私たちは自分で自分を救えない

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私たちは自分で自分を救えない

ローマ 7:7-25

池田真理


 今日は、「私たちは自分で自分を救えない」ということをお話ししたいと思います。個人の問題でも、社会の問題でも、その根本にあるのは私たち人間の罪という同じ問題です。私たちは誰でも、自分の行動に責任を持たなければいけませんが、私たちの根本的な問題は、私たちの力ではどうにもならないほど深刻だということを知る必要があります。その問題の前には、人間の良心や道徳は役に立ちませんし、努力や根性でそれを直そうとしても直せません。

 今日はそんな少し抽象的でゆううつなお話がメインになってしまいますが、お伝えしたいのは、だから私たちは自分の外に助けを求めなければいけないし、求めていいのだということです。周囲の人にSOSを出すこと、そして、神様に助けを求めることです。それでは、少しずつ読んでいきます。まず最初の7節だけ読みます。

A. 良心や道徳は人間を救えない

1. 規則がなければ反則もない(7)

7 では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう

 パウロの焦点は、前回に引き続き、ユダヤ教の律法についてです。前回もお話ししたように、私たちはユダヤ教の律法を守っているわけではありませんが、律法を大切にしていた人々と私たちには共通した問題があります。今日の箇所では、律法がどのようにユダヤ人の道徳的生活に影響していたかということが言われているので、律法という言葉を人間の良心や道徳と置き換えて読むことができます。


 7節で言われているのは、規則がなければ反則もない、ということです。「貪るな」というのは「他人の家や妻、奴隷や家畜を欲してはならない」という戒めで、「他人のものを横取りするな」ということです。私たちは道徳的に、また良心から、そんなことは言われなくても分かっていると思います。でもそれは、良心や道徳があるから、それが悪いことだと認識できると言えます。良心や道徳があるから罪は罪として認識される、ということです。当たり前と言えば当たり前のことです。8-11節に進みます。


2. 規則は破りたくなるもの?(8-11)

8 しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。9 私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、10 私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。11 罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。

 規則というのは破りたくなるものなのでしょうか?人によって違いますが、「やるな」と言われるとやりたくなる、「やれ」と言われるとやりたくなくなる、誰でも経験したことのあることだと思います。特に反抗期には、相手が親や先生だというだけで反発したくなるものです。


 でも、この規則に対する反抗心というのは、思った以上に深刻です。アダムとエバが神様に食べてはいけないと言われた木の実を食べたのは、神様への反抗心からでした。誰かに指図されることを嫌がり、反抗して、自分の自由になんでもやりたいと思うことは、私たち人間が持つ根本的な問題なのです。それは、自分で自分を正しく導けるという間違った過信であり、傲慢さです。8節と11節に「罪は戒めによって機会を捉えた」とありますが、私たちは規則によって制限されることを受け入れるより、規則によって反抗心に火をつけられるものだということです。

 反抗期の子供は、やがて自分で痛い目を見て、自分で自分の間違いに気がついて、大人になっていきます。でも、神様に対しての反抗期は、誰でも何歳になってもなかなか抜け出せないものです。12-13節に進みます。


3. 規則が悪いのではなく、規則を破る私たちが悪い(12-13)

12 実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。13 それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。

 神様は人間に良心や道徳を備えてくださいましたが、私たちにはそれに従って行動する力がありません。様々な規則を作っても、抜け道を探し出し、言い訳を作り出すのが私たちです。
 先日、気候変動を研究する世界的機関が、人間の活動によって地球温暖化が進んでいることは、疑いの余地がないという報告書を発表しました。私たちは、このまま環境破壊を続ければ自分達の子供に未来がなくなるということを知って、経済的豊かさを最優先する流れを止めなければいけないと思いますが、なかなかそうなりません。

 コロナに関しても、一方で3回目のワクチンを行う国があるのに、他方でほとんどの人が1回のワクチンも受けられない国があります。世界全体で協力しなければウイルスを抑え込めないことは分かっているのに、世界の不公平さは変わりません。

 人間の傲慢さは、良心や道徳や規則によってコントロールできるほど、軽くはありません。私たちは、良心に反したことを行い、道徳に反したことを許し、規則を守ることができません。今日の箇所の後半は、それをさらに個人的な問題として捉えています。14-25節全体を読んでいきましょう。


B. 努力や根性は人間を救えない (14-25)

14 私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。15 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。16 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。18 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。19 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。20 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。21 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気づきます。22 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、23 私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。24 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。25 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

1. 規則を守りたくても守れない私たち

 この部分は、パウロの個人的な内面の葛藤が正直に言い表されていて、誰でも親近感を持ちやすい箇所だと思います。特に、日々罪との戦いを続けていると自覚しているクリスチャンにとって、この葛藤はリアルだと思います。

 でも、パウロがこの箇所を書いたのは、クリスチャン同士で共感するためではありません。私たちは、イエス様を知る前も知った後も、するべきことをしたくてもできません。パウロは20節で「自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」と言っています。これは一見、悪いのは罪で、私は悪くないと言っているようにも思えますが、そうではなく、自分の中には自分の力で追い出すことのできない罪が住み着いているということを言っています。私たちは、信仰を持っていてもいなくても、自分を正しく導く能力がないと、自分の無能力さを謙虚に受け入れる必要があります。

 ただ、この箇所は、「私たちはなんと無能なのでしょう」という嘆きで終わりでもありません。その嘆きは、そんな私たちでももうイエス様に救われたのだと知っているから言えるもので、過去のめな自分に向けられています。


2. では、私たちはどうすればいいのか?

 では、一体私たちはどうすればいいのかというと、それは続きの8章で語られていくことになりますが、一言で言うと、聖霊様の力に頼ることです。でも、もう少し広く言うと、自分の外に助けを求めること、他人に助けを求めることとも言えます。

 やりたいのにできない、やめたいのにできないという葛藤は、問題が深刻であればあるほど、自分にはどうしようもないものです。様々な依存症はその代表だと思います。依存症と診断されていなかったとしても、何かや誰かに依存してしまう傾向があるのは、寂しさや傷つきから自分を守るための防衛反応だと思います。それを、自分の努力や根性でどうにかできるわけがありません。できるなら最初から依存することはないと思います。

 私たちに必要なのは、自分の抱える闇を、一人きりで抱えようとしないことです。神様を信じているなら、もちろん神様の前にその闇をさらけ出すことが何より大切です。神様は聖霊様によって私たちの闇を照らしてくださいます。でも同時に、神様を信じていてもいなくても、私たちは自分で自分を救うことはできないと認めて、周りにSOSを出す勇気も必要だと思います。人間同士では根本的な解決はできなくても、問題を一緒に共有することはできます。

 私たちは、自分で自分を救うことはできませんが、イエス様はすでに私たちを救ってくださいました。そして、私たちはイエス様の手足として、互いに少し、救い合うことができます。その中心は聖霊様による働きで、次回からそのことをお話ししていきたいと思います。

 先週、ニュースで流れたアフガニスタンの首都カブールの映像はとても痛ましく、ショックでした。今日のメッセージは、人間の罪は大きすぎてどうしようもないから、アフガニスタンのこともあきらめるしかないと言っているのではありません。アフガニスタン情勢だけでなく、気候変動にしてもコロナウィルスにしても、国内の様々な社会問題にしても、私たちはつい、問題の大きさや複雑さに圧倒されて、無力感にとらわれてしまいます。でも、イエス様は、この救いようもない私たちの世界に来られ、私たちを愛してくださっている方です。私たちは自分で自分を救うことができないからこそ、イエス様に助けを求め、互いに助け合うことが必要です。イエス様は、私たちが誰かのSOSを受け取れるようになることを望まれ、聖霊様によって私たちをそのような者に変えてくださいます。ですから、どんな問題に対しても、あきらめずに祈り続け、自分にできることを続けましょう。

(お祈り)主イエス様、私たちは悪い者ですが、あなたは愛してくださり、多くのものを与えて、委ねてくださっています。いただいたこの命を、あなたの良い計画のために用いてください。私たちが、自分の生き方と人間関係の中で、あなたの愛を少しでもこの世界に広げることができるように導いてください。あなたの霊を私たちに注いで、あなたの悲しみを悲しみ、あなたの喜びを喜べるように、私たちを変えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

信仰には関係なく、人間には誰でも良心や道徳観念があります。でも、良心や道徳観念を常に正しく保って行動できる人間は誰もいません。他人に対しても、自分に対しても、良いことよりも悪いことを続けてしまうのが人間です。それは私たちの努力や根性でどうにかなる問題ではありません。私たちは、自分で自分を救えないことを謙虚に受け入れ、自分の外に助けを求める勇気を持つ必要があります。


話し合いのために

1)自分は救いようがないと知った経験を教えてください。
2)あなたはどんな問題を抱えていて、どこに(誰に)助けを求めますか?


子供たちのために(保護者のために)

聖書を読むとしたら15-17節がいいと思います。自分で「悪いこと」と分かっているのにやってしまったり、「良いこと」と分かっているのにできなかったりするのは、大人も子供も日常的にたくさん経験します。学校では「良いこと」だけをするように教えられますが、現実としてそれは不可能なことです。それが可能なら、イエス様が死なれる必要はありませんでした。学校でうまくいかない時、友達や家族とうまくいかない時、イエス様に助けを求め、周りの人に助けを求めていいことを教えてあげてください。