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岩
詩編65
永原アンディ
詩編のシリーズを続けています。今日は95編です。
この詩は前半と後半でトーンが全く違っています。それで、違う詩を結合させたのではないかと考える学者もいるほどです。
しかし、一つのキーワードが両者をつないでいます。そのキーワードとは<岩>です。
最初の節に「救いの岩に喜びの声をあげよう」とあります。
後半には直接、岩という言葉は出てきませんが、書かれている出来事には岩が深く関わっています。
その内容については後半でお話しします。
聖書には、神様を岩にたとえて書かれた箇所が多くありますが、その岩の意味するところは単純ではありません。
前半では、力強さ、信頼を岩にたとえてほめたたえています。それでは前半を読んでゆきましょう。
1. 揺るがない私たちの岩 (1-7a)
1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。 救いの岩に喜びの声をあげよう。
2 感謝のうちにその前に進み 賛美と共に喜びの声をあげよう。
3 まことに主は大いなる神 すべての神々にまさる偉大な王。
4 地の深みもその手の内にあり 山々の頂も主のもの。
5 海も主のもの。主が造られた。 その手は乾いた地を形づくられた。
6 さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。 私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。
7 まことに、主こそ我らの神。 私たちはその牧場の羊。
a. 全ての者の王
前回、94編のメッセージで、真に王と呼べる存在は神様しかいないとお話ししました。
人が人を支配しようとするとき、私たちの罪の性質によって、正しく支配することのできる者はなく、支配される者は必ず苦しめられることになる。
それは旧約聖書でも、その書かれたごく初期から知られていたことでした。
イスラエルの民はその歴史を通して、神様からサムエルを通して告げられていた通りに、王政のもとで苦しみ、本当に頼れるのは神様だけだと思い知らされていました。
だから、相変わらずの苦しさの中でも、神様に期待して、ほめたたえ、自分たちが神様のものであることを告白しています。
b. 全てを作られた神
4節以下を見ると、イスラエルの民が、人に失望しても神様に信頼を置こうとしたのは、ただ神様の力が強く信頼できるだけではなく、全てのものを創られた神様だという創世記の教えを信じていたからです。
この創世記の記述は、イスラエルだけでなく全ての人にとっても、どんなに絶望的な状況にあっても、神様だけは信頼できるということを教えてくれます。
その中で人間は、ご自身に似た者として、ご自身に代わってこの世界を治める者として、生かされているのです。それは、神様の創造が人間の創造によって完成したということです。
「神は、造ったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった」と言われ(God saw all that he had made, and it was very good 創世記1:31)ました。
この岩は気休めのようなものではなく、私たちの生存の根拠なのです。
7節を見てください。神様と私たちの関係を牧場主と羊にたとえています。
羊が牧場をさまよい出れば命の危険が待ち構えているように、岩陰に身を隠している人が、そこから離れれば、敵は簡単にその人を見つけ攻撃することができます。
あなたがもっと神様の近くにいるべき理由がここにあります。それでは後半を読んでいきましょう。
B. 争いと不信を打ち砕く岩 (7b-11, 出エジプト17:1-7, 1コリ 10:1-4)
あなたがたは今日、主の声を聞きなさい。8 「メリバにいた時のように マサの荒れ野にいた日のように 心を頑にしてはならない。9 あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。 私の業を見ていながら、私を試した。10 四十年の間、私はその世代をいとい そして言った。 『彼らは心の迷える民。 私の道を知らない。』11 私は怒り、誓いを立てた。 『彼らは私の憩いに入れない』と」
本当に前半と全く繋がっていないようで戸惑いますね。そこで、最初にお話ししたキーワード<岩>を登場させたいと思います。
ここで、聞きなさいと言われている、メリバ・マサについてエピソードのオリジナルの箇所を読んでみましょう。出エジプト17:1-7です。
1 イスラエル人の全会衆、主の命によりシンの荒れ野を出発し、旅を重ねて、レフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲む水がなかった。
2 民はモーセと言い争いになり、「飲み水をください」と言った。モーセは彼らに言った。「なぜあなたがたは私と言い争うのか。なぜ主を試すのか。」
3 しかし、民はそこで水を渇望し、モーセに対して不平を述べた。「私たちをエジプトから上らせたのは何のためだったのですか。私や子供たちや家畜を渇きで死なせるためだったのですか。」
4 そこでモーセは主に叫んだ。「わたしはこの民をどうすればよいのでしょうか。彼らは今にも私を石で打ち殺そうとしています」
5 主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老を何名か一緒に連れて行きなさい。ナイル川を打ったあなたの杖も手に取って行きなさい。
6 私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前でそのとおりに行った。
7 そして、モーセはその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「主が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと言い争い、主を試したからである。
エジプトでの奴隷生活から解放するために、神様はモーセを立て紅海を分け、シナイ半島に民を導き出しました。しかしこの宿営地には井戸がなく、ここでの水補給ができないことがわかったとき、心細くなった民は指導者モーセに文句を言い始めました。
今にも、モーセを石で打ち殺してしまいそうな状況であったことがわかります。冷静に考えれば全ての宿営地に水が備わっている必要はなかったのです。
しかし一度、不安が生じると、それはあっという間に膨れ上がり、指導者に、そしてその指導者を立てた神様に怒りを爆発させたのです。
私たちは、目の前に困難が立ちはだかったり、恐怖に支配されると、今まで、守り導かれてきた神様への信頼を簡単に忘れ、怒りをぶつけてしまう者です。
そして同じように、信仰の家族=教会の仲間にも、実際の家族にも、不信を口にしてしまう者なのです。
それに対して神様は、宿営地の近くにあった岩を、モーセに杖で打たせて水を出し、民に応えました。モーセはその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けました。民がこの出来事を記憶しなければならなかったからです。
私たちも同様です。記憶していなければなりません。そうでないと、困難を前にして、問題を人々のせいにして非難し、「私を愛する神様がいるというのに、なんて私の道は険しいんだろう?」と神様を疑い始めます。
神様が、本当は危険や悪から自分を守っている岩なのに、自分の行く道に立ちはだかる妨げの岩のように思えてしまいます。
しかし神様が妨げと思う時、神様は邪魔をしているのではなく、あなたが行こうとしている方向、心の向きが間違っていることを教えるためにそうなさっているのかもしれません。
不信を口にする人々に対してさえ、滅ぼしてしまうことはせず、必要な水を与えられます。その頑なさの故に40年も約束の地に入れなかったとイスラエルは理解していますが、その間も神様は彼らを守り続けました。
約束の地に入ってからも、その行いは結局、根本的に改められることはありませんでした。そして国は滅び、頼れるものを見失ったイスラエルの民の中に、神様はイエスとしてこられたのです。
このイエスこそ、イスラエルのみならず、全ての人が頼ることのできる究極的な岩だったのです。
(1コリ 10:1-4) きょうだいたち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼を受け、皆、同じ霊の食物を食べ、皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちについて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
このイエスとともに、イエスから必要な物をいただきながら、この地上での歩みを進めてゆきましょう。
(祈り)主よ、あなただけが私たちの岩。その影に隠れれば、誰も私たちに手出しすることはできません。
また、あなたはどんなところを歩んでいようとも、叫び求めればすぐに命の水を豊かに与えてくださる命の岩です。
いつでも、皆、あなたに信頼することができれば争い合うこともないはずの私たちが、あなたから目を逸らせ不安になり、人に当たってしまうことがあります。
どうか私たちの心の向きを変え、あなたに向けてください。
いつもあなたがともにいてくださることを感謝して、主、イエスキリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
聖書には、神様を岩にたとえて書かれた箇所が多くありますが、その岩の意味するところは単純ではありません。この詩は前半と後半で全くトーンが異なりますが、両者は<岩>というキーワードで結ばれていて、神様が私たちにとって、どのような意味で岩のような存在なのかを知ることによって、私たちの信仰はより深く強いものとなります。
話し合いのために
1. 聖書の中で神様はどのような意味で岩に喩えられていますか?
2. イエスに“岩”と呼ばれたのは誰ですか?それはなぜですか?
子供たちのために(保護者のために)
今日の詩編、出エジプト17:1-7、マタイ7:24-27、1コリ 10:4 を子供たちと共に読み、イエスがどのような意味で岩のようなのか話し合ってみて下さい。
コロナ禍はまだ続きますが、子供と過ごす時の長さが増えたことは恵みです。ぜひ、聖書のエピソードを共に読み話し合う時間を作りましょう。