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礼拝をもう一度 *****に!
詩編130, 申命記4:27-29, ルカ5:37-39, マタイ18:18-20
永原アンディ
今日は、詩編のシリーズを離れて、私たちの献げる礼拝についてお話ししたいと思います。何度もお話ししてきましたが、礼拝は私たちの生活の中心です。日曜日の共にに集まる礼拝だけが礼拝ではないともお話ししてきました。しかし、この共に献げる礼拝が日々なされる礼拝の中心であることも確かです。
しかし、このパンデミックのこともあるのですが、私たちの礼拝を、現状で満足してしまって良いのか?マンネリ化してはいないか?と言う思いが、ここのところ私の心から離れないのです。 皆さんの思いは様々だと思います。“グレイト”でもいいのですが、“深いものに”でも、“イキイキとしたものに”でも、“みのり多いものに”でも、“感動的なものに”でもいいように題名ではブランクにしておきました。どんなに満足していたとしても、もっと〇〇な礼拝を求めるのは良いことです。 もっともっと神様に、喜ばれる礼拝を捧げたいというのは健康な願いです。 そのために皆さんにも協力していただきたいことを4つお話しします。
1. 期待することによって(詩編130)
まず第一に「期待すること」で礼拝はもっと良いものになります。 詩編130篇を読みます。
主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。
わが主よ、私の声を聞いてください。
嘆き祈る声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが過ちに目を留めるなら
わが主よ、誰が耐えられましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあります。
あなたが畏れられるために。
私は主を望みます。
わたしの魂は望みます。
主の言葉を待ち望みます。
私の魂はわが主を待ち望みます
夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。
主のもとに慈しみがあり
そのもとに豊かな贖いがある。
その方こそ、イスラエルを
すべての過ちから贖ってくださる。
皆さんはどれほどの期待を持って礼拝に望んでいるでしょうか?詩人はとても厳しい状態に置かれながら、私の祈りを聞いてくださいと祈っています。自分たちがどれほど神様に背を向けてきたかも自覚しています。それでも、主の働きが現れることを期待して待ち望んでいます。良い主は、必ず良いことをしてくださる、必要なことを、必要な時に。いつも、主が語りかけてくださることを期待して礼拝しましょう。
2. 集中することによって(申命記4:27-29)
第二に「集中すること」で礼拝はもっと良いものになります。人間には「慣れる」という能力があります。とても大切な能力ですが、礼拝を捧げ続けるためには気をつけなければならないことです。礼拝が週毎のイベントとなって、体はそこにあっても、心はそこにないということが起こるのです。形だけ礼拝をしても、本当に礼拝したことにはなりません。それはフェイスブック・ライブで礼拝している人にも言えることです。本当に期待を持って、集中して礼拝するなら、ここにいられなくても本当に礼拝することができます。ここにいるより、集中することは少し難しいかもしれませんが、工夫すればできます。例えばLIVEでは難しくても、録画されたものを一人になれる場所で再生してもいいのです。 申命記4:27-29の言葉を聞いてください。
主は、あなたがたをもろもろの民の間に散らされる。しかし主が追いやる先の国々で僅かな者は残される。あなたがたはそこで、人の手で造られた神々に仕えなければならない。それらは木と石でできていて、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない。しかし、その場所から、あなたの神、主を探し求め、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば、あなたは主を見出すことができる。
著者も、とても礼拝することに集中しにくい環境に置かれているようです。しかしそれでも主を見出すことができると書かれています。どうしたら、そうできると書かれているでしょうか?「心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば」とあります。このお話の後、空気を入れ替えて、主に向かって歌います。その時は、他のことに気を回さないでください。ただ手に向かって口を開き、主か語られることを期待して耳をそば立て、心が解放されること、体が癒されることを期待して自分の感覚にも注意しましょう。他の人のことはいいのです。もちろん自分がうまく歌えているのか?なんて考えてはいけません。 主がしてくださることに期待して、主にだけに心を向けて礼拝してください。
3. 柔軟になることによって(ルカ5:37-39)
礼拝の素晴らしさを受け取れない理由は、期待がないこと、集中できていないことだけではありません。第三に「柔軟になること」で礼拝はもっと良いものになります。もちろん、体ではなく心の柔らかさです。ルカ5:37-39を読んでみましょう。
また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も駄目になる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 また、古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。
集中が欠けることと同様に、「慣れ」は心の柔らかさを失わせるものでもあります。ユアチャーチでは多くの教会が採用している厳密なプログラムがありません。例えば、「招きの言葉、賛美歌、聖書朗読、祈り、二つ目の賛美歌、メッセージー、祈り、献金、献金感謝の祈り、3番目の賛美歌、祝福の祈り」といった具合で、それぞれの教派で特徴があります。 すでにこのような礼拝に慣れている人にとってはこのような礼拝は安心です。居心地もいいのです。それはここで言う古い革袋です。しかしそこには落とし穴があります。そこにいるだけで礼拝したと錯覚する恐れがあるのです。私たちはユアチャーチを始める時、そのような枠組みでは収まらない人々(新しいぶどう酒)が、心からの礼拝を捧げることのできる新しい革袋になろうと決心しました。古い革袋はいっぱいありますが、新しい革袋はあまりなかったからです。
しかし新しい皮袋も時間が経つと柔らかさを失って柔軟ではなくなっていきます。 <また、古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。>とあるように、油断していると、そこにいる人にだけに心地の良い礼拝に、教会になってゆくということです。しかしそれではユアチャーチという名前は嘘になってしまいます。アワチャーチに変更しなければなりません。私は皆さんに新しい皮袋であり続けてもらいたいと思います。柔軟でいて欲しいのです。教会に初めてきた人が、自分がいつ来ても歓迎されていると感じる礼拝です。しばらく足が遠のいても、気が向けば気軽に参加できる礼拝です。若者の教会です。もちろん、実年齢のことではありません。心の若さ、柔軟性を持ち続けて欲しいのです。 教会のあらゆる面で必要なことですが、今日は特に、歌うことについての柔軟性についてお話しします。
誰にでも、好きなワーシップソングもあれば、それほどでもないものがあるのは当たり前です。1. で期待することの大切さについて話しましたが、それは今日は自分の好きな曲があるかなあというような期待であっては困るのです。
ワーシップリーダーは、その日のメッセージのノートを読んで選曲しています。メッセージをする人も、時々この曲を入れてくださいとリクエストしますが、普通はワーシップリーダーにお任せです。ワーシップティームリーダーも必ずしもリスト通りに歌うわけではなく、歌を入れ替えたりします。なぜだと思いますか?それは聖霊が導いてくださると信じているからです。いつも、起こることではありませんが、聖霊はワーシップリーダーに、それはやめてこの曲を歌いなさいと勧めることがあるからです。 ですから、好きかどうか、歌い慣れているかどうか、知っているかいないかなど、その曲自体に注目しすぎないで欲しいのです。礼拝は歌を美しく合唱することではありません。神様とあなたが親しく共に過ごす時です。言ってみれば歌うことはそのための乗り物のようなものです。 リーダーは、突然、演奏することをやめて沈黙するかもしれません。それは、リーダーが神様にそう求められたと感じたからです。そのようにワーシップが意外な展開になった時、硬い心は「あれ、変だな、居心地が悪いな」と受け取ります。しかし柔軟な心は「あれ、特別のことが起こっているみたいだ。神様が何か新しいことをしてくださるかも」と期待するのです。そのような礼拝の中では聖霊が自由に力強く働いてくださいます。
4. 一致することによって(マタイ18:18-20)
最後に「一致すること」で礼拝はもっと良いものになるということをお話ししたいと思います。マタイ18:18-20を読みます。
よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。 また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
一致する、心を合わせるというと、ただ神様にだけ心を集中するという2番目のことと矛盾を感じるかもしれませんが、ここでいう一致とは、互いに合わせるということではないのです。声を合わせてきれいにハモるということではありません。ここでいう一致とは、今までお話ししてきた、期待することにおいて、集中することにおいて、柔軟であることにおいて一致しているということです。それはイエスがこの教会を通して何をなさろうとしているのか?ということについての共通の認識でもあります。イエスはそのような人々の中にいてくださるとおっしゃいました。主がいてくださらない礼拝ほど虚しいものはないでしょう。ですからこのこともとても重要なことです。それは同じメッセージを聞くことや、普段からミニチャーチなどで互いに繋がっていることによって育まれるものです。
(祈り) 神様、あなたに礼拝を捧げること何よりも大切にする共同体として、私たちを集めくださいました。あなたに期待してこの礼拝捧げます。どうぞあなたの霊を、私たちのうちに満たしてください。癒し、慰め、喜びで満たし立ち上がらせてください。私たちに新しい力を満たし、この世界に私たちを送り出し、あなたの働きをさせてください。イエスキリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
あなたの礼拝は単なるルーティーンになってしまっていないでしょうか?もし、かつて礼拝は〇〇〇〇のようなものだったのに、今はそうでなくなってしまったと感じているとしたら、礼拝に臨む自分の心を点検してみる必要があります。なぜなら神様は、なんら変わることなく、恵みを豊かに礼拝の中で表していてくださるからです。
話し合いのために
- 自分の礼拝をより *****なものにするために、あなたに必要なことは?
- どのようにしてそれを実現しますか?
子供たちのために(保護者のために)
子供と一緒にワーシップすることがあるでしょうか?日曜ごとに礼拝に来られる状況なら、子供たちにも話し、一緒に歌いたいところだったのですが、今はそういうわけにはにいきません。子供達と何曲か一緒に歌えるチャンスがあるといいですね。そしてそれはただ歌っているのではなくイエス様と対話をしているような時なのだと教えてあげてください。