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野に咲く花のように・・・
シリーズ“私の魂よ主をたたえよ(詩編103,104) #2
詩編 103:11-22, ルカ 12:27-31
永原アンディ
今日は、詩編103編と104編の「私の魂よ主をたたえよ」シリーズ2回目、103編11−22節までを読んでゆきます。まず全体を読みます。
11 天が地よりも高いように主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。
12 東が西から遠いように主は私たちの背きの罪を遠ざける。
13 父が子らに憐れみをもたらすように主を畏れる者らに憐れみをもたらす。
14 主は私たちが造られた様を知り私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。
15 人の日々は草のよう。野の花のように咲くのみ。
16 風がそこを吹き抜ければ、消えうせ生えていた場所も、もはやそれを知らない。
17 しかし、主の慈しみはいにしえからとこしえまで主を畏れる者の上にありその義は子らの子に
18 その契約を守る者にその諭しを心に留めて行う者に及ぶ。
19 主は天に王座を据えその王権はすべてを治める。
20 御使いたちよ御言葉を行う力ある勇士たちよ、主をたたえよ御言葉の声に聞き従うために。
21 主の万軍よ主に仕え、御旨を行う者たちよ、主をたたえよ。
22 主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ主の治めるすべての場所で。私の魂よ、主をたたえよ
1. 神を畏れる (11-12)
11 天が地よりも高いように 主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。
12 東が西から遠いように 主は私たちの背きの罪を遠ざける。
英語でも日本語でも「おそれる」という言葉には、元々ただ怖がるのではなく、尊敬し敬わざるを得ない崇高さを言い表すものでした。しかし現代ではその部分が忘れられて、ひどい目に遭わされそうで怖いというニュアンスが大きいようです。
聖書では「愛」と訳されている原語にいくつかの意味の異なる単語があるように、畏れるにもニュアンスの異なる原語が多くありますが、神を畏れるとは、怖がるのではなく、畏敬することです。それは私たちが、野に咲く花の草のように、自分の存在の小ささやはかなさ、愚かさ、罪深さを自覚する時に、絶望せずに希望を持ち続ける秘訣です。
私たちは、言いつけに背き、裸であることに気づき、神様に見つけられるのを怖がったアダムとエヴァのように神様を怖がる必要はないのです。それは神様をおそれる者に対して、神様は慈しみで応えられる方だからです。
神を敬うとは、罰を恐れて言いつけを守ろうとすることではありません。何度失敗しても諦めずについてゆくことです。
先週のテキストを覚えていますか? 神様は「私たちを罪に応じてあしらうことなく 過ちに従って報いることもない」方なのです。
私たちが神様を悲しませる者にならないためにすべきことは、できない努力ではありません。呼ばれた者としてついてゆくことです。
2. 神の憐れみを知る (13-15 ルカ 12:27-31)
とはいえ、私たちは自分の存在があまりにもちっぽけであることに、絶望します。しかし神様は、あっという間に枯れてゆく草花のような私たちをむなしいものではなく愛すべきものと見ていてくださることが次の部分でよくわかります。読んでみましょう。
13 父が子らに憐れみをもたらすように主を畏れる者らに憐れみをもたらす。14 主は私たちが造られた様を知り私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。15 人の日々は草のよう。野の花のように咲くのみ。
神様は、私たちがあらゆる意味で小さな存在であることをよくご存知です。しかしそのような私たちにご自身の創造した世界の管理を任せた方であることを忘れてはいけません。自分の小ささを認めることは神様の大きさを認めることです。このことについて神様は、人となられた神、イエスとしてこのように言われました。
27 野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。29 だから、何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな。30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
「神の国を求める」それは何か難しい要求をされているわけではなく単純で素朴なことです。国といっても、今立っているところから離れるということではありません。天国に帰るという話でもないのです。神の国とは、神の支配権の及ぶ範囲です。地上にいて、神を神とも思わない人々に囲まれていたとしても、あなたが神を信頼してそこの立つ時、神はそこにおられ、神の国はそこにあるのです。それこそが、ちっぽけな存在である私たちに対する神様の憐れみです。
大丈夫、本当に必要なもの、絶対に必要なものを、神様は時にかなって与えてくださいます。野に咲く花に神様の慈しみと憐れみを見ましょう。そして「あなたがたはそれ以上の存在なのだから心配しないでついてきなさい」というイエスの言葉を信頼してついてゆきましょう。
3. 神の正義を信頼する (16-18)
16 風がそこを吹き抜ければ、消えうせ生えていた場所も、もはやそれを知らない。17 しかし、主の慈しみはいにしえからとこしえまで主を畏れる者の上にありその義は子らの子に18 その契約を守る者にその諭しを心に留めて行う者に及ぶ
16節にある通り、永遠に比べれば私たちの地上の歩みは短いものです。草花が春に発芽し、夏に花を咲かせ、秋に実をつけ、冬に枯れてしまうのと変わりありません。しかし、あなたへの神様の慈しみはとこしえからとこしえまで、あなたと共にあるのです。あなたは永遠の存在なのです。
さらに主はただ私たちの安心を守るだけにとどまらず、その正義を信じる者たちを用いて表す方であることが、続く17,18節でわかります。人類の罪が世界に満ち、強いものが力を振るい、小さい者、弱い者が虐げられているとき、神様は一見はかない野の草花のような私たちを用いてその正義を表されます。歴史の中にも何度もそのようなムーヴメントが信仰を力として表されてきました。
イエスが、正義を求めて私たちに何をさせようと願っているのかに、耳を傾けなければ、知らず知らずのうちにイエスに敵対する者となってしまうということも起こります。しっかりと聞いてゆきましょう。
4. 神をたたえる (19-22)
19 主は天に王座を据えその王権はすべてを治める。20 御使いたちよ御言葉を行う力ある勇士たちよ、主をたたえよ御言葉の声に聞き従うために。21 主の万軍よ主に仕え、御旨を行う者たちよ、主をたたえよ。22 主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ主の治めるすべての場所で。私の魂よ、主をたたえよ。
もう一度週報の表紙の写真を見てください。
構図としては一本の花にフォーカスされていますが、実際の風景の中で、ファインダーから目を離せば、全体として様々な色が点在する無数の花からなる美しい野原が見えるはずです。
一年に満たない地上での存在、花を咲かせているのはほんの数日。それでも、その一輪一輪がソロモンの衣装以上に美しい装いを与えられて作られた神をほめたたえています。
しかし神様は全体を見ておられるだけではなく、この写真のようにあなたにフォーカスして見ていてくださるのです。それを知っているすべての花が共に声を上げて、神様をほめたたえているように、わたしたちも、必要な時には自分の魂に命じながら主をたたえて歩んでゆきましょう。
(祈り)神様、あなたをほめたたえます。永遠に私たちの主でいてくださることを感謝します。あなたの作られたこの世界では、小さな、限界のある存在で、ここでの命の長さも自分ではどうすることもできない存在ですが、この地上での命にとどまらない、永遠の命を頂いているので、今はこの置かれている場所で、状況であなたの支配を求めます。どうか私たち一人一人にあなたから来る平安を与えてください。
メッセージのポイント
この社会で生きている限り、自分ではコントロールできない物事に悩むことのない人はいません。野に咲く花のようにはかない人生とも思えますが、野に咲く花のように神に委ねる人生ほど価値のある生き方はありません。神を畏れ、信頼し、ほめたたえて生きてゆきましょう。
話し合いのために
- 現代の英語や日本語の「恐る」と詩人の「畏れる」の違いは?
- 人はどのような意味で野に咲く花を咲かせる草のようなのですか?
子供たちのために(保護者のために)
私たちが神様を信じるのは、神様が信じないと報復するこわい方だからではなく、どんなことがあっても、いつも一緒にいてくださり、私たちを愛し、守り、導いてくださるイエス様であることを確認してください。私たち(大人)の持ちやすい誤った傾向として、子供にいうことを聞かせるために、神様の『恐ろしさ』を持ち出して脅してしまう、ということがあります。しかし神様を子供に言うことを聞かせる道具にしてはいけません。