イエス様の誕生に見る神様のこだわり

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イエス様の誕生に見る神様のこだわり

ルカによる福音書 2:1-14

池田真理

 アドベント3週目に入りました。今日はルカによる福音書2章を読んでいきます。まず1-7節です。 

A. ベツレヘムでなければならなかった 

1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

1. 皇帝の命令に従うしかなかったヨセフとマリア

 これがイエス様誕生の当時の状況です。ユダヤ人の住む地域はローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人にはローマ帝国に税金を支払う義務がありました。住民登録というのは、主に税収を計算する目的で行われました。ローマ帝国に従属した異民族であるユダヤ人に、それを拒否する権利はありませんでした。

 ヨセフとマリアも、新しく結婚した夫婦として、住民登録に応じなければいけませんでしたが、彼らにとってはそのタイミングが悪すぎました。マリアはイエス様を妊娠しており、もう臨月に入ろうかという時期だったからです。彼らが住んでいたナザレからベツレヘムへの距離は、徒歩で早くて4日かかる道のりでした。マリアの体を気遣いながらの旅では、おそらく1週間かそれ以上かかったのではないかと言われています。当時の一般の人々の旅というのは、行く先々で知らない人の家に泊めてもらったり、それが無理な場合は野宿の旅です。マリアの体のことを思ったら、できればそんな旅は延期したいところですが、彼らにはその選択肢はありませんでした。ローマ皇帝という強大な権力者の統治下にあって、支配された異民族の若い夫婦は、身分の低い小さい存在に過ぎませんでした。

一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。この人は証しのために来た。光について証しするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

2. あなたは現代の洗礼者ヨハネ (78-80)

 でも実は、これは皇帝アウグストゥスの思惑をはるかに超えた、神様の計画が実現するためでした。旧約聖書ミカ書5章にこうあります。

ミカ5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

ベツレヘムは、かつての偉大な王ダビデの生まれ故郷です。ダビデは死に、彼が築いた王国は内部から崩壊して滅びてしまいました。イスラエルの人々は、やがてダビデを超えた王様が現われ、今度は全世界を支配下において、自分たちを救い出してくださるという希望を持っていました。神様は、預言者ミカを通して、その王様はダビデと同じくベツレヘムから出てくると約束していました。この約束は、何世代にもわたって、イスラエルの人々の間で語り継がれてきましたが、人々の多くは忘れてしまっていました。覚えていたのは一部の聖書学者だけで、おそらくヨセフとマリアも覚えていなかったと思います。でも、神様はもちろん覚えていたので、イエス様はどうしてもベツレヘムで生まれなければいけなかったのです。

 旧約聖書の預言の成就が、なぜそんなに大切なことなのか、私たちにはあまりピンと来ないかもしれません。特に、ヨセフとマリアがベツレヘムまでの旅を強制されたことを思うと、神様はローマ皇帝と一緒になって、ご自分の目的達成のために彼らを苦しめたようにも感じます。でも、それは私たちの視野が狭いからです。

 神様は、永遠の昔からおられ、全ての時代の人間を愛しておられる方です。イエス様の誕生前に、その時を待ち望みながら死んでいった多くの人たちのことも、神様は愛しておられました。神様はご自分が彼らに約束したことを破ることはありませんでした。たとえ、その約束を覚えている人が少なくなっても、神様はその約束を守りました。人間の社会は移り変わって行っても、神様の計画は永遠の昔から変わらず、必ず実行されます。人間の権力者の理不尽さも、神様はご自分の良い計画のために用いることができます。私たちが、理不尽な状況を前にしても何もできない自分の存在の小ささに気がつく時、それでも神様の良い計画が進むことを願い続けましょう。そうすれば、私たちは自分の視野の狭さに惑わされずに、神様の大きな視野を少しだけ手に入れることができます。

 ヨセフとマリアは、お話しした通り、「自分たちは旧約聖書の預言を成就させるためにベツレヘムに行くのだ」とは思っていなかったでしょう。二人がベツレヘムに向かったのは、単にそれが皇帝の命令に従うために避けられなかったからでした。でも、神様はそんな小さい存在である彼らを選んで、時を超えた大きな計画のために用いたのです。


B. 飼い葉桶でなければならなかった 

1. 他に場所がなかったので仕方なく?  

 ただ、彼らの苦難はベツレヘムに着いてからも続きました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。 “…because there was no guest room available for them.” 仕方なく、マリアとヨセフは馬小屋に泊まり、マリアはそこでイエス様を産むことになりました。生まれたばかりのイエス様は、家畜のエサをいれる飼い葉桶に寝かされました。

 でも、この「他に場所がなかったので仕方なく」という、ヨセフとマリアにすれば選択の余地がないような消極的な受け身の状況においても、神様の意志が働いていました。イエス様は、旅先で泊まる場所もなかった親のもとに生まれ、飼い葉桶のような粗末な場所に寝かされなければならかったのです。それが神様の私たちに対する愛のしるしでした。続きの8-14節を読んでいきます。

8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 

2. 布にくるまれて飼い葉桶に寝かせられたイエス様は、やがて再び布にくるまれて埋葬される

 なぜ、飼い葉桶に寝かされたイエス様が、神様から私たちへの愛のしるしなのか、そのヒントが「布にくるまれて」という言葉にあります。イエス様はやがて十字架で死なれ、その遺体は、ユダヤ教の慣習に従い、布にくるまれて墓に納められました。ルカ23:53にこうあります。

ルカ23:53 (イエスの)遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。

布にくるまれるということ自体が重要なのではありませんが、イエス様は、その誕生から死に至るまで、弱く小さい存在になられたということです。イエス様は、最初から、十字架で死なれるために生まれて来られた方でした。私たち人間の罪を赦すために、自らがその罪によって苦しめられ、殺されることが、イエス様の生まれた理由でした。神様は、イエス様としてこの世界に生まれた瞬間から、そのことを伝えようとされていました。泊まる宿もなく、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされて、自分はいつでも私たちのために無力になって傷つく用意をしていると、示されました。
 人間の社会では、今日の箇所で最初に登場した皇帝アウグストゥスのような権力者が、人々を支配し、世界を動かしていると思われています。実際、権力者の判断が一般の人に与える影響は、民主主義が(一応)確立した現代においても大きいものです。でも、神様のやり方は違います。神様は権力で私たちを支配するのではなく、愛で私たちを支配することを願われます。強制的に私たちを従わせるのではなく、まず自分が私たちのことをどれほど愛しているかを示し、私たちにも同じように自分のことを愛してほしいと望まれました。神様の愛は、自分が傷ついて死んだとしても、私たちが救われるならそれでいいと思える愛です。その愛を伝えるために、神様はイエス様という一人の人となられて、この世界に来られました。本当は世界を一瞬で変えてしまうことができる力を持ちながら、私たちと共に生きることを選び、その力を放棄して無力になられました。
 私たちは一人ひとり、小さく弱い存在です。それでも、イエス様は誰のことも忘れることなく、共にいたいと願われています。そして、この世界を変えるために私たちを用いられています。「なぜこんなことが起こるのか」と思うような出来事の中で、自分には何もできないと思っても、神様はそれも大きな計画の中で用いられます。ベツレヘムにこだわり、貧しい生まれにこだわった神様は、私たち一人ひとりが喜びを持って人生を歩めるように、決してあきらめずに導いてくださいます。

(祈り) 天におられる神様、あなたがなさることは大きく、私たちにその全てを見ることはできません。良いことも悪いことも、私たちに見えているのはほんのわずかです。でも、見えていないからこそ、あなたがしてくださることを期待します。今は私たちにできることは現実を受け止めることだけだとしても、あなたの良い計画を信じます。私たちを強い者とするよりも、弱いままであなたと共に歩む者にしてください。イエス様、あなたが全ての力を放棄して無力になられたのは、私たちのためでした。あなたの大きな愛に感謝します。イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様は、貧しく身分の低いヨセフとマリアを選び、イエス様としてこの世界に来られました。生まれたばかりのイエス様が最初に寝かされたのは飼い葉桶でした。神様ご自身が、小さく弱い人間の一人となられ、無力な存在となりました。人間の社会には理不尽なことが起こり、私たちは疑問を持ちながらも従うしかない時があります。そんな時、私たちは自分たちの小ささにがっかりしますが、神様の愛は少しも変わることなく、この世界に働きかけ続けています。

話し合いのために

1) なぜ神様はベツレヘムにこだわったのでしょうか?
2) イエス様が飼い葉桶に寝かされたということから、神様の愛がどんなものだと分かりますか?