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マルコはイエス様復活後の物語を私たちに委ねた
マルコ15:42-16:8
池田真理
マルコによる福音書はいよいよ今日で終わりです。聖書には、今日の箇所以降にも1ページほど続きが書いてありますが、その部分(16:9-20)は元々マルコが記録したものではなく、後になって加筆されたものだと分かっています。16:8で終わるのはあまりに唐突で不自然なので、本当にマルコがそこで終わりにしたのか、それとも本当は続きがあったのに早い段階で失われてしまったのか、誰にも結論は出せません。でも、聖書が編集された当時の人たちも、これは不自然だと思って、他の福音書にならって少し加筆したということは確かです。今日は、マルコが16:8でわざと唐突に終わりにしたんだと仮定して、読んでいきたいと思います。まず、15:42-47です。
A. イエス様の死:私たちの罪がもたらすもの (15:42-47)
15:42 すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。45 そして、百人隊長に確かめたうえで、遺体をヨセフに下げ渡した。46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がしておいた。47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの納められた場所を見届けた。
前回のキレネ人シモンに引き続き、ここでもここにしか出てこない、アリマタヤのヨセフという人物が登場しています。彼はイエス様の遺体を十字架から取り降ろして、お墓に埋葬しました。神様は彼に、イエス様の死の証人となる役割を与えたと言えます。十字架で息を引き取ったイエス様は、確かに死なれ、お墓に入れられて、お墓の入り口は石で閉じられたということの証人です。ここに居合わせた女性たちも証人です。
私たちも、ヨセフや女性たちと同じように、イエス様は確かに一度、肉体的に死なれたのだということを受け止め、その証人の役割を与えられています。それは、なぜイエス様が死ななければならなかったのかを知ることから始まります。イエス様は、私たちの罪のために死なれました。人を殺し、神様を殺す罪です。実際に殺人を犯していなかったとしても、誰かの存在を否定したり、自分が神であるかのように誰かのことを支配しようとすることは、人を殺しているのと同じです。そして、神様なんて必要ないと思うことや、自分が自分の人生の主人であるとすることは、神様を殺しているのと同じです。私たちはそうやって互いに苦しめ合い、自分自身の首を絞め、この世界に苦しみをもたらしています。その全てを、イエス様は十字架で背負われました。そして、イエス様がお墓に埋葬されたのと共に、私たちの罪と苦しみの全てもイエス様と一緒にお墓に埋められました。イエス様の体と共に私たちの罪も死にました。私たちはまだ罪の性質を持っていますが、それは古い性質が残っているだけで、もう私たちに死をもたらすことはなくなったのです。私たちはそのことを世界に伝えていく、イエス様の死を証していく証人です。
それでは最後の16:1-8を読んでいきます。
B. イエス様の復活:私たちに恐れを起こす神様の力 (16:1-8)
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2 そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。3 そして、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石がすでに転がしてあった。5 墓の中に入ると、白い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、女たちはひどく驚いた。6 若者は言った。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」8 彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
ここで、元々のマルコによる福音書は終わりです。多分、これを読んだ私たちに一番印象に残るのは、女性たちの驚きと恐怖の大きさだと思います。女性たちは、目の前の異様な光景を見て、また、見たこともない白い衣の若者の言葉を聞いて、何か自分たちの想像を超えたとんでもないことが起こったことを理解しました。でも、それが本当に何かは理解しきれず、混乱状態だったのだと思います。彼らが感じた恐れは、人間を超えた存在に対する恐れです。それは神様の力を前にした人間が持つ当然の恐れでした。
私は、イエス様を信じるようになる前、二千年前に生きたひとりの人物が死から生き返ったと信じるなんて、とても怪しい信仰だと思いました。それを信じるとしたら、自分が相当危険な領域に踏み入れることになると警戒しました。でも、それがもし本当のことなら、イエスという人は確かに普通の人間ではなかったのだろうし、人間を超えた存在の力が働いていたのだろうと思いました。それは、その存在が直接この世界に関わっていることを意味し、私にも関わりがあるということだと思いました。もしそうだとしたら、とんでもないことだと思いました。私はそんなこと知らずに生きてきたし、それが本当のことだと信じるとしたら、生き方を根本から変えなければいけないと思ったからです。それは恐ろしいことでした。
イエス様の復活は、私たちの生き方を根本から揺さぶる出来事です。それまで関わりのなかった、または遠い存在だった神様という存在が、突然目の前に現れるからです。それだけでは、ありえないと否定するか、ただ恐ろしいだけで、私たちはどうすればいいか分かりません。でも、そこから先は、完全にイエス様の仕事です。イエス様は、私たちそれぞれに、一人ひとりにしか分からない形で、自ら会いに来られます。イエス様と個人的に出会って初めて、私たちはイエス様を信じることができます。それは一人ひとりとイエス様だけの物語です。私は、マルコが復活後のイエス様と人々の再会を記録しなかったのは、イエス様との出会いの物語を読者である私たち一人ひとりに委ねたかったからなんじゃないかと思います。イエス様復活後の物語は、女性たちのものであり、弟子たちのものであり、私たちのものでもあります。マルコによる福音書の続きは、私たち自身に委ねられているということです。
でも、参考に、女性たちと弟子たちがどのように復活したイエス様と再会したのか、他の福音書を参考に思い起こしておきましょう。
C. それぞれが復活したイエス様と出会う
1. 女性たちのように
復活したイエス様と最初に再会したのが女性たちだったということは、全ての福音書が記録していることです。それは、彼らがイエス様を失ってもずっとイエス様のそばにいたいと願い、そのように行動したからです。悲しみ、嘆き、絶望しながらも、イエス様を愛し続け、そばにいようとしたから、彼らは誰よりも先にイエス様に再会することができました。彼らがイエス様のことをそれほどに愛していたのは、彼らがイエス様とずっと一緒に旅をし、イエス様の教えや行動をそばで見聞きしていたからです。その経験が、たとえイエス様が十字架で死んでしまっても、彼らの心をイエス様から引き離しませんでした。
私たちがイエス様と出会うということは、イエス様の言葉と行動を知ることから始まります。私たちはもう、女性たちのように、目に見える体を持ったイエス様と一緒に旅をすることはできませんが、聖書や先にイエス様と出会った人たちの話を通して、イエス様のことを知ることができます。そして、そこで知ったイエスという人のそばにいたいと思うなら、完全にイエス様のことが分からなくても、イエス様の方から会いに来てくれます。復活という非常識な出来事のことも、イエス様が理解できるようにさせてくれます。これは、初めてイエス様と出会う時だけでなく、イエス様を信じていても時にイエス様を見失ってしまう私たちにも同じことが言えます。全てのことは分からなくても、絶望していても、イエス様のそばにいたいと願うなら、イエス様は必ず会いに来てくださいます。そして、マグダラのマリアの名前を呼んで自分だと気付かせたように、私たち一人ひとりの名前を呼んで、そばにいることを教えてくださいます。
2. 弟子たちのように
最後に、これまでの十字架の場面でも復活の場面でも全く登場しない、弟子たちのことです。彼らは、人々を恐れ、イエス様を見捨ててしまった罪悪感と自己嫌悪の中で、家の中に閉じこもっていました。イエス様のそばにいたいと願いながら、恐れに負けてしまいました。イエス様は、そんな彼らのところにも会いに行かれました。鍵をかけて閉じこもっていた家の真ん中に、イエス様は入ってこられました。また、今日読んだマルコの箇所でも、天使は女性たちにこう語りかけていました。
7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』
イエス様のことを見捨てて逃げてしまった弟子たちのことを、神様は最初から赦して気にかけていました。ここでペトロの名前が特に出されているのは、ペトロがイエス様のことを三度否定したからです。三度否定したペトロのことも、神様は赦していました。ペトロは、復活したイエス様と再会して、自分の罪が赦されていること、イエス様は自分のことを変わらずに愛しておられることを知りました。
私たちは時に、暗い絶望の中でイエス様のそばにいたいと願うことさえ難しいと感じることがあります。罪悪感と自己嫌悪で、自分を隠すことしかできず、生きる価値を失ったとさえ思うかもしれません。それでも、イエス様はそんな私たちの心の真ん中に入ってこられる方です。そして、十字架の釘の跡が残る手を見せて、確かにイエス様は私たちのために死なれ、しかし生き返られたのだと教えてくださいます。イエス様の十字架は、神様が自分の命を捧げるほどに愛しておられる証です。そして、よみがえられたイエス様は、私たちの罪と死がもう私たちを支配しないことの証です。
イエス様を死からよみがえらせた神様の力は、私たちにも働いています。私たちは一人ひとり、イエス様と出会い、再会し、神様の愛と赦しを受け取ります。そして、どんな悲しみも喜びに変わること、どんな絶望も希望に変わることを信じる力を与えられます。それは、死から命が生まれる物語であり、私たち一人ひとりが自分で体験し、他の人につないでいくように委ねられている、今も続いている物語です。
(お祈り)神様、どうぞ私たちの心に入ってきてください。私たちが、自分の思いや他の人の言葉に惑わされずに、あなたの思いを知ることができるように助けてください。私たちは自分のことばかり考えてしまう罪の中にいますが、それでもあなたを愛して、他の人たちを愛する生き方もできるようにされています。それはあなたが十字架で払われた犠牲によって私たちに与えられた新しい命です。どうか、私たち一人ひとりが、あなたに罪を赦されていること、愛されていることをもっとよく知ることができるように、教えてください。そして、世界にもっとあなたの希望と愛が広がるように、私たちを用いてください。イエス様、あなたの犠牲と愛を心からありがとうございます。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
私たちは一人ひとり、死からよみがえられたイエス様に自分で出会う必要があります。それは、イエス様に死をもたらした私たちの罪を知り、同時に、イエス様を死からよみがえらせた神様の力を知ることです。私たちは、ただイエス様を通して、神様の愛と赦しを受け取り、どんな悲しみも喜びに変わること、どんな絶望も希望に変わることを信じる力を与えられます。それは、死から命が生まれる物語であり、私たち一人ひとりが自分で体験し、他の人につないでいくように委ねられている、今も続いている物語です。
話し合いのために
- あなたはイエス様が死からよみがえられたことをどうやって信じましたか
- 悲しみや絶望が消えない時、どうすればいいですか?
子供たちのために(保護者のために)
私たちはみんな、誰かからイエス様のことを教えてもらいました。子供たちの場合は親に教えてもらってきて、イエス様がいることは当たり前のことだと思っているかもしれません。でも、私たちはみんな、誰かが教えてくれたからイエス様を信じるのではなく、自分で「イエス様は本当にいるんだ」と経験する必要がありますし、そんな経験ができると期待していいのです。子供たちがこれまでに「イエス様は本当にいるんだ」と思ったことはあるか、聞いてみてください。なければ、みんなが求めれば必ずイエス様は応えてくださると教えてください。