喜べ!

Frettie, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, via Wikimedia Commons

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喜べ!

詩編97篇

永原アンディ


 はい笑って!言われて撮った集合写真の中に、何人かは微妙に笑顔が歪んでいる人がいるものです。笑ってられるか、という人もいるわけですが、とりあえず笑って見せることはできます。しかし、喜べといわれても、喜べるものではありません。喜びは心の思いなのですから、表情のように作ることはできないのです。

 ですから、聖書が「喜べ」というのは、命令ではなく、あなたは喜べる材料を持っているということです。それは世の与えることができるような「喜び」ではありません。世の中には、喜びを与えてくれそうなものは多くありますが、どれも真の喜びを与えてはくれません。あっという間に消え去る虚しい喜びばかりです。しかも人々はそれらをめぐって争ったり、奪いあったり、喜びを手に入れたつもりが悲しみを背負い込むことになりかねません。

 それでは、聖書が私たちに教えている、喜びの根拠はどこにあるのでしょう?それを今日のテキストは教えてくれています。それではもう一度、6節までを読みましょう。

A. 主を知る人となって (1-6)

1 主は王となられた。地は喜び躍れ。多くの島々は喜べ。
2 雲と密雲は主を囲み 正義と公正が王座を支える。
3 火が主の前を進み 敵対する周り者を焼き尽くす。
4 主の稲妻が世界を照らし それを見て地はおののく
5 山々は蝋のように溶けた。 主の前に、全地の主の前に。
6 天は主の義を告げ知らせ もろもろの民は皆、その栄光を見た。

 イスラエルの人々はこの時代、自分たちの祖先が神様に王を求めたことをとても後悔していました。結局人間である王は、民よりも自分の権力を愛し、周りの強国との戦いにも敗れて、人々が平和や生きる喜びを味合うことはできなくなっていました。やはり、本当に信頼できる王は神様しかいない、と思い知らされていたのです。もし主が王なら、こうであるに違いない、という民族にとっての理想の姿がここに想像されているのです。

 旧約の時代の人々が夢見た、主の支配を、新約の時代に生きる私たちはもっとよく知っています。神様が主イエスとして、その姿を表し、確かに信頼することのできる方だということ私たちが知っているからです。
 イエスは大きな権威を持ちながら、従う者のために苦しむことを厭わないたった一人の王です。その権威と力は福音書で実証済みです。

 クリスチャンなのに喜べないという人はたくさんいます。クリスチャンという言葉の元の意味について、もう一度確認しておきましょう。今では多くの人が、キリスト教を信じる人ことだと思っています。しかし、この言葉は十字架にかかって死んだのに復活したと言い張って夢中になっているアブナイ人たち、という悪口だったのです。この本来の意味での“クリスチャン”なら喜べないわけがありません。ただ自分を犠牲にして、私たちを赦してくださっただけではなく、人がどうすることもできない死の力にも打ち勝って、ここに書かれている王として主がいてくださると知ることが、変わることのない喜びの原点だからです。7−9節をもう一度読みます。


B. 偶像から離れる人となって (7-9)

7 偶像に仕える者 空しい神々を誇る者は皆、恥を受ける。 すべての神々は主にひれ伏す。
8 主よ、あなたの裁きのゆえに シオンは聞いて喜び ユダの娘たちは喜び躍る。
9 まことに主よ、 あなたは全地に上におられるいと高き方。 すべての神々にまさり、崇められる。

 聖書には偶像礼拝という言葉がよく出てきます。日本のキリスト教会の中で誤解されてきた言葉です。それは文字通り、石や木で作られた偶像や、写真の中の先祖に頭を下げることではありません。仏教式のお葬式に出席して、香を炊いてはいけないということではないのです。それらは偶像礼拝ではなく、異教文化に対する礼儀なのです。これからも他宗教で行われる儀式に参列する機会があると思いいますが、そこでもとめられる所作をすることは決して“偶像礼拝”ではありませんから、心配せずになさってください。

 礼拝とは目に見える行いのことではないのです。形のことではなく心のことが問題なのです。現代の偶像は木や石の作り物ではありません。そのようなものが神ではないことなら誰でも知っています。本物の偶像はもっと巧妙に私たちを誘います。偶像とは、神様以上にあなたを夢中にさせるものです。

 それは人物かもしれないし、物質かもしれない、お金かもしれないし、名誉かもしれません。つまり、今日最初にお話しした、あなたに多いな喜びを与えてくれそうな物事です。イエスに従って歩む喜びを忘れ、偶像を追いかけ始めても決して心の満足を得ることはできません。それらを一時的に手に入れたとしても、その代償は大きなものです。尽きない喜びの泉から離れれば、魂の飢え渇きはひどくなるばかりです。

 本当に喜びの人でいたいなら、偶像を追いかけているよりするべきことがあります。そのことについて最後にお話ししましょう。10-12節を読みます。


C. 主の正義を行う人となって (10-12)

10 主を愛する者よ、悪を憎め。 主は忠実な者の魂を守り 悪しき者の手から救い出す。
11 光は正しき人に 喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。

12 正しき者よ、主によって喜べ。 主の聖なる名に感謝せよ。

 正しいことを行う、と口で言うのは簡単です。何が正しいことなのかを知ることはとても難しいことです。さらに、それを行うことはさらに難しいことです。そして、悪を憎むということも同様に困難です。

 善悪の基準が人間社会のなかで普遍的なものではなく、時代、文化、状況によって異なることも困難の要因の一つです。

 正しく生きることは、その時代の常識で生きなさいということでもなく、今の時代に、聖書の書かれた時代の正義を再現しなさいということでもありません。主、イエス・キリストは生きた時代の常識を疑い、異を唱えた方です。

 結局、このことは主に学ぶしかないのです。彼の言葉、行いの意味を知るために、福音書がその中心となるでしょう。しかし、それは聖書の他のテキストは不要ということではありません。イエスの生きられた社会、文化、時代のなかで、人々がどう神様に従おうとして歩んだのか?彼らを観察すると、私たちが見習うべき点と、避けるべき点の両方があることがわかります。それらを他のテキストから学ぶことによって、イエスの言葉、行いをもっとよく理解することができるからです。

 主の正義を行う人として歩むとは、イエスの弟子として、彼と共に歩むということです。自分の思い込みによる正しさからも、常識的な正しさからも自由になって、主に従うことが、私たちの魂は自由にし、喜びを与えてくれるのです。

(祈り) 主イエスよ、私たちを招き、導いていてくださることをありがとうございます。私たちの喜びが、自分自身でも、他の何かでもなく、あなたを源泉とするものであることを感謝します。それは変わることなく、尽きることのない永遠の喜びであることを確認しました。

 しかしこのような喜びの泉を持ちながら、私たちの罪の性質が、私たちをそこから引き離す力として存在することも私たちはよく知っています。どうか私たちをこの悪から守り、あなたをもっとよく知って、偶像に惑わされず、あなたの義を知って行う者とさせてください。あなたの喜びを地に満たす者として歩ませてください。 イエス・キリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

喜べ!と言われても、喜びをもたらすものがなければ喜ぶことはできません。世の中には、喜びを与えてくれるものは多くありますが、それらはすべて長続きしません。しかも人々はそれを得るために争って傷つき、人の得たものに嫉妬し、喜びは蜃気楼のように遠のくばかりです。変わらない喜びは、主を知り、偶像を離れ、主の正義を行う人のものです。

話し合いのために
  1. 「正しき者」とはどのような人々のことですか?
  2.  偶像礼拝とはどのようなことを意味していますか?
子供たちのために(保護者のために)

子供たちがどんなことに喜びを覚えているのか、生活の中でうれしいことを聞いてみてください。そして聖書が教える喜びが、それらとは一味違うことを伝えてください。
 偶像礼拝の本質を伝え、何よりも保護者自身のイエスに従うことの喜びを、世の与える喜びをはるかに優って素晴らしいものとして伝えることが何よりです。