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主・王・神
詩編 99
永原アンディ
皆さんはミャンマーで起こっている出来事に関心がありますか?また、入国管理センター内で命を落とす人が続出している状況をどう考えていますか? コロナ禍で職を失い住むところも失った人が、邪魔だからと暴力を振るわれ命を落とす社会をどう思っていますか?
今日の詩編は人間の、社会の、世界の機能不全の原因と、私たちに必要な態度を教えてくれています。
1. 主は王 The Lord is King (1-3)
まず3節までを読んでみましょう。
1 主は王となられた。
もろもろの民は震えよ。
主はケルビムの上に座しておられる。
地は揺れよ。
2 主はシオンにおられる偉大な方。
主はすべての民の上に高くおられる
3 彼らが偉大な畏るべきあなたの名を
ほめたたえるように。
主は聖なる方。
私たちはイエスを主・神と信じて新しい人生の歩みを始めた者たちです。主の思いに従って人生を歩もうと決心して、彼についてゆく一歩を踏み出した者なのです。
その主が王に即位されたという宣言を、私たちはどう受け止めたら良いのでしょうか?この宣言の意味は、イエスは単に個人や家族、教会の主権者なのではなく、国の主権者・支配者であるということです。それは決して信仰者が政党を作って政権を目指すということではありません。
この国が、イエスの要求する愛と正義にかなうものとなるように努めることを、主は私たちに求めておられるということです。この国が、かつてのような侵略者にならない、あらゆる少数者が差別を受けない、貧困や病に苦しむ者が放置されない国となることを願い、できることをすることが、主が王であると認めることです。その理想は詩編以外にも旧約聖書の中に垣間見られるものです。そしてイエスは、彼の生きた時代に、当時の宗教指導者たちが政治的な権力と結びついて、神の意思にかなわない歩みをしていたことを厳しく非難したのです。
私たちはイエスが、私たちの心の主権者や神であると同時に、私たちの生きる社会の主であることを覚えましょう。
2. 王は神 (4,5)
次に4-5節に注目しましょう。
4 王は力ある方、公正を愛される。
あなたは、公平を堅く打ち立てられた。
ヤコブの中に公正と正義とを
あなたは成し遂げられた
5 我らの神、主を崇めよ。
その足台にひれ伏せ。
主は聖なる方。
今、世界はあらゆる面でグローバル化しています。グローバル化はさまざまな弊害があり反対も叫ばれていますが、この流れを止めることは誰もできません。もはや一国がその国だけで自分たちの運命を決めることはできません。その反動でナショナリズムも目立ち始めています。しかしナショナリズムは、普遍的な正義、公正を実現する答えを持ってはいません。公正と正義は、国々の間でも現されなければ、この世界に希望はありません。一国内にだけ貧富の差があるのではなく、国や地域の間に著しい経済格差があります。
神は全ての人をご自身の姿に創造されました。自由な競争によって、ある人種、ある国民だけが快適な生活を楽しみ、ある人々は貧困の中で一生を過ごすことを神は望まれません。
世界がそのような状態であるのは、創造主が神として認められていないからです。たまたま力を持った者たちが、各地で王であることを主張し、その支配をもっと大きく、もっと広いものにしようと望んでいます。
世界の主権者は、世界を作られた神です。イエスに支配を委ねるべきです。
しかし、「イエスが神として世界を治める状態を作るために、全ての人を改宗させなければならない」と考える人がいるなら、イエスを誤解しています。
マタイは昇天される前のイエスの最後の言葉をこう記録しています。
18 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
19 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエスは全ての人をキリスト教徒にしなさい、と言ってはいません。全ての人に自分の弟子になるよう伝えなさい、と言っているのです。この違いをわかっていただけるでしょうか?弟子とはイエスの意思を行なう者です。キリスト教徒かどうかは関係ありません。
この弟子たちが世に影響力を及ぼすことで、世界中の不公平、不正義を少なくしてゆくことができます。イエスは、その意思を行なう弟子たちの働きとして世界を治めるのです。
3. 神は主 (6-9)
6 モーセとアロンは祭司の中に
サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。
彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。
7 主は雲の柱の内から彼らに語りかけ
彼らは主の定めと、主から賜った掟とを守った。
8 主、我らの神よ、あなたは答えられた。
あなたは彼らを赦す神。
しかし、彼らの悪行には報いる方。
9 我らの神、主を崇めよ。
その聖なる山にひれ伏せ。
我らの神、主は聖なる方。
イエスは私の主であるだけでなく、私たち(教会)の主、私たちの国の王、世界の神であることを確認してきました。今、この部分から、「世界の神は私の主」ということを考えてみましょう。このことを考えることによって主・王・神と私との関係がもっと良く見えてきます。
この箇所から、神はその名を呼ぶと答えてくれる存在であったことがわかります。イスラエルの民にとって、世界の神は、彼らの王であり、自分の主であることは前提でした。
皆さんの中では、神・王・主がバラバラになってはいないでしょうか?このことについて、適度なバランスを保つことは簡単ではありません。狭い範囲の日常に追われて、教会のあり方、国のあり方、世界のあり方に何の関心を持たないことも、反対にそれらのことに心を奪われ、主との個人的な関係が希薄になってしまうということも、よく起こります。そしてそれは、イエスの意思を行なうことを難しくします。
みなさんには。そうならないために個人的な礼拝の中で、イエスといろいろなことを話し合ってみることをお勧めしたいと思います。
(祈り) 主よ、あなたはただお一人の神、私たちの国の真の王、教会の主、わたしの仕える主であることを告白します。あなたの名をあがめます。あなたの国が少しづつこの地に現され、あなたの意思がこの地に行われるように、私たちを用いてください。国と力と栄はすべて、いつまでも限りなくあなたのものです。
メッセージのポイント
イエスはあなたの生活の中で本当に主とされているでしょうか?この社会の中で王とされているでしょうか?この世界の中で神とされているでしょうか? 原罪とは神の主権を奪う行為です。その結果、神でないものが神と、王ではないものが王と、そして主ではないものが主として権威を持っています。主・王・神の主権回復と人の救いとは表裏一体です。
話し合いのために
1) 主(王、神)とはどのような存在ですか?
2) イエスがあなたの主(王、神)であることを人はどう知りますか?
子供たちのために(保護者のために)
主・王・神の語義からはじめて、イエスがどのような方かを考えさせてください。イエスが王であったら国はどうなるでしょう?多くの人が、イエスが神であることを人々が受け入れたら世界はどう変わるでしょうか?イエスはこの国を、世界をどう思っておられるか、話し合ってみましょう。