あなたの王は誰か?

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あなたの王は誰か?

詩編 93

永原アンディ

 短い詩です。まず全体を読みましょう。

1 主は王となられた。主は威厳をまとい 力の衣を身に帯びておられる。 世界は固く据えられ 決して揺らぐことはない。
2 王座はいにしえより固く据えられ あなたはとこしえよりおられる。

3 主よ、潮はあげた 潮は声をあげた 潮はとどろきを上げる。
4 主は大水のどよめきにまさり 大波にまさり、勢いがある 威勢があり、高みにおられる。

5 あなたの定めは確かであり 聖なることはあなたの家にふさわしい。主よ、日の続くかぎり。

1. 主の権威 (1, 2)

1 主は王となられた。主は威厳をまとい 力の衣を身に帯びておられる。 世界は固く据えられ 決して揺らぐことはない。
2 王座はいにしえより固く据えられ あなたはとこしえよりおられる。

 

 サウル王以前、イスラエルに王はいませんでした。人々は、周りの国に強力な王がいて国を統一し、大きな軍事力を持つのを見て、預言者サムエルに王を求めます。神様は、王を持てば、あなた方は王の奴隷となる、とサムエルを通して警告しましたが、民はそれでも王を求めたのです(サムエル記上8)。
 
 神様の願いは、人々が人間の王ではなく神様に信頼をおくことでした。人々が本当に神様に信頼して、つまり直接的にはサムエルを信頼して行動すればおそれることはなかったのです。王と預言者の違いはどこにあるのでしょうか?預言者は、人々を生かす神様の意思を自分を無にして伝える者ですが、王は自分のために人々を支配する者です。

 ダビデは良い王でしたが、神様ではありません。神様に聞く意思を持った人でしたが、神様を悲しませることも多かった人です。しかし、ダビデはそれでも例外的に良い王だったのであり、ほとんどの王は神様の目にかないませんでした。
 そのような王が何代も続き、国が滅びかけている状況の中で、詩人は「真の王は神様以外にはない。信頼できる王は神様以外にはない」ことを宣言しているのです。

 今も世界中で、人々は支配者の振る舞いに苦しんでいます。それでもより強い支配者を求め、さらに苦しみは増すことになる。状況はこの時代と変わりません。私たちがすべきことは、この真の王に信頼を置くことの他にありません。


2. 主の勢い (3,4)

5 あなたの定めは確かであり 聖なることはあなたの家にふさわしい。主よ、日の続くかぎり

 神様の恵みは、乾いた地に降る雨や、泉から流れ出しやがて大きな川となる水の流れでたとえられることが多いですが、ここではそのダイナミックな働きが大海に例えられ、そしてそれ以上の大きなエネルギーで押し寄せてくるものであると歌っているのです。
 それは逆らう者にとっては大変な脅威です。しかし、神様を頼る者にとってはこの上ない慰めであり励ましです。

 イスラエルの民にとって、大水のどよめきとは、いうまでもなくモーセに率いられて、神様が海を左右に分けて民をエジプトから逃したという、民族の原体験として語り継がれてきたあの出来事に通じるものです。海は、民を守って通過させた後、追ってくるエジプト軍を飲み込みました。

 私たちの信じる神様は、イエスという権力も財力も持たない。一見無力な姿で私たちの前に現れましたが。それは、真の強さを持つ者の正しい姿でした。目に見える世界で自分の信じる正義を実現するということは、自分と考えの違う者に暴力で襲いかかることではありません。力がなくても、お金がなくても、神様の意思に従って歩むことができます。イエスキリストがそうなさったようにです。人の目に見えるところでは、目立たない、社会に大きな影響を与える者でもない。むしろ、日常の悩み、恐れと戦いながら、懸命に神様の意思を行おうとする者は、世の流れに翻弄されているように見えて、実は神様の力強く正しい流れに乗って神の国に向かっているのです。


3. 主の定め (5)

11 あなたは私の角を野牛の角のように上げ 新しい油で私を潤した。12 私の目は敵を見据え 私の耳は悪者の来襲のとどろきを聞く。
13 正しき人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえる。
14 主の家に植えられ 我らの神の庭で茂る。
15 年老いてもなお実を結ぶ 命豊かに、青々として
16 そして告げ知らせる、「主はまっすぐな方 わが岩、御もとには不正がない」と。

 ここで「定め」と訳されている言葉は、普通、旧約聖書の「律法」を指す言葉です。ですから抽象的なことではなく、聖書に記録されている神様の約束であり戒めです。それは、私たちが日々を生きる生活の基準です。「聖なることはあなたの家にふさわしい」 つまり、イエスは確かな神様の基準で物事の善悪、正と不正を考えることを私たちに望んでいるのです。

 もちろん聖書の言葉は、今よりずっと前の時代の、私たちとは異なる文化に即して“人間の言葉”に翻訳されたことを忘れてはいけません。聖書の言葉を表面的に受け取って人を裁くなら、その裁きはあなたの上に戻ってきます。

 どのように聖書を読んだら、神様の意思を間違えずに受け取ることができるでしょうか。それは、聖書を読むとき、いつも福音書に記されているイエスの言葉や行動を思い起こしながら読むということで可能になります。

 例えば聖書では、現代の普通のクリスチャンなら当然と考える男女の平等も、人種差別の禁止も、守らなくても良いと読める箇所がたくさん出てきます。 しかし福音書のイエスの歩みを見るときに、その言葉を聞くときに、書かれている言葉をそのまま守ろうとすることが神様に従うことなのではないと知ることができるのです。

イエスの言葉にもっと親しんで、心からの礼拝を献げてイエスともっと親しくなって、イエスの思いを行う者として歩んでください。

(祈り)
主よ、あなたが、私たちの主、王となってくださったことをありがとうございます。私たちを、王であるあなたに従って歩み、この世界であなたの正義、憐れみ、愛が現されるための器となることができるように、あなたの霊で満たして強くしてください。あなたの言葉に親しんで、聞いて、行う者とさせてください。感謝して、期待して、神であり、主である王であるイエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

聖書が書かれた時代の人間の王は大きな力を持って国民を支配していました。しかし、神様は最初から、人が王として人の上に立つことに賛成ではありませんでした。神様の意思にかなって正しく人々を治めることのできる人はいないからです。どのような時代であっても、王と呼ぶことのできる存在は神様しかありません。

話し合いのために
  1. 主はあなたの王ですか? どのような意味で?
  2. 主の定めとはどのようなことですか?
子供たちのために(保護者のために)

童話にはさまざまな王様が登場しますが、現代社会には実際に権力を持った王は多くはありません。子供たちが知っている王様の話をしてみましょう。互いが王についてどのようなイメージを持っているのか話してみてください。その上で、イエスが(日本という専制君主のいない国に住む)自分の王であるとはどういうことか話し合ってみてください。