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イエス様のとりこ
ローマ書シリーズ第12回
ローマ 6:15-23
池田真理
皆さんはイエス様のとりこになっていますか?今日読んでいくローマ書6章の後半は神様の奴隷になろうという話なのですが、奴隷という言葉は強制的に労働させられる意味が強く、それは神様の望みでもパウロの言いたかったことでもないので、何か他に良い言い方はないかと考えました。そこでとりこという言葉を思いつきました。とりこになるというのは元々捕虜になるという意味ですが、心を奪われて魅了されるという意味もあって、こちらの方がイエス様と私たちの関係をよく表していると思いましたので、今日はイエス様のとりこになろうとお勧めしていきたいと思います。それでは、まず15-16節から読んでいきましょう。
A. 私たちは罪の奴隷になるか神様の奴隷になるかどちらかしかない (15-16)
15 では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そうということになるのでしょうか。決してそうではない。16 知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
ここでパウロは、私たちは罪の奴隷になるか神様の奴隷になるか、どちらかしか選べないと言っています。英語では「神様の奴隷」とは言われず、「従順さの奴隷 slaves to obedience」と言われていますが、これは原語に即した翻訳です。でも、意味としては神様に従順に従うことを指していますし、後で22節に「神の奴隷になる」とはっきり出てくるので、ここでも「神様の奴隷」という意味で考えて問題ありません。とにかく、ここのポイントは、私たちは罪に従うか神様に従うか、どちらか一方の生き方しかできないのだということです。
なぜなら、私たちは誰も自分の力で罪の力から自由になれないからです。自分は何にも縛られないで自由に生きたいから神様なんていらないと思うのは、一見自由なように思えます。でも、それは実は自分の罪の奴隷になっているだけです。自分の願望や欲望を最優先して、自分を神様にしているだけだからです。いや、自分はそんな自己中心的にはならないで、ちゃんと自分をコントロールできると思ったとしても、果たしてそうでしょうか。自分をコントロールするのは、何を基準に、どこまで何を許すのでしょうか。その基準と判断をいつも正しく保つことのできる人は、この世に存在しません。私たちは、自分自身の人生を正しく導けるほど、頼れる存在ではありません。また、他の誰かにその役割を期待することも、同じように心許ないことです。
絶対に頼りになるのは神様しかいません。そして、神様に従うかどうかは、イエスかノーか、どちらかだけです。神様に従わないということは神様以外の何かを頼りにするということで、それは結局、罪に従っていることになります。だから、私たちは神様に従うか罪に従うか、そのどちらかしかなく、その間の中立的立場はありません。
17-18節に進みます。
B. 私たちはもう罪の奴隷ではない (17-18)
17 しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、18 罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
私たちはもう罪の奴隷ではない、と言われています。かつてはそうだったけれど、今はもう違うのだと言われています。なぜなら、「伝えられた教えの基準に心から聞き従った」からです。
1. 「伝えられた教えの基準」
「伝えられた教えの基準」というのは、イエス様が私たちのために十字架で死なれ、三日後に復活されて、私たちに罪の赦しと永遠の命が与えられたという教えを指しています。でも同時に、「基準」と訳されている言葉は「模範」とも訳せるので、イエス様を模範として、自分を犠牲にする愛を目指しなさいという意味も含まれています。それが、イエス様の最初の弟子たちから始まって、パウロにもローマの人たちにも伝えられ、代々の教会が受け継いで、私たちにまで伝えられた「教えの基準」です。
また、「伝えられた」という言葉にも、日本語でも英語でも訳しきれていない意味があります。ここの英語(NIV)の訳は少し意訳し過ぎです。原文では「引き渡すhand over」の受身形が使われていて、直訳すると「あなたがたに引き渡された教えの基準」となります。でも、訳し方はもう一つあって、「あなたがたが引き渡された教えの基準」とも訳せます。そう訳すと、引き渡されたのは「教え」ではなく私たち自身で、主語は人ではなく神様になります。おそらく、こちらの方が本来の意味だと思います。イエス様の愛を伝えるのは、人を通してですが、神様がしてくださることです。私たちがイエス様を信じたのは、私たちがそう選択する前に、神様が私たちを招いてくださったからです。私たちがもう罪の奴隷ではなくなったのは、まず何よりも、それが神様の望みであり、神様が私たちにしてくださった働きなのです。
2. 「心から聞き従って」
でも、その神様の働きを受けて、それに「心から聞き従う」のは私たちの応答です。この「心から」というのが大切なところです。これは、これまでもパウロが何回か強調してきた点でした。例えば、
2:29「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。
5:5「この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
このように、イエス様の愛を知って、私たちの心が動かされることが、私たちが罪の奴隷でなくなるために必要なことです。今日のテーマに沿って言えば、イエス様に心を奪われて、イエス様のとりこになることです。それは、私たちに働く聖霊様の働きであると同時に、私たち自身がその心に従ってイエス様を信じて生きる決心をする理性的な判断でもあります。
それでは、罪の奴隷ではなく神様の奴隷(またはイエス様のとりこ)になって生きるとは、具体的にどういうことなのでしょうか。残りの19−23を読んでいきましょう。
C. 神様の奴隷になって生きるとは (19-23)
19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。21 では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。22 しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
1. 「分かりやすい物言いをしています」?
パウロはここで「あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています」と断りを入れています。おそらくこれは、「奴隷」という言葉が強すぎることへの釈明です。当時の社会の奴隷制は16世紀以降の奴隷貿易ほど非人道的なものではありませんでしたが、それでも奴隷は強制的に奴隷にされるのであって、自発的に好んで奴隷になるような人はいません。その点は神様の奴隷には当てはまらない点です。そのことをパウロは釈明しようとしたのだと思います。
でも、奴隷は自分の主人に服従するのが当然で、奴隷は主人の家に所属し、主人の所有物であるとされたことは、神様の奴隷にも共通することです。私たちは自分の望みではなく神様の望むことを行い、神様の家に属し、神様のものです。
でも、私たちはこれとは正反対のことを繰り返してしまうものです。「あなたがたの肉の弱さを考慮して」というのは、そのことだと思います。神様の望みよりも自分の望みを優先し、神様の家を飛び出し、自分の人生は自分のものだと思い込んで、勝手な道を歩みます。罪の奴隷に逆戻りする性質はしぶとく私たちのうちに残っているからです。だからパウロは、あえて奴隷という強い言葉を使って、神様の奴隷になりなさいと教えました。
2. 「汚れと不法」を捨て、「聖なる者となりなさい」?(ヨハネ13:12-17)
それが具体的にどう生きることかというと、「かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい」と言われています。これも、前回読んだ箇所と似ていて、禁欲生活の勧めのように聞こえますし、確かにここでは道徳的な生活をしなさいという意味が含まれています。でも、この「聖なる者になれ」というのが、私はとても誤解を生じる言葉なんじゃないかと思います。まるで、この世の生活は汚らわしいから、禁欲的生活をして世捨て人になれと言われているような感じがします。そして、そこからさらに、不道徳な人たちとは付き合ってはいけないという誤解にもつながると思います。それは、イエス様の生き方とは正反対になってしまいます。イエス様は、罪の中でどうしようもなくなっている私たちの世界に来られた方であり、人からは不道徳で罪深いとされた人たちの中に進んで入っていかれた方でした。ですから、聖なる者になるというのは、不道徳を避けるという意味以上に、イエス様に倣って自分の偏見を捨ててどんな人のことも愛して生きることです。
最後に、ヨハネによる福音書にあるイエス様ご自身の言葉を読みたいと思います。ヨハネ13:12-17です。
12 こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。14 それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。15 私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。16 よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである
私たちは一生かかってもイエス様にはなれません。それでも、イエス様がしてくださったように、イエス様を倣って、互いに愛し合い、他の人に仕えるなら、私たちはイエス様の奴隷として立派に生きていることになります。それは、人間の主人が自分の奴隷に労働を強制させるようなものではありません。イエス様は、僕になった主人であり、自分のことよりも僕のことを愛して命を捧げられた主人です。そして、私たちの心を奪って、私たちをとりこにしてしまう主人です。だから、もう家に戻ってきなさいと命令されるまでは、今遣わされているそれぞれの場所で、イエス様の喜ばれることを求めて、歩み続けましょう。
(お祈り)主イエス様、あなたが私たち一人ひとりの人生の中に入ってきてくださったことをありがとうございます。私たちはそれぞれに抱えている問題があり、痛みがあります。でも、あなたの愛によってここまで支えられて歩んできました。どうか、これからも私たちの一歩一歩を導いてください。自分勝手に歩こうとしたり、あなたが共にいてくださることを忘れて寂しくなったりしないように、あなたの霊によって私たちを強めてください。そして、あなたが愛してくださったように他の人を愛することができるように、失敗はたくさんしますが、諦めないで続けられるように、助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
私たちは誰でも、自分の力で罪の力から自由になることはできません。誰にも何にも縛られずに自由に生きたいと思っても、実は自分自身を神にして自分の罪に支配されているに過ぎません。私たちが本当の自由を手に入れるのは、神様の愛を知り、自分よりも神様を信頼し、自分の人生を神様に委ねる時です。イエス様を通して神様の愛を知り、イエス様のとりこになってください。イエス様は私たちに進むべき方向を示し、歩み続ける力をくださり、永遠に共にいてくださる方です。
話し合いのために
- 私たちはもう罪の奴隷ではないとはどういうことですか?
- 「聖なる者となりなさい」とは具体的にどういうことですか?
子供たちのために(保護者のために)
ヨハネ13:1-17(イエス様が弟子の足を洗う場面)を読んで、イエス様は私たちの「主」であるということについて話してみてください。召使いと主人、家来と王様のように、私たちはイエス様に「仕える」ことが求められています。でも、イエス様は人間の主人や王様と違って、召使い(家来)の足を洗うような主でした。そして、私たちのために命まで献げられました。そんな「主」イエス様に「仕える」って、具体的にどんなことだと思いますか?