神様の国と社会福祉

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神様の国と社会福祉

ルカ17:20-21; マルコ4:26-29, 30-32

池田真理


 今日は1回ローマ書のシリーズを離れます。私は週3日福祉施設で働いているのですが、今年で8年目になり、そこで感じてきたことを皆さんにお話ししたいと、少し前から思っていました。それで、突然なのですが、今日はそのことをお話ししたいと思います。最初に、ルカによる福音書17章を読みます。

20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。21 『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」

 私が働いている施設は、何らかの理由で住む場所を失った人に緊急一時的に住む場所を提供する施設です。受け入れるのは生活困窮者やDV(ドメスティック・バイオレンス)の被害者で、生活保護を受けている人たちです。主に女性を受け入れていますが、生活に困窮した家族も受け入れているので、下は0歳の赤ちゃんから上は80代の高齢の方まで、単身の女性、夫婦、お母さんと子供、家族など、年齢も家族構成も様々な方が利用されています。
 私たち施設職員の仕事は、利用者さんの日々の生活の様子を見守り、それぞれの生活の立て直しに向けて支援することです。利用者さんは、入所して、心も体も少し休めたら、借金の整理や離婚の手続きを始め、同時に新しい住まいを探して、ほとんどの方は新しい住まいを見つけて退所していきます。中には、入所中に色々な問題が発覚して、別の施設に移動したり、精神疾患が悪化して入院したりする方もいます。辛いケースだと、DV加害者の元に戻ってしまう方も少なくないですし、お母さんの心身の状況が悪くて子供の安全が確保できない場合は、一時的に子供を児童相談所にあずける場合もあります。

 私は神学校を卒業してユアチャーチの牧師になると同時にこの仕事を始めて、8年目になりました。始めた理由は、経済的な理由と、以前勤めていた国際協力の仕事をやめた時から、日本の貧困に関わりたいという気持ちがあったからですが、今では私にとって、牧師の仕事と並んで、元気の源になっています。困難な状況にある人と関わることを元気の源にするなんて、他人の不幸を喜んでいるかのようですが、そういうわけではありません。その人たちの中に、神様の国が来ていることを、予想外の人から予想外の時に教えてもらえるので、その嬉しさが私の元気の源になっています。

 ただ、始めはそうではありませんでした。牧師と施設の仕事を始めてから分かってきたのは、想像以上に自分は人の役に立てないということでした。相手が抱えている問題が大きければ大きいほど、私にできることは限られていて、何もできないことも多いです。できることがありそうだと思って首を突っ込んだ時ほど、相手には何も伝わっていなかったり、伝わっていてもそう簡単に解決できるほど問題は軽くなかったと思い知ることが多いように思います。それは、私の力量不足が原因のこともありますが、人が人を支えることの限界だったり、今の日本の社会保障制度の限界だったり、そのいくつかだったり全てだったり、原因は複雑ですが、もっと何かできる余地はないのか、考え続けなければいけないと思っています。
 でも、私にはできなくても、神様は働いておられて、時々その働きの実りの一部を味わわせてくださることがあります。そのことを最初に教えてくれた、施設のある利用者さんのお話をしたいと思います。仮にアイさんとお呼びします。(個人情報保護のため、一部内容を変更しています。)

 アイさんは20代の女性でした。親からの虐待があり、親から逃れたいという理由もあってSNSで知り合った男性と結婚しましたが、その夫からDVを受けて、うつ状態が悪化し、家を出て逃れてきました。入所した当初は離婚に向けて積極的に動いていたのですが、徐々に元気がなくなり、ある日、声が出なくなり、自分が誰かも分からなくなってしまいました。それは強い精神的ストレスを経験した時に起こる解離という状態だったのですが、当時は私は何が起こっているのか分からず、本当に慌てました。アイさんは元から痩せていたのにさらに痩せて、暗く締め切った部屋の中で無表情で座り込んでいました。急いで精神科の病院に入院することになりました。
 しばらくして状態が落ち着いたので、退院して戻ってこられたのですが、戻ってきた当初はまだ表情が乏しく、声も出ず、心配でした。でも、少しずつ回復し、声も出せるようになり、久しぶりにちゃんと顔を合わせて話すことができました。「元気になって良かった!」と喜びあったのですが、その時のアイさんの笑顔を今でも覚えています。
 親とも夫とも問題が解決したわけではなく、辛い状況には変わりありませんでしたが、その中でアイさんが見せてくれた笑顔が本当に素敵で、私の方が元気付けられました。あんなに表情を無くしてしまった人が、こんなふうに笑えているということに安心し、感動したのだと思います。それは、アイさんが元々持っていた力であり、医者がそれをサポートした結果ですが、同時に私は神様がなさったことだと思いました。私はアイさんのためにほぼ何もできませんでしたが、神様は私よりもずっとアイさんのことをよく知っておられ、愛しておられ、アイさんの回復を願っていたのは誰よりも神様ご自身なのだと思いました。そのことを、神様は、アイさんの笑顔を通して私に教えてくださいました。

 イエス様は、マルコによる福音書の中でこう言われています。

26 「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

神様の国は、私たちがせっせと畑を耕して、水をやり肥料をやって育てるものではないと言われています。どうして芽を出し成長するのか、私たちには分かりません。種は勝手に成長し、土が勝手に実を結ばせます。種を蒔いた人は、夜昼寝起きしているだけです。なんとも無責任で、怠けた態度のように思えますが、それでいいとイエス様は言われています。神様の国は、私たちの知らないところで成長し、私たちにはどうしてそこでそれが成長できたのかも分かりません。私たちは、時に思わぬところから芽が出ていたり、いつの間にか実ができていたりするのを見せてもらって、驚き、喜ぶだけです。それは全て、神様のなさることで、私たちはそのほんの一部を担わせてもらっているに過ぎないのだと思います。

 アイさんのことを今振り返ると、私たちはあたふたと焦って、アイさんという種が死んでしまうと恐れましたが、神様はアイさんの持つ力を知っており、必ず芽を出すことを信じていたのだと思えます。今思えば、アイさんは、親と夫から必死で逃げてきて、やっと安心して眠れる場所と一人になる時間ができたことで、かえって、それまで張り詰めていた緊張が解けて、安心してダウンすることができたということだったのかもしれないと思います。解離を起こしたことや入院したことはアイさん自身にとっても私たちにとっても予想外のことでしたが、神様の目から見たらアイさんに必要な休息と治療だったのだと思います。そして神様は、一度は表情も声もなくしたアイさんに、声も笑顔も取り戻させてくださいました。私は、アイさんの笑顔の中に、神様の笑顔を見た気がして、神様から大丈夫だよと言われた気がしました。そこに神様の国は来ていたのだと思います。
 アイさんだけでなく、施設に入所してくる人たちは何かしら人から深く傷つけられた経験を持っていますが、そこから回復するのはご本人の元々持っている力と神様の働きで、私たちにできることはほとんどないか、わずかだけだと思います。それでも、思いがけない時に、その人たちの中に、神様は「私はここにいるよ」と教えてくださいます。それは一見本当に些細な出来事です。

 たとえば、生活保護を受けていることに後ろめたさを感じて、歯が痛いのを我慢していた方が、自分は歯医者に通ってもいいと思えた時。その方は、長年夫のDVに苦しみ、夫から逃げた後は体調が悪い中働いて頑張ってきた人でしたが、定年を過ぎて仕事を失い、住む場所も失って施設に来られた方でした。入所当初は疲れ切った表情で、ご自分の人生を諦めているような口調でしたが、少しずつ笑顔が出てきて、ある日涙ぐみながら笑顔で「私、元気になってきました」と言われました。私は、それが本来のその方で、また神様がやってくれたのだと、プレゼントをもらった気分でした。

 また、誰かが元気を取り戻すことだけではなく、心の奥の悲しみを打ち明けてくれるのも、神様の働きだと思います。それまで誰にも言えなかった「自分は辛かった」ということを、打ち明けてくれる時。独り言のような嘆きをぶつけてくれる時。私たちは、本当に文字通り、聞くことしかできません。でも、自分の一番辛い部分を誰かに話すことはそれだけで大きな勇気のいることですし、意識していなくても、その人は自分で回復しようとしていて、神様はそっとその人の背中を押してくれたのだと思います。具体的な解決のために何もしてあげられないのはもどかしいですし、どうしてこの世界はこんなに苦しいことばかりなのかと思ってしまうこともありますが、だからこそ、イエス様は十字架に架かられたのだと思い直します。
 先ほど読んだマルコによる福音書の続きに、たとえ話がもう一つあります。

30 「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31 それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

よく、からし種のような信仰という言い方がされますが、ここでからし種にたとえられているのは私たちの信仰ではなく、神様の国そのものです。イエス様は、神様の国でさえも、つまり神様の働きさえも、最初はからし種のように小さいと言っているということです。
 二千年前のエルサレムで一人の罪人が十字架刑に処せられて死んだという出来事は、人類の歴史の中で言ったら、砂漠の中の一粒の砂のように小さなことです。関係ないと思えば、なんの意味も持たない出来事です。でも、そこから神様はこの世界を変えようとされています。神様にとって私たちは、ご自分の命を捧げるほどに大切な存在であり、私たちがそのことを互いに教え合うことを望まれています。

 笑顔をなくした人が笑顔を取り戻すことも、自分を大切にすることを忘れていた人が自分を大切にしていいと思えることも、心の奥の嘆きを外に出す勇気を持てることも、小さな神様の国の種です。同じような種は、特殊な状況にだけにあるのではなく、私たちの日常の中にたくさんあると思います。最初は小さくても、私たちにはどのように成長するのか分からなくても、神様はそれをやがて大きく成長させることができます。私たちにできるのは、いつかどこかで神様が見せてくださることを楽しみにしながら、焦らず、無差別に種を撒き続けることだけだと思います。神様のしてくださることを期待して、それぞれの場所で、種を撒き続けましょう。神様の国は、誰にでも見える形で現れるわけではありませんが、それは私たちの中に、私たちの間に、すぐ近くに、来ています。

(お祈り)主イエス様、どうか互いの罪の中で傷つけあっている私たちを赦して、癒してください。あなたに愛されている者として、造り変えて、成長させてください。私たちは小さい者ですが、あなたはこんな私たちを通して、この世界を変えることを望まれました。だから、どうか私たちが自分の愛の乏しさやできることの少なさに失望せず、あなたのしてくださることに期待できるように、助けてください。私たちが家族や友人や同僚に対して、一人一人があなたに愛されている大切な存在であると、行動を通して伝えることができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私は週3日、生活保護法に基づくシェルターで働いています。病気やDVなど、様々な理由で家を失った人たちが生活保護を受けて入所する施設です。自分の力量不足と、人が人を支える限界と、日本の社会保障制度の限界と、支援には様々な限界があり、支援者にできることは本当にわずかだと思います。それでも、神様は時に思いがけない形で「私はここにいる」と教えてくださることがあります。それは、笑顔をなくしていた人が笑顔を取り戻すことだったり、独り言のような心の奥の嘆きを人に打ち明けることだったり、些細なことですが、神様の愛が実現している瞬間です。そこに神様の国の種があります。


話し合いのために

あなたにとって「神様の国」とはなんですか?神様の国を感じるのはどんな時ですか?


子供たちのために(保護者のために)

神様の国は、とても身近に私たちのそばにあることを話してみてください。神様の国は、神様の愛が支配しているところです。「あなたは神様に愛されている大切な存在です」ということを、本当に信じられる時、そこに神様の国は来ています。また、そのことを誰かに伝えて、その人が受け取った時にも、神様の国がそこにあります。