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自然を壊したのは誰か?
詩編 104:1-9
永原アンディ
今日は、詩編103編と104編の「私の魂よ主をたたえよ」シリーズ3
回目、104編1−9節までについてお話しします。まず全体を読みます。
私の魂よ、主をたたえよ。わが神、主よ、あなたは大いなる方。
威厳と輝きで身を包む。
光を衣のようにまとい
幕のように天を張る。
水の中に自らの高殿を建て雲を乗り物とし
風の翼で行き巡る。
風を使いとし
燃える火を従者とする。
主は地をその基の上に据え代々とこしえに揺らぐことのないようにされた。
深淵が衣のように地を覆い水が山々の上にとどまっていた。
あなたの叱咤によって水は逃げ去り
あなたの雷鳴によって逃げ惑った。
水は山々を上り、谷間を下り
あなたが礎を築いた所に向かった。
あなたは境を置き、水が越えて
再び地を覆うことのないようにされた。
1. 神の創造された世界は完全だった
誰もが、創世記の第1章に描かれている神様が良しとした世界やこの詩に歌われている世界と、私たちを取り巻く世界は同じとは思えないと感じると思います自然災害でも、事故でも、事件でも多くの人が被災していることを見て、多くの人が「もし神様がいるのならなぜこんなことが起こるのか?」と神様の存在や聖書の内容を疑うのは当然のことです。創世記は嘘だったのか?神様は実はいないのではないか?そういう疑問が、今日まで発展してきた哲学や思想の大きなエネルギーでさえあったのです。
しかしそれは現代に限ったことではありません。イエスの地上で生きた時代も、もっと昔のこの詩人の生きた時代も同じことです。詩人は、歌っている状況とは反対の、私たちが感じているのと同様の多くの困難の中で生きていました。
詩人が歌っているのは、神様が作った世界の本質です。そしてそれも今も昔も変わらないことなのです。神様は申し分のない世界を作られました。失望する必要も、諦める必要もありません。この歌は、目に見える状況に関わらず真実です。しかしそれは私たちが目にしているものが幻だということではありません。今私たちの見ているのは確かに、神様の意に反した病んだ、傷ついた社会です。そしてこの現実の責任は、私たち人間にあるということです。
2. 世界の管理を任された人類の罪
創世記では、神様が作られた世界を満足された直後にアダムとエヴァの話になります。堕落の物語と説明されますが、むしろ人間が最初から持っている性質の表れです。
キリスト教は伝統的にこの人間の性質を「罪」と表現してきました。
間違ってはいけないのは、それが特定の行為を指すものではないと言うことです。法律は、ある行為をその社会の規範に照らして罪とします。ですから、ある国では犯罪として罰せられることでも、他国では罪に問われないということも多いのです。
それに対して聖書の指摘する罪は、行為ではなく、全ての人間の持つ性質なのです。それは「自己中心性」「利己主義」です。聖書はその本質を、神様に背を向け自分を神のように考えることだと教えています。アダムたちの話はその象徴です。
この性質を自覚せず自身の欲望に従って行動するなら、神様が私たちに期待されたように、この世界を正しく治めることはできません。力を持つ者は自分の利益のために、自然であれ、動植物であれ、人間さえも例外でなく、他の被造物を破壊し、汚染し、傷つけ、殺すことになります。自然破壊も搾取も差別も独占もその性質がもたらした現実です。
そうすると、なぜ神様はそのような性質なしに人間を創らなかったのかと言い出す人も出てくるでしょう。そこで考えなければならないことは、人が「意志を持つ」存在だということです。神様が世界の管理を任せるために、人は意志を持つ存在でなければならないのです。
物理的な形を持たない神様ご自身に似せてというのですから、もちろん姿形のことではなく、意志を持つ存在として創られたということです。自分の意志を持たず、自動的に神様に望ましいいことをするように造られているロボットのような存在なら、創世記にはご自身に似た姿に創ったとは書かれていなかったでしょう。神様はご自身の意志をこの世界に表すために、そのような者として私たちを創りました。
創世記2章7節に「神である主は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」と書かれています。他の動物を創った時とは異なり「命の息を吹き込まれ」て、人間は初めて「生きる者」となったのです。つまり、他の動物にも備えられた呼吸装置のことではなく、神の息、すなわち霊を吹き込まれて、霊的にも生きる者とされたということです。残念ながら、多くの人は自分が祝福された霊的存在であることに気付けず、その結果が今の世界の状態に反映されています。
3. 世まだ手遅れではない
これは、神様が人間による世界の維持を諦め、終わりにしてしまう前兆なのでしょうか。いいえ、神様は人間を見捨ててはいません。
創世記18章には、アブラハムの生きた時代の最悪の都市ソドムについて、そこに10人しか正しい人がいなくても滅ぼすことはないと言われる神様が描かれています(創世記18:16-33)。それどころか、つい最近(まあつい最近と言っても2000年前ですが、創世記から始まる世界の歴史に比べればつい最近です)、神様は驚くべきことに、一人の人イエスとして世にご自身を表して、ご自身を「道であり、真理であり、命です」そして「私に従いなさい」とおっしゃったのです。
今までどんな歩み方をしてきたとしても、このイエスの招きに応えて生き方を変えることができます。この方向転換をした人々が、声を上げ、行動し、平等や差別解消は少しづつ実現してきました。遅々とした歩みですが、神様は究極の平和「神の国」の現れを広げるために、イエスに従う者に力を与え、支え、励まし、共に歩んでくださいます。
わたしたちができることはこのイエスをたたえ、彼に従って日々を歩むことです。イエスが遠く感じるなら、「主をたたえよ!」と自分の魂を励まし、また互いに励まし合って、神の国の完成を夢見て進んでゆきましょう。
(祈り)
神様、あなたがこの世界の主であることをありがとうございます。
私たちを愛し、信頼していて下さり、ご自身をイエスとしてはっきりと表され、私たちが確信を持って従うことができるようにしてくださったことを感謝します。
あなたの思いがわからず、また分かっていても自分の欲望に勝てずに、あなたの創られた世界を正しく治めるどころか、傷つけ、破壊している私たちを憐れみ、正しい道に歩むことができるように導いて下さい。
世界が自分の目にどのよう見えているとしても、あなたの支配に信頼を置いて、歩み続けることができるように導いて下さい。
どうか私たちが互いの必要に気づいて助け合うことができますように。
この世界の必要に応えて働くことができますように。私たちに必要な力を与えて下さい。
感謝して、期待して、私たちの主、イエスキリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
私たちは、パンデミック、気象変動、自然災害に見舞われる世界に生きいます。自然災害を神様の無慈悲とか罰という考えがあります。しかし実は、神様に託された世界の管理を正しくしてこなかった私たち自身に問題があるのです。神の意志を尊重する代わりに、自身の欲望に従って生きる私たちの性質が世界を住みにくくしているのです。しかし、イエスに従って歩む人々によって世界は本来の姿に近づいて行きます。
話し合いのために
1) 人類の罪と私の罪はどう関連していますか?
2) なぜ神様は完全ではない私たちに世界の管理を任せたのでしょう?
子供たちのために(保護者のために)
神様の国は、とても身近に私たちのそばにあることを話してみてください。神様の国は、神様の愛が支配しているところです。「あなたは神様に愛されている大切な存在です」ということ コロナ禍のこと、気候変動のこと、自然災害、少数者・弱者へ差別などのニュースに子供達も接しています。特にこの一年以上にわたるコロナ禍は子供達の心にも大きな影響を及ぼしています。この詩で、もう一度、本来の“世界”の素晴らしさを確認しましょう。そして、人間の罪が世界に変調をもたらしてきたこと、その罪は性質として誰にでもあること、それをイエスに従って歩むことによって克服し、神様が作られた本来の世界の姿が少しでも垣間見られるようになることに希望を持たせて下さい。