聖書はイエス様の視点で読もう

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聖書はイエス様の視点で読もう

ローマの信徒への手紙 1:18-32

池田真理


 今日はローマの人々への手紙1:18-32を読んでいきます。この箇所は、内容自体よりも、聖書の読み方について教えてくれる箇所だと思います。
 少し前置きをします。聖書は、人間の言葉を通して語られた、神様の言葉です。人間を通している以上、時代と文化、書き手個人の価値観や偏見による制約を受けています。また、読み手である私たちにも同じ制約があるため、書き手の誤りにさらに誤った解釈を重ねてしまうことが起こります。だから、聖書を、一言一句誤りのない神聖なものとして扱うのは間違っています。聖書は神様ではありません。それでも、聖書が神様の言葉であるのは、書き手と読み手の両方に神様の霊が働き、私たちに神様のことを教えてくれるからです。神様の霊が働くと言うと、少し超自然的な感じがしますが、イエス様の視点を持つと言い換えていいと思います。聖書を読んでいて、ある言葉がイエス様の愛と矛盾するように思えたら、それは書き手の間違いの可能性があります。また、ある箇所の解釈がイエス様の愛に矛盾すると思えたら、それは解釈する読み手の間違いである可能性があります。ですから、聖書を読む時に大切なのは、イエス様の視点を持って、イエス様が十字架で教えてくださった愛に照らして、読むことです。
 (だから、「私ときみたちとの違いは、きみたちは愛の意味するところを決めるために聖書を使うが、私は聖書の意味するところを決めるために愛を使うということだ」とイエス様は言う、というイラストを表紙にしました。
 今日のローマ書の箇所は、このことをよく教えてくれる箇所だと思ったので、今日は前半でパウロが言いたかった内容を簡単にまとめ、後半でパウロの言葉をイエス様の視点で解釈してみたいと思います。前半で全体を読んでいく間、「あれ、これおかしいな」と思うところがあったら、皆さんの中に生きているイエス様が皆さんに教えてくれているのだと思うので、ぜひその箇所を覚えておいてください。
 では、内容に入っていきます。まず、最初の18節だけを読みます。

A. パウロが言いたかったこと

1. テーマ:全ての人間は罪深い (18)

不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

 前回までの友好的な語り口と比べて、ずいぶんトーンが変わっていますが、それは手紙冒頭のあいさつが終わって、本題に入っていこうとしているからです。本題とは、ローマ第1回でお話しした、ユダヤ人と異邦人の分断についてです。パウロは、まず、ここから3章までで、ユダヤ人も異邦人も皆等しく罪の下にあるということを言おうとしています。3:9-10には、「正しい者は一人もいない。ユダヤ人もギリシア人も皆罪の下にある」とあり、それがこれからパウロが言おうとしていることです。ですから、この1:18は、全ての人間は罪深いという、ここから3章までのテーマを表しています。
 19-23節に進みます。

2. 全ての人間が持つ罪とは偶像礼拝 (19-23)

19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。従って、彼らには弁解の余地がありません。21 なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。22 自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、23 不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 

 私たちの罪は、神様を神様として認めず、神様ではないものを神様にすることです。それは偶像礼拝と呼ばれます。木や金属で作られた偶像を崇めていなくても、私たちは皆、自分を神様にし、偶像にする性質を持っています。それは、神様が最も悲しまれ、苦しまれている私たちの罪です。残念ながら、この罪から完全に自由な人は誰もいません。その結果、私たちの社会には、どの時代も悪に満ちています。そのことが続きの24-32節に書いてあるので、読んでいきたいと思いますが、26-27節はここでは飛ばします。その理由は最後に説明したいと思います。

3. その結果、人間の社会は悪に満ちている (24-32)

24 そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です、アーメン。

28 彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。29 あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、30 悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです。32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行うばかりか、それを行う者を是認さえしています。

 これが私たちの社会の現実です。私たちが、神様を神様としないで、自分を神様にしている結果、私たちは互いに愛し合うよりも、蹴落とし合い、傷つけ合っています。そして、それが正当化されています。
 
 まとめると、私たちは皆、神様を神様としない罪を犯しており、それが私たちに苦しみが絶えない根本原因だということです。あらゆる社会の不正義も不平等も、個人の人間関係の傷つきも、元をたどれば、自分を神様だと思っている一人ひとりの人間に行き着きます。これが、ここでパウロが言おうとしたことで、私たちにとっても大切なことです。
 でも、パウロの言葉を細かく見ると、いくつか引っかかるところがあったと思います。皆さんが違和感を持ったところと私が取り上げるところは同じではないかもしれませんが、ここから聖書をイエス様の視点で読むということを特に意識して、読み返していきたいと思います。


B. イエス様の視点で読むと見えてくること

1. 誤解:神様は私たちに怒って、私たちにわざと罪を犯させている (18, 24, 26, 28)

 まず、この箇所は、18節の「神は天から怒りを現されます」という言葉から始まっています。そして、24節、26節、28節には、神様は私たちにわざと罪を犯させているようにも読める表現がされています。

24 そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、
26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。
28 … 神は、彼らを無価値な思いに渡され、…

これを全体として読むと、神様は私たちに対して怒っているので、私たちがわざと罪を犯し続けて苦しむようにしている、というようにも解釈できます。でも、十字架で私たちのために命を献げたイエス様は、そんなことを望む神様でしょうか?そうではないはずです。
 では、このパウロの言葉は間違っているかというと、そうとも言えません。神様は正義の方であり、善悪を正しく見分け、正しく裁く方です。私たちの罪と悪に対して憤られ、そのままにしておくことはありません。
 でも、神様は、私たちの罪に対する怒りと裁きを、私たちに下すことをしないと決断されました。私たちの代わりに自分がその身で裁きを受け、私たちを赦すということを決められました。それがイエス様の十字架でした。神様は完全な正義の方であると同時に、完全な愛の方であるからです。
 また、神様は私たちにわざと罪を犯させているんじゃないかということについては、イエス様とユダのことがヒントになると思います。イエス様はユダが裏切るように仕向けたのではありませんが、止めもしませんでした。その結果、ユダは結局自滅してしまいました。イエス様は彼に対して怒ったのではなく、ただ嘆きました。私たちの罪は、自分にも他人にも苦しみしかもたらしません。神様はそれを知っていながら、私たちが自分でそれを認めるのを待っておられ、強制的に私たちを変えるようなことはしません。それは、神様の忍耐強い愛です。と同時に、私たちが自分の罪の中で苦しんだままにしておかれるという意味では、神様の裁きとも言えます。その裁きを私たちが受けなくてすむように、神様はすでに十字架という救いを与えてくださっているにもかかわらず、私たちの方がそれを拒んでいます。

2. 誤解:自然界と良心を通して神様を知ることができる (19-20)

次に注目したいのは19-20節です。もう一度読みます。

19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。従って、彼らには弁解の余地がありません。

 これを読むと、私たちは自然界と良心を通して神様のことを理解できるはずだと言われていると思えます。でも、それが本当なら、イエス様がこの世界に来る必要はありませんでした。自然の素晴らしさも、人間の良心も、神様のような存在を感じさせてくれるかもしれませんが、それだけでは到底、神様がどういう方で、私たちにどう関わる方なのかまでは分かりません。私たちは、十字架で死なれたイエス様を通してしか、神様の愛も正義も理解することはできません。パウロも、この直前に、福音の力というのを強調したばかりで、そのことは当然そう思っていたはずです。
 では、ここでパウロが何を言おうとしたかというと、神様を知らなかったというのは言い訳にならない、ということです。神様を知っていたユダヤ人が悪い生き方をするのと、神様を知らなかった異邦人が悪い生き方をするのでは、神様を知らなかった異邦人の方が罪は軽いのではないかという疑問を、パウロは否定したのです。異邦人もユダヤ人も等しく罪の下にあるということを言いたかったからです。でも、この2節は、私はあまり説得力がなかったんじゃないかと思います。

3. 間違い:同性愛は罪である (26-27)

 最後に、先ほど飛ばした26-27節を取り上げたいと思います。この箇所は、今日の箇所の中で今の時代には最も重要な箇所だと思います。

26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

この箇所は、同性愛を罪とする根拠とされてきた聖書箇所の一つです。でも、それは二つの意味で間違っていると、私は思っています。
 まず第一に、この箇所が現代の同性愛者のことを断罪していると解釈するのは、当時の文化的背景を無視した乱暴な解釈だと思います。ここでパウロは、何らかの同性間の性的関係のことを非難しています。でもそれは、現代の同性カップルのように、対等に尊重し合い、愛し合う関係性を指しているとは思えません。なぜなら、当時の社会においては、異性間においても、対等に愛し合う関係が当たり前ではなかったからです。
 少し話が飛びますが、日本で結婚が男女両性の合意に基づくと規定されたのは、戦後、日本国憲法が制定されてからです。それまではあくまで結婚は家と家の取り決めであり、家長の同意が優先されました。日本だけでなく、男女平等や個人の人権の尊重という考え方は、近代に入って確立された価値観です。男女が双方の自由意志に基づいて、対等な立場で恋愛したり結婚したりするのが普通と思っている私たちの考え方は、一昔前までは普通ではありませんでした。まして、このローマ書が書かれた二千年前には、ありえない価値観です。ですから、そんな時代に、現代において同性愛と呼ばれる、同性間の対等で親密な関係というは、その概念すらなかったはずです。だから、ここでのパウロの言葉を、そのまま現代の同性愛者に対する断罪と解釈するのは、乱暴だと思います。
 では、パウロはここで同性間のどういう関係を非難しているのかについては、推測の域を出ません。異教の宗教儀式や、ローマ人の生活習慣に見られた、性的虐待のような行為のことだったのかもしれません。
 ただ、それが何だったにせよ、それはパウロにとっては重要ではなかったということは覚えておくべきだと思います。パウロがここで意図したことは、異邦人の不道徳の例を示すことでした。性的不品行、または、もしかしたら性的虐待の問題については、取り立てて説明するまでもなく、さらっと聞いてもらえばいいというのがパウロの意図だったはずです。

 そこで、もう一つ、この箇所を使って同性愛を罪とするのが間違っていると私が思う理由は、万が一パウロがここで非難しているのが本当に同性愛のことだったとしても、それはパウロの偏見で間違いであり、私たちがそれをそのまま受け入れる必要はないと思うからです。パウロは別の手紙(1コリント)で、女性は長い髪であるべきだとか、教会では黙っていなさい、などと言っています。それをそのまま受け入れている教会は、世界中でもうあまりありません。パウロに多くの信頼する女性の仲間がいたことは様々な手紙から分かるので、パウロがひどい女性差別主義者だったとは思いません。それでも、やはり、パウロも当時の社会の父権的価値観の影響を大いに受けていたことは否定できません。そして、万が一、当時の社会で現代において同性愛と呼べる関係性が不道徳とされていて、パウロがそれを当たり前のこととして非難していたとしても、それは当時の価値観です。それを現代に当てはめなければいけない理由はどこにもありません。単純に時代錯誤です。

 今日は聖書の読み方についてお話ししましたが、私の解釈はあくまで私の解釈で、皆さんの解釈とは違うかもしれませんし、間違っているかもしれません。イエス様の視点で聖書を読むと言っても、私たちは誰もイエス様になれるわけではないので、限界があります。それでも、私たちは皆、日々、イエス様の視点に近づくことができます。聖書に記録されているイエス様の言葉と、十字架という出来事、そして、共にイエス様を信じて生きている人たちから教えてきてもらったことと、自分でイエス様と共に歩んできた中で知ってきたこと、その全てを通して、私たちは少しずつイエス様により近づくことができます。そして、それが聖書をよりイエス様の愛に照らして解釈するための唯一の道です。聖書の知識や時代背景を調べることなどは、それがイエス様の愛に照らされているのでなければ、害になります。
 これからも、聖書を通してイエス様が私たちに何を語りたいと思っておられるのか、イエス様の十字架の愛をいつも道標にして、楽しみに求めていきましょう。
 
(お祈り)イエス様、どうか私たちがあなたの名前やあなたの言葉を使って、人を傷つけることがないように、私たちの考えをあなたが導いてください。私たちは一生かかっても不完全な者で、間違いを犯す者です。どうか、あなたの霊によって、あなたの愛によって、私たちを日々新しくし、導いてください。イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

聖書は私たちに神様のことを教え、神様を信じて生きるとはどういうことなのか教えてくれる書物ですが、聖書自体が神様ではありません。聖書は人間の言葉を通して語られた神様の言葉です。人間を通している以上、時代と文化、書き手個人の価値観や偏見による制約を受けています。また、読み手である私たちにも同じ制約があるため、書き手の誤りにさらに誤った解釈を重ねてしまうことが起こります。聖書を読む時に大切なのは、できるだけイエス様の視点に近付いて読もうとすることです。

話し合いのために

1. どうしたらイエス様の視点に近付けますか?
2. 26-27節を根拠にして同性愛を断罪する人に、私たちはどう対応するべきですか?

子供たちのために(保護者のために)

ローマ1:26-27は同性愛断罪の根拠とされてきた箇所です。教会が同性愛を罪として、同性愛者を苦しめてきた事実を話してあげてください。そして、聖書は時に間違っていること、私たちが聖書を間違って解釈することが起こることを伝えてください。子供たちが学校で同性愛のことについて何か習っているかも聞いてみてもいいかもしれません。