世界で神様を愛し、人を愛して生きるとは、このシモンのようになることだと思います。人間の罪によって傷つき、弱り、苦しんでいる人たちの苦しみを、イエス様の代わりに共に担うことです。シモンがただゴルゴタの丘まで十字架を運んだだけで、十字架につけられたのはシモンではなくイエス様だけだったように、どんな人の苦しみも最終的に担えるのはイエス様しかいません。それでも、その途中のほんの一部の苦しみを、共に担うことはできます。マザーテレサは、自分の働きのことを、イエス様の苦しみの足りないところに出て行くことだということを言っていました。互いの人生の中で、ただの通りがかりの他人同士であっても、私たちは互いの苦しみの一部を担うことができます。それは、イエス様の苦しみの一部を担うことでもあります。
次に注目したいのは39節に登場するローマ軍の百人隊長です。
2. 百人隊長のように(39)
39 イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
誰もイエス様のことを神様の子だと理解しなかった中で、弟子でもユダヤ人でもないローマ軍の百人隊長が最後にそのことを認めたというのは、これもとても不思議なことです。そんなことはありえないと思ったのか、マタイでもルカでもこの一文は書き換えられています。でも、マルコは分かっていたのだと思います。イエス様が本当に神の子だったと告白することは、人間の力では到底できないことであると。十字架で惨めで不名誉な死を遂げたひとりの人が、この世界を造った神様ご自身であったなんていうことは、到底常識では考えられないことです。そうだと教えられても、本当にそれを理解して信じることは、人間の力では不可能です。この百人隊長がイエス様は本当に神の子だと告白できたのは、この人の力によるのではなく、神様の霊がこの人に働いたからです。私たちも同じで、二千年前に十字架で殺されたひとりの人を神様と信じるなんていうことは、私たちの思考力や理解力によっては不可能で、ただ聖霊様によって可能になることです。いつもただ聖霊様に頼って、イエスは神の子であり、神様は私たちのために十字架で苦しまれたのだと、確かめ、伝えていきましょう。
次に出てくるのは女性たちです。40-41節です。
3. 女性たちのように(40-41)
40 また、女たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。41 この女たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、その後に従い、仕えていた人々である。このほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た女たちが大勢いた。
この時、この女性たちは絶望と悲しみの中にいました。慕ってきたイエス様が酷い仕方で死んでしまうのを、ただ遠くから見ていることしかできませんでした。イエス様を失い、途方に暮れていたと思います。それでも、次回読んでいくように、この女性たちのイエス様に対する愛は変わっていませんでした。これからどうしてよいか分からないまま、イエス様の墓に行き、遺体のお世話をしようとしました。そして、彼女たちは復活したイエス様に出会うことになります。イエス様は、決してご自分を愛する者たちを悲しませたままにはしません。必ず、ご自分は生きておられることを示してくださいます。私たちも、時にイエス様を見失って途方にくれたとしても、イエス様を愛する心をもっている限り、心配はありません。イエス様の方が必ず私たちを探し出して、会いに来て下さいます。そして、女性たちがそうだったように、私たちにも、イエス様が生きておられる喜びを他の人に伝える使命が与えられています。
イエス様は私たちの代わりに死なれ、私たちはイエス様の代わりにこの世界で生き、愛する使命を与えられています。イエス様と共に苦しみ、悲しむ人と共に悲しみ、それでも、そんなこの世界の中でイエス様が生きておられる喜びを分かち合っていきましょう。
(祈り) イエス様、あなたは私たちの罪を担って十字架で苦しまれました。互いに傷つけ苦しめあっている私たちを、この世界を、どうぞあなたの愛で変えて下さい。私たちの経験する苦しみ、痛みで、あなたの知らないものはありません。心の痛みも体の痛みも、あなたは知っておられます。どうか、私たちが苦しみの中であなたと出会い、力をいただき、立ち上がっていくことができますように。そして、同じように苦しみの中にいる人たちに、あなたの愛を届けることができますように。私たちの力ではなく、あなたの力が、私たちを変え、動かして下さい。イエス様、あなたの揺るぎない愛に感謝し、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
イエス様は十字架の上で孤独でした。極限の肉体的苦痛を味わいながら、社会的に排除され、生き方を否定され、仲間に見捨てられました。神様は存在しないか、存在しても、イエス様の苦しみに無関心であるかのようでした。それは全て、私たちがもう同じ思いをしなくてすむようにするためでした。どんな状況でも、神様は決して私たちを見捨てず、ひとりにせず、苦しみを共に苦しみ、悲しみを共に悲しんでくださる方です。イエス様は私たちの代わりに死なれ、私たちはイエス様の代わりに生きる使命が与えられています。
話し合いのために
- イエス様の十字架によって、私たちはもう絶望する必要はなくなりました。それでも時に絶望感を持つのはなぜでしょうか?また、そのような人をどのように励ませば良いですか?
- イエス様の代わりに生きるとは、あなたにとって具体的にどういうことですか?
子供たちのために(保護者のために)
イエス様の十字架の場面で、おそらく子供たちにとって一番難しいのは、「なぜ私をお見捨てになったのですか」というイエス様の叫びなんじゃないかと思います。子供たちがどう思っているか聞いてみてください。神様は、本当にこの時、イエス様を見捨てました。神様ご自身であるイエス様が、私たちの代わりに苦しまれ、絶望を味わいました。神様は私たちに同じ思いをしてほしくなかったからです。難しいかもしれませんが、話してみてください。