信仰の旅路


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信仰の旅路

詩篇 105

永原アンディ


A. 未来のために振り返る (1-11,45)

105編も103,104編と同様に長い詩ですが、105編は分割せずに一回でお話しします。と言っても、この詩の内容は主に創世記に記されていることの回顧なのです。そこで今日は皆さんに提案したいのですが、この詩に記されている内容を、今週は月曜日から土曜日まで毎日少しづつ読んでみていただきたいのです。子供のいる家庭なら、一緒に読んだり、親が先の読んでおいて易しい言葉でお話してあげるのもいいでしょう。そしてできれば一番心に留まったことをメモしておくと良いでしょう。

そこで、今朝はこの詩の概要と、私たちにとっての意味、そしてそれぞれの箇所の説明をしていこうと思います。11節までと最後の45節を読みます。

主に感謝し、その名を呼べ。もろもろの民に主の業を知らせよ。 主に向かって歌い、主をほめ歌え。すべての奇しき業を語れ。 主の聖なる名を誇れ。主を求める者たちの心は喜べ。主とその力を求めよ。 常にその顔を尋ねよ。 主の行われた奇しき業を奇跡と主の口から出る裁きとを心に留めよ 主の僕アブラハムの子孫よ 主に選ばれたヤコブの子らよ。主こそ我らの神 その裁きは全地に及ぶ。主は心に留められる 主の契約をとこしえに 命じた言葉を幾千代にアブラハムと結んだ契約を イサクに対する誓いを。主はそれをヤコブのための掟 イスラエルのための永遠の契約として立て言われた「私はあなたにカナンの地を与えあなたがたの相続地とする」と。(1-11)

これは彼らが主の掟を守り 主の教えに従うためである。ハレルヤ。(45)

ユダヤ教の礼拝のなかでワーシップソングとして詩編が歌われたわけですが、お話ししたように、この105編は出エジプトを中心とした回顧です。その過去の出来事を知ること、覚えていることを詩人は勧め、それは主の掟、主の教えに従うために大切ですというのです。これまでも出エジプトの出来事がイスラエルの民の神様への信仰の土台となっていることは何度もお話ししてきました。それは確かに象徴的な出来事でしたが、出エジプトも実は神様がアブラハムに与えた壮大な約束(永遠の契約)に含まれたものであることをこの詩は確認させてくれます。
では、それがユダヤ人ではない私たちになぜ、またそのように関係するのでしょうか?それは神様が、アブラハムを民族の父にとどまらず、神に従うものの父祖と認めたことがその理由です。その経緯については火曜日に読む予定の創世記17章に書かれています。たとえユダヤ人でなくても、信仰の道を歩み通すために、彼らの歩みを回顧することは大きな力や励ましそして慰めにもなるのです。だから、ここで民が神様に従って歩んだ旅を私たちも回顧して主の教えに従ってゆきましょう。それではそれぞれの部分のポイントをお話ししてゆこうと思います。


B. 約束の地に向かう旅路

1. 月曜日:永遠の契約 (1-11, 創世記15 )

主に感謝し、その名を呼べ。もろもろの民に主の業を知らせよ。 主に向かって歌い、主をほめ歌え。すべての奇しき業を語れ。 主の聖なる名を誇れ。主を求める者たちの心は喜べ。主とその力を求めよ。 常にその顔を尋ねよ。 主の行われた奇しき業を奇跡と主の口から出る裁きとを心に留めよ 主の僕アブラハムの子孫よ 主に選ばれたヤコブの子らよ。主こそ我らの神 その裁きは全地に及ぶ。主は心に留められる 主の契約をとこしえに 命じた言葉を幾千代にアブラハムと結んだ契約を イサクに対する誓いを。主はそれをヤコブのための掟 イスラエルのための永遠の契約として立て言われた「私はあなたにカナンの地を与えあなたがたの相続地とする」と。(1-11)

明日は今読んだ11節までと創世記の15章を読みます。ポイントは「契約」です。契約というと売買契約のように両者が責任を果たす双務契約(bilateral contract)を思い浮かべますが、神様のアブラハムにした契約は贈与のような、神様が一方的に責任を負う片務契約(unilateral contract)です。ですから神様がしてくださった約束と言ってもいいでしょう。そしてこの契約はアブラハムの子孫、つまり神に従うすべての者に与えられた契約です。それが私たちにとっても、信仰の旅の出発点なのです。ただし約束の地は、イエスの時代に生きる私たちにとっては「神の国の完成」(神様の完全な支配)です。


2. 火曜日:旅の始まり (12-15, 創世記17)

彼らが数少なく 数えるに足らず、その地に寄留していた頃 国から国へ 一つの王国から他の民へと歩いて行った。主は、彼らを虐げることを誰にも許さず 彼らのゆえに王たちを懲らしめた。 「わが油注がれた者たちに触れるな。 わが預言者たちに害を加えるな。」(12-15)

火曜日は12-15節と創世記の17章です。先に触れたように、イスラエルにご自身を表された神様は、アブラハムに対する契約がすべての人に及ぶ約束であることを言い表されました。しかし、そのときアブラハムは固有の土地も持たない、滅んでしまっても何の不思議もない小さな民族の父であり、周りの大きな国々に寄留するしかない者でした。皆さんもまた、この世界の生きづらさを覚えたからこそ主に従って歩む決心をされたのでしょう。とても心許ない出発でしたが、この小さな民を神様はその救いのシンボルとされました。私たちもまた、神と歩む自分の旅が、自分にとってばかりでなく周りの全ての人々の祝福につながる歩みでもあることを知ってください。


3. 水曜日:エジプトに向かう道 (16-22, 創世記37)

主はその地に飢饉を呼び パンの蓄えをことごとく絶った 主は一人の人を彼らより先に送った。ヨセフが奴隷として売られたのだ。人々はヨセフの足を足枷で痛めつけ 首には鉄の首輪をはめた。主の言葉が実現する時まで 主の仰せが彼を試した。王は人を送って彼を解き放ち もろもろの民の支配者が彼を自由にした。王は彼を王宮の頭とし すべての財産を管理する者とした。それは高官らをヨセフの思いのままにするため。ヨセフは長老たちに知恵を授けた。(16-22)

水曜日は16-22節と創世記の37章です。時代は進みアブラハムの孫ヤコブの時代です。ここでのキーパーソンはヤコブの子、ヨセフです。ヨセフの生涯は本当にドラマチックなものでした。ドラマが好きな人ならきっと創世記37章では止まらなくなって先まで読んでしまうと思います。人間の営み、思惑を遥かに超えて神様の意思が行われることを納得させられます。人の善意のみならず悪意までも用いて、神様は民の旅を導きます。良い時も悪い時も、主を信じて従ってゆく時に、豊かに与えられる恵みを実感できる箇所です。


4. 木曜日:エジプト寄留時代 (23-24, 創世記47)

イスラエルはエジプトに入り ヤコブはハムの地に寄留した。主はその民を大いに増やし 苦しめる者たちよりも強くした。(23-24)

木曜日は23-24節と創世記の47章です。寄留したイスラエルで、神様は民を繁栄させますが、それは当然エジプト人にとっては大きな脅威となることは容易に想像できます。もちろんまだ民は先に起こる大きな苦しみに気づいてはいません。エジプトでの生活をエンジョイしていました。日本も繁栄の時を経験しました。最近二十代の牧師の話を聞く機会があったのですが、彼の世代は、日本の成長を経験していません。どんどん貧しくなる、生活が苦しくなる国という印象しかないのです。だからこその社会を見る視点、これからの教会を考える視点を教えられました。苦しければそこは仮の住まいという視点を失わずに済みますが、繁栄の中にいればそこが永住の地に見えてしまいます。


5. 金曜日:出エジプト (25-38, 出エジプト14)

主は彼らの心を変えて、主の民を憎ませ 主の僕たちに対して悪だくみをさせた。主は僕モーセを遣わし アロンを選んで遣わした。二人は人々の間で主のしるしの業を ハムの地で奇跡を行った。主は闇を送って地を闇としたが 彼らは主の言葉に逆らわなかった。主は水を血に変え 魚を死なせた。彼らの地には蛙が群がり 王宮の部屋にまで押し寄せた。 主が命じられると あぶやぶよが国中に襲来した。 主は雨に代えて雷を降らせ 彼らの地に燃える火を下した。 ぶどうといちじくの木を打ち 国中の木を折り砕いた。主が命じられると群がるばったと若いぱったが襲来して 数えきれないほどになった。それらは彼らの地の青草を食い尽くし 大地の実りを食い尽くした。主は彼らの地のすべての初子 すべての力の初めを打った。主は銀と金を持たせて民を導き出した。どの部族にも落伍する者はいなかった。エジプトは民が去るのを喜んだ。恐怖が彼らを襲っていたからである。(25-38)

金曜日は25-38節と出エジプト記の14章です。この時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷の身分とされ苦しみの中にありました。神様はモーセを立てて民を約束の地に導き出しますが、エジプトは奴隷の労働力を惜しんで、なかなか彼らを解放しようとはしません。最後の最後まで民の危険は続きます。民もまた殺されるくらいならエジプトで奴隷の状態でいた方がマシだと考えるほどの恐怖にさいなまれながらの出エジプトだったのです。私たちの出エジプトは精神的なものです。国境を超えてどこかに行くわけではありません。イエスを主としない人々の中で、彼らに背を向けるのではなくむしろ助け、協力して世界に平等と平和をもたらすことに努めます。外見は何も変わりません。違うところは私たちが主の意思を求め、導きを求め、助けを求めて歩むという点なのです。


6. 土曜日:カナンへの道 (39-45, ヨシュア記1)

主は雲を広げて覆いとし 火をもって夜を照らした。民が求めると、主はうずらを来させ 天のパンをもって彼らを飽きさせた。 主が岩を開くと、水がほとばしり 川となって乾いた地を流れた。僕アブラハムに与えた 聖なる言葉を思い出したからである。主は民を喜びのうちに 選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。「彼らに国々の土地を与え 彼らは諸国民の労苦の実りを“わが物とした。これは彼らが主の掟を守り 主の教えに従うためである。ハレルヤ。(39-45)

土曜日は39-45節とヨシュア記の1章です。エジプトを出た時、ほとんどの民は短い旅ですぐにカナンに到着できると思っていました実際には40年待たされました。当然旅の中で世代交代が行われました。モーセも自身は約束の地に生きて入ることはできませんでした。この予想外の時代を民はどのように過ごしたのでしょうか?私たちにとってのカナンは神の国の完成だと最初にお話ししました。人類の地上の営みを見てもそれが近いどころか破滅に向かっているようにさえ見えています。しかし主は導き続け民はカナンに入ったのです。いつの時代にあっても、私たちの主は「雲を広げて覆いとし 火をもって夜を照らす」ようにして私たちを導いてくださいます。

(祈り)主よ、私たち一人一人の前にご自身を表してくださり、あなたの約束を理解させてくださってありがとうございます。あなたについていくという確信を与え、今も変わらずに導いていてくださることをありがとうございます。それでも、恐れ、不平を言い、あなたを疑ってしまう私たちを赦してください。あなたを信頼して、あなたのように愛することを心がけ、あなたの思いがこの世界に少しでも表されるように私たちを用いてください。あなたの恵みを感謝して、あなたを心から礼拝し、ほめたたえる者としてあゆみ続けさせてください。


メッセージのポイント

神様の恵みでさえ、水や空気の大切さと同様に慣れてしまい、喜べないものに目を向けてしまいがちです。神様の声よりも、それ以外のノイズが耳に付いて心が重くなります。しかし、世私たちは皆、信仰の旅路を歩んでいます。イスラエルの民が神様に導かれた過去の恵みを賛美する礼拝を捧げたように、私たちも恵みを思い起こしながら礼拝し、さらに神の国を目指して歩み続ける力をいただきましょう。


話し合いのために

1)なぜ過去の恵みを覚え、歌うべきなのですか?
2)自分の信仰の旅路で最も印象に残っているのはどのような出来事ですか?


子供たちのために(保護者のために)

ぜひ子供と一緒に、今週の聖書の日課を読む時を持ち、わかりにくいところは易しい言葉で説明してあげてください。