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「クリスチャンかどうか」は重要ではない
ローマ 2:1-16
池田真理
今日もローマ書の続きで、2:1-16を読んでいきます。前回に引き続き、ユダヤ人も異邦人も関係なく全ての人は罪深い、というテーマの元に書かれている箇所です。前回は異邦人に焦点が当てられていましたが、今日の箇所からはユダヤ人に焦点が当てられています。「ユダヤ人」「異邦人」と聞いていると、私たちとは関係ない話に思えますが、「ユダヤ人」は「クリスチャン」を、「異邦人」は「クリスチャンでない人」を指していると置き換えて読んでいくことができます。ユダヤ人が「ユダヤ人かどうか」にこだわったように、私たちも「クリスチャンかどうか」ということに固執して、いつの間にか本質的なことを忘れてしまうことが起こります。
少しずつ読んでいきましょう。まず1-5節です。
A. クリスチャンの間違った優越感 (1-5)
1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はありません。あなたは他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたも同じことをしているからです。2 私たちは、神の裁きがこのようなことを行う者の上に正しく下ることを、知っています。3 このようなことを行う者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。4 それとも、神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか。5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日に下される怒りを、自分のために蓄えています。
この部分は前回読んだ部分の続きで、2、3節に言われている「このようなこと 」というのは、前回読んだ、偶像礼拝や不道徳な生活をすることを指しています。前回の部分は、異邦人はそのような悪い生き方をしているから、神様の怒りを受けるのは当然です、という内容でした。
でも、パウロはここで、「そして罪深いのはユダヤ人も同じです」と言おうとしています。ユダヤ人たちが聞いたら、耳を疑ったかもしれません。ユダヤ人には、自分たちは神様を知っていて、異邦人とは違って、清い生活をしているという誇りがあったからです。だから、異邦人が神様を知ったなら、ユダヤ人の文化や生活習慣を取り入れるべきだと考えました。パウロは、それが間違った優越感だと伝えようとしました。
私たちはこのことを自分には関係ないと思うことはできません。「自分は神様を知っている」という自信によって、自分の問題を棚に上げて、自分を神様の位置において、他の人を見下していることがあります。また、「クリスチャンの正しい信仰生活」のようなものを勝手に作り上げて、他人に強要することも起こります。それはクリスチャンが陥る間違った優越感です。私たちは誰に対しても、自分の信仰を理由に優越感を持つことは許されません。信仰のあるなしにかかわらず、人間を正しく裁けるのは神様おひとりだからです。そのことが続きの箇所で語られています。6-8節に進みます。
B. 神様は一人ひとりを正しく裁かれる
1. 一人ひとりの行いに応じた報いと裁き (6-8)
6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。7 耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠の命をお与えになり、8 利己心に駆られ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
ここはただこのまま受け取っていいと思います。神様は善悪を正しく見分け、正しく裁かれる方です。私たち一人ひとりの日々の歩みを知っておられ、善い行いには報いを、悪い行いには裁きを与えられる方です。次に9-13節に進みます。
2. クリスチャンであることは何の保証にもならない (9-13)
9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。11 神は人を分け隔てなさいません。12 律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを行う者が義とされるからです。
ここで一番重要なのは最後の13節です。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを行う者が義とされる」とあります。私たちに当てはめるなら、「イエス様のことを知っている人が正しいのではなく、イエス様の意志を行う人が正しいとされる」と、言い換えられます。イエス様が私たちに求めるのは、心からイエス様を礼拝し、愛し、自分の思いよりもイエス様の思いが実現することを求めて生きることです。イエス様に関する知識や聖書の知識を持つことは、その補助にはなっても、中心ではありません。また、洗礼を受けて、教会員になって、毎週教会に通っていたとしても、自分の生活の中でイエス様を愛し礼拝しているのでなければ、何の意味もありません。祈りも、どんなに熱心な祈りだとしても、神様の意志を無視して自分の願いを叶えることが目的なら、正しい祈りとは言えません。だから、他人からクリスチャンと思われていても、神様がどう思っているかは分かりません。「クリスチャンであること」は何の保証にもならないのです。14-15節に進みます。
3. クリスチャンでなくても神様は正しく裁かれる (14-15)
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。15 こういう人々は、律法の命じる行いがその心に記されていることを示しています。彼らの良心がこれを証ししています。また、互いに告発したり弁護したりする彼らの議論も、証ししています。
この部分は前回読んだところと似ています。神様を知らなくても、人間には良心があり、ある程度の善悪の判断はできるのだから、神様を知らなかったから無罪になることはない、ということです。私たちが信仰を持っていようとなかろうと、神様は全ての人を正しく裁く方です。最後の16節に進みます。
4. 神様に隠せることはない (16)
16 このことは、私の福音によれば、神が人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
これも、このまま受け取っていい内容だと思います。私たちは誰も、神様に何も隠せません。善いことも悪いことも、自分で分かっているものも気が付いていないものも、神様は知っておられます。神様が私たちに求めるのは、心から神様を礼拝し、愛し、自分の思いよりも神様の思いが実現することを求めて生きることだとお話ししましたが、それができているかどうか判断できるのは神様しかいません。私たちには、自分のことも他人のことも、正しく裁くことはできません。
ただ、一つだけ私たちが確信を持って言えることは、神様の前に正しいと認められる人は誰もいないということです。今日の箇所のポイントはここにあります。パウロは、善を行う者には報いがあり、悪を行う者には裁きがあると言っていますが、それは人間には良い人間と悪い人間がいるということを言っているのではありません。その二択で言うなら、全ての人は悪を行う者であり、神様に裁かれるしかありません。私たちがいくつかの良い行いをしたところで、神様に正しいと認められることはないのです。
だから、イエス様は十字架で死なれました。私たちが罪人のままでも、信仰によって救われるためです。そのことが、これからパウロが語っていくことですが、それはまたその時ににお話しします。
今日は最後に、遠藤周作の「沈黙」から、本当の信仰とは何かを教えてくれる一節を読んで終わりにしたいと思います。物語の終盤で、主人公であるポルトガル人の司祭は、拷問に苦しむ人々を助けるために、自ら踏み絵を踏んで、自分の信仰を否定しました。そのことを後に振り返って、一人で祈っているときの言葉です。
私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を尋問するだろう。穴吊りが怖ろしかったからか。そうです。あの穴吊りを受けている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そして、(…)自分が転べば、あの可哀想な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれませぬ。それらすべてを私は認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう。
本当の信仰とは、この祈りにあるように、自分を神様の前に弱い罪人として認め、自分の行いを一切正当化することなく、神様の判断に委ねることです。私たちは皆、神様の憐みにすがるしかない弱い人間です。神様はそんな私たちを憐まずにはいられない方です。私たちが自分の信仰の強さや正しさを他の人と比べることは不可能であり、無意味です。私たちは、一人ひとり、神様の前に立ち、自分にとって、心から神様を礼拝し、愛して生きるとはどういうことなのか、考え続け、それぞれの歩みを続けていきましょう。
(お祈り)神様、あなたは私たちの全てをご存知です。私たちには、それぞれ、他の人には隠している醜い部分があり、また、他の人には理解されない痛みもあります。自分では見えてない問題もたくさんあると思います。どうか、そんな矛盾した私たちの中に、ただあなたを愛し、求める心を与えてください。あなたの霊を注いで、私たちの毎日の歩みを導いてください。私たちの主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
私たちは、イエス様を知っていても、イエス様を知らない人たちよりも何か優っているわけではありません。神様が私たちに求めるのは、イエス様に関する知識を持っていることではなく、心からイエス様を礼拝し、愛し、自分の思いよりもイエス様の思いが実現することを求めて生きることです。そんな生き方ができているかどうか、私たちは誰のことも裁くことはできません。私たちを正しく裁くことができるのは、一人ひとりの心と日々の歩みを知っておられる神様だけです。
話し合いのために
1. 「あの人はクリスチャンかどうか」で裁いていることはありませんか?
2. 「善を行う」(7節、10節)ことによって、私たちは救われるのでしょうか?(参考:3章20節)
子供たちのために(保護者のために)
(聖書を読むとしたら9-10節がいいと思います。)神様は、私たちが教会に通っているかどうかや聖書のことをどれほどよく知っているかどうかで、私たちを評価する方ではありません。大切なのは、一人ひとりが心で何を思い、どんな生き方をしているかです。でも、実は、神様が100点満点をつけるような完壁な人はこの世に誰もいません。「良い生き方」には、人それぞれのバージョンがあり、一人ひとりが自分と神様の関係の中で探していくものです。それを他人と比べることは不可能で、意味のないことです。